譲れないもの
それから一ヶ月あまり、志穂子は災難の連続だった。千夏は完全にリュウのことに気を取られてしまっているのか、試験勉強にもまったく身が入っていないようだった。自分のせいで千夏が受験に失敗でもしたら目も当てられない。志穂子は何とか千夏をなだめすかして机に向かわせなければならなかった。
そうして二月を迎え、何とか試験が終わったところで今度はウェアの問題が発生した。千夏は当然スノーウェアなど持っておらず、志穂子は一緒にウェアを買いに行ったのだが、千夏は志穂子が勧めるウェアを頑として着ようとしなかった。千夏が自分で探してきたウェアはスカートにレギンスといった『山ガール』ファッションを意識したものばかりで、とても雪山に登れる格好ではなかった。だが、志穂子がその格好じゃ凍傷になると言っても千夏は一向に聞こうとしなかった。
「だってイケメンに会いに行くんだよ?そんなダサい格好してられないじゃん!」
平行線の話し合いを続けた結果、一番厚手のスカートとレギンス、それにレッグウォーマーを購入することで妥協した。浮き浮きと清算を済ませる千夏を志穂子はため息まじりに見つめた。こんなことで本当に大丈夫なのだろうか。
その後は土日を目の前にするたびに浮足立っていた千夏だったが、あいにく天気の悪い日が数週間にわたって続き、予定はどんどん先送りになっていった。テレビの天気予報を見るたび千夏はキャスターに向かって悪態をついたが、志穂子は内心ほっとしていた。このまま天気が悪い日が続けば、そのうち千夏が他にいい人を見つけて諦めてくれるかもしれないと思ったのだ。だが千夏は意外としぶとく、てるてる坊主を何個もこしらえては、せっせとそれを部屋の窓にぶら下げていた。
そんな千夏の願いがとうとう通じたのか、三月に入った最初の土曜日、天気予報が百%の確率で快晴を示し、千夏は手のひらを返したようにそのキャスターを褒めそやした。受験の結果はすでに出ていたが、本人はほとんど気にしていないみたいだった。そんな妹の姿を志穂子はため息まじりに眺めていた。その情熱を少しでも勉強に向けることが出来れば、すべり止めの大学しか受からないなんて結果にはならなかったかもしれないのに。
そんな波乱の一か月を終え、二人はとうとう霜ヶ峰の麓まで来ていた。初めての雪山の寒さがかなり応えているのか、千夏は何度も両手を擦り合わせながら小刻みに白い息を吐き出していた。
「大丈夫?やっぱりその格好じゃ寒いんじゃない?」
志穂子が後ろを歩く千夏を振り返った。ショッキングピンクのスノーウェアに黒のニット帽と毛糸の手袋という上半身の格好はいいとして、スカートにレギンス、レッグウォーマーにショート丈のスノーシューズという下半身の格好はやはり寒そうだ。
「だ、大丈夫。イケメンに会うんだもん。これくらい平気だって…。」
千夏がぶるぶると身体を震わせながら答えた。まったく説得力がない。
そうして二人は霜ヶ峰へと登り始めた。ロープウェイに乗り、一気に山頂近くまで登る。だがロープウェイを降りたところにリュウの姿はなく、志穂子は不思議そうに辺りを見回した。
「ねぇ志穂、どこにイケメンがいんの?っていうか人いなくない?」
千夏が後ろから声をかけてきた。見なくても不満げな顔をしているのがわかる。
「おかしいな…。いつもはだいだいここで待っててくれてるんだけど、どこ行っちゃったんだろ…。」
「えー、ちょっと勘弁してよ!せっかくこんな重い荷物しょって寒い中歩いてきたのに、何しに来たかわかんないじゃん!」
千夏が文句を垂れた。まだいくらも歩いていないではないかと志穂子は突っ込みたくなったが、黙っておいた。
「私一人じゃないから見えないとか?まさか雪に埋もれてるとかないよね…。」
「ちょっと、何一人でぶつぶつ言ってんの!」
千夏がそう叫んだ時だった。不意に前方から人の気配がして、志穂子と千夏は顔を上げた。たった今噂をしていたリュウが、茶色のロングコートのポケットに手を突っ込んで二人を見つめていた。そのままCDのジャケットにでも使えそうなスタイリッシュな佇まいだ。
「ね、志穂!ちょっと何あれ!超カッコいいんですけど!」
千夏が志穂子のウェアの袖を掴み、興奮した様子で叫んだ。寒さも荷物の重さも一瞬で吹っ飛んでしまったようだ。志穂子はため息をついて眉を下げた。残念なことに、千夏にもリュウの姿は見えてしまっているらしい。
そうしている間にもリュウはゆっくりと雪道を降りてきて、志穂子達の眼前に立った。
「久しぶりだね、志穂子。ここのところ来なかったから、どうしてたのかと思ってたよ。」「ごめんね、本当は来たかったんだけど、しばらく天気が悪かったから。でも今日は晴れてよかった。」
志穂子はそう言って空を見上げた。世界の果てまで澄み渡るような
「そうだね、それで、そちらの人は…?」
リュウがそう言って千夏の方を覗きこんだのと、千夏が志穂子の前に進み出たのが同時だった。
「あの!あたし、深山千夏って言います!あたしも山がすっごい好きで!やっぱ実際見てきれーって感動してたとこで!」
千夏が早口でまくし立てた。声が普段より一オクターブくらい高い。その変わり身の早さに志穂子は舌を巻いた。
「そう。じゃあこの子は、志穂子の妹さん?」リュウが志穂子に尋ねた。
「そうなんです!お姉ちゃんに頼んで連れてきてもらって!でも来てよかった!こんな素敵な人に出会えるなんて、あたし超ラッキー!」
千夏が志穂子より早く答えた。リュウの手を両手で取り、それをぎゅっと握り締める。志穂子は胸がちくりと痛むのを感じた。
「ね、あなたこの山に詳しいんですよね?だったらあたしのこと案内してもらえませんか?あたし山登りって初めてだから、どうしていいか全然わかんなくって!」
千夏が甲高い声で言い、リュウの手に自分の腕を絡ませた。リュウが困惑したように志穂子を見た。志穂子はしばらくためらっていたが、やがて笑みを作って言った。
「リュウ、行ってあげて。私は一人でも大丈夫だから。」
リュウがますます困惑して眉を下げた。志穂子はなるべく平静に聞こえるように言った。
「なっちゃんにあなたのことを話したら、どうしてもあなたに会いたいって言ってきたの。この子運動なんてほとんどしないのに、わざわざウェアまで買って、こうやって登ってきて。それだけあなたに会いたかったってことよね。だから…、その、しばらく二人でいてもらった方がいいのかなって。」
言いながら、志穂子はまたしても胸がちくりと痛むのを感じた。嫌だ、本当は行ってほしくなんかない。久しぶりに会えたのだ。話したいことがたくさんある。あの山頂からの光景だって、本当はリュウと二人で眺めたい。心はそう叫んでいるのに、口から出てくるのは裏腹の言葉ばかりだった。
「…わかった。」リュウがぽつりと言った。
「先に山頂に行っているよ。志穂子も後から追ってきてくれるよね?」
リュウはそう言って志穂子を見つめてきた。出来るだけ早く来て欲しいと訴えているかのようだ。志穂子はなるべく自然な笑みを作って頷いた。
「ね、リュウさん。早く行こうよ!」
千夏がリュウの腕を引っ張った。志穂子のことなんか頭から抜け落ちてしまっているみたいだ。リュウは今一度ちらりと志穂子を見たが、すぐに諦めたように肩を落とすと、千夏と共に歩いて行ってしまった。
二人の姿が遠ざかっていき、雪原の彼方に消えたところで志穂子は大きく息をついた。いつものパターンだ。千夏に押し切られ、思ってもいないことを口にして二人を結びつけて、それで自分はすごすごと引き下がってしまう。そんな自分が志穂子は嫌いだった。本当はもっと思っていることを言いたい。自分だってずっとリュウに会えなくて寂しかったとか、一緒に山頂からの景色を眺めたかったとか。でも千夏を前にするといつも言えなくなってしまう。
志穂子と千夏は決して仲が悪いわけではない。一緒に買い物に行くこともあるし、家にいる時は千夏の友達やら彼氏やらの話を延々と聞いてやっていた。ただ千夏の方はろくに志穂子の話を聞きもせず、自分の言いたいことをあらかた喋ってしまうと、さっさと別の誰かのところに行ってしまうのが常だった。例外は志穂子の周りに格好いい男の子がいる時だ。クラスメイトとか、陸上部の先輩とか。そういう人が身近にいる時に限って千夏は志穂子にすり寄ってきては、誰々を紹介してくれてとせがむのだった。もちろん断ることは出来た。二人の間を取り持ったところで志穂子には何のメリットもない。自分が体よく利用されているだけだという自覚もある。それでも志穂子は、どうしても千夏の頼みを断ることは出来なかった。たぶん、千夏に嫌われることを怖れていたからだろう。都合のいい時だけすり寄ってくる妹であっても、志穂子が言葉を交わすことの出来る数少ない人間であることには変わりない。変わり者としてクラスで孤立していた志穂子にとっては、まともに口を聞いてくれる人間を一人失うことはひどく怖ろしいことだったのだ。
誰もいなくなった雪原を志穂子は眺めた。これからどうしようか。一人でこの辺りの道を歩いてしばらく時間を潰そうか。だいたいどのくらいの時間をかければいいのだろう。山頂までの道はもう覚えているから迷うことはない。二十分くらい歩いて、それから自分も二人を追いかければいいだろうか。でもあんまり早く行くと千夏は嫌がるかもしれない。せっかくリュウと二人で過ごしていたところを邪魔されたと思って、金輪際志穂子と口を聞いてくれなくなるかもしれない。それは避けたかった。でもじゃあどうすればいいだろう。いっそ山頂には行かずに二人が戻ってくるまで待っていようか。さすがに日が暮れるころには戻ってくるだろうし、そうしたら千夏は一日上機嫌でいられるだろう。リュウとどんな話をしたかを、事細かに志穂子に聞かせてくるかもしれない。自分はどんな顔でそれを聞くのだろう。さっきみたいに作り笑いを浮かべて、何でもないような顔をして相槌を打つのだろうか。
嫌だ、と志穂子は思った。そんな風に自分を押し殺して、妹の顔色ばかり窺って、それでいったい何になるのだろう。今まではそれでもよかった。相手の男の子がどれだけ格好いい人だろうと、自分には端から関係がないものと思って諦めがついた。でも今回は違う。リュウは、志穂子が生まれて初めて出会った、どうしても失いたくないと思える存在だった。山を愛する志穂子を否定せず、初めてありのままの自分を受け入れてくれた存在だった。もちろんリュウは山の精霊だから、山を愛する志穂子を受け入れてくれることは当たり前なのかもしれない。だけど志穂子は、そのままの自分でいいと言ってくれたリュウの言葉に、どれほど救われたか知れなかった。人と違うことでからかわれ、バカにされ、孤独な人生を歩んできた志穂子にとって、リュウの言葉は乾いた地面に降り注ぐ慈雨のように、じんわりと心に染みわたっていったのだった。
志穂子は顔を上げると、まっすぐに山頂への道を歩き始めた。迷いはなかった。もうこれ以上、自分の本当の気持ちを隠して生きたくはなかった。
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