募る想い
志穂子はそれから毎週のように霜ヶ峰に来るようになった。晴れの日も、曇りの日も。雨や雪の日はさすがに行かなかったが、そんな時には志穂子の心は山への郷愁でいっぱいになった。自分の部屋の窓から外を吹き荒ぶ大雪を見るたび、志穂子の心はたちまち霜ヶ峰の光景に吸い寄せられていった。山は今、どうなっているのだろう。あの一面に広がる白樺の木は、この猛吹雪の中で折れてしまっていないだろうか。それにリュウのことも心配だった。もちろんリュウは精霊だから、吹雪だろうが遭難することはない。でもきっと、誰もいない山の中でじっと身を潜めているのはさぞ寂しいだろう。そんなことを考えていると、志穂子は一刻も早く山に登ってリュウに会いたくなった。リュウに会っていろいろな話をしたかった。変わり者の精霊。だけど、彼と共に時間を過ごしていると、志穂子は不思議と心が休まるのだった。きっと、山を好きな自分をバカにしないからだろう。
志穂子は友達が少なかった。同級生の女の子が映画やカラオケなどの手近な楽しみに夢中になる中で、志穂子だけが一心に雪山への情熱を掲げ続けていた。当然話が合うわけもなく、気がつくと志穂子はクラスで浮いた存在になっていた。一人が寂しくなかったわけではない。ただ、安易に他の同級生に話を合わせて、自分の中で大切なものを見失いたくはなかった。だから志穂子は雪山への情熱を捨てようとはしなかった。バカにされ、からかわれたことも何度もあったけれど、それでも自分の考えを引っ込めはしなかった。
中学に上がり、陸上部に入ってからも事態はあまり変わらなかった。駅伝やインターハイといったわかりやすい目標を持っていた子はたくさんいたが、山に登る体力をつけるために陸上をやっていたのは志穂子くらいだった。だからクラブでも結局友達は出来なかった。当時の担任は随分そのことを心配したものだ。
『深山さん、好きなものを大切にするのはいいことだけど、もうちょっと周りに合わせてみてもいいんじゃない?』
面談ではよくそんなことを言われた。でも志穂子には、言われたことの意味がよくわからなかった。周りに合わせるとはどういうことだろう。自分が雪山に思いを馳せていることを隠して、他の子と同じものに興味を持てということだろうか。でも、どうしてそんなことをしなければならないのか志穂子にはわからなかった。
母親にもよく叱られた。妹の千夏ちなつがイケメン俳優に夢中になる傍らで、志穂子はいつも山のドキュメンタリー番組を夢中になって見ていた。そんな志穂子の姿を見て、母親はよくため息をついたものだ。
『まったく、何でこんな変わった子に育っちゃったんだろうねぇ。もっと普通のことに関心持ってくれればいいのにさ。』
その言葉は志穂子にも聞こえていたが、志穂子は構わなかった。「普通のこと」というのが何を指すのか、志穂子にはよくわからなかった。イケメン俳優よりも雪山にときめくのは「普通」ではないのか、それがどうしていけないことなのか、志穂子にはわからなかった。
家族の中で、志穂子の味方になってくれたのは父だけだった。志穂子の言動にため息をつく母親に対し、父はよくこんな風にたしなめたものだ。
『なぁお前、別に女の子がみんな千夏みたいじゃなくたっていいだろう。志穂子みたいに、山が好きな女の子がいたっていいじゃないか。』
『でもねぇ、あんた。この子はそのせいで友達がいないのよ?別に何を好きだっていいけど、もうちょっと周りに合わせることも覚えないとこの先苦労するわよ。』
『別に合わせなくたっていいじゃないか。好きなものは好きなんだ。それを隠す必要なんかない。バカにする奴には言わせておいて、堂々としていればいいんだ。』
父のその言葉を聞くたび、志穂子はまるで底なし沼から引き揚げられたかのような気持ちになれた。そうだ、自分は自分なのだ。好きなものを隠す必要なんかない。周りに何を言われたって堂々としていればいい。
ただ、それでも時々ふと考えることがある。自分はどうしてこんなに「普通」じゃないんだろうと。志穂子だって山以外のものにまったく興味がないわけじゃない。メイクやファッションには興味がなくても、格好いい男の子を前にすれば胸がときめくことだってある。だから学校で、クラスの女の子が格好いい先輩と並んで歩いているのを見た時なんかは単純に羨ましかった。でもそういうことは自分には縁がないことだと思っていた。もっと可愛くて「普通」な女の子は他にいくらだっている。山のことしか頭にない変な女の子を相手にしてくれる人なんてどこにもいない。だから志穂子は、今まで人を好きになったことはあっても、恋愛と呼べるものをしたことは一度もないのだった。
志穂子はリュウのことを考えた。彼のスマートな茶色のロングコートや、日の光に照らされたベージュの髪や、澄んだスカイブルーの瞳のことを思った。もしリュウが人間の男性だったらどんなに素敵だっただろう。同じ景色を見て、同じように感動を覚えて、いつまでもその記憶をお互いの心に留めておける。そんな関係になれたらどれほどよかっただろう。でもそれは無理だ。だってリュウは精霊なのだ。今はたまたま人間の姿をしているから会うこともできるけれど、本来ならいつどこで消えてしまうかもわからない存在なのだ。そんなものに心を寄せたところで後が辛くなるだけだ。それはわかっているはずなのに、志穂子は気がつくとリュウのことを考えていた。あの山に行きたいと思う以上に、リュウに会いたいという気持ちの方が今や強くなっていた。
「ねぇ志穂、最近なんかいいことあった?」
志穂子がリビングの机に頬杖を突いていると、横から千夏が話しかけてきた。来年から大学一年生になる志穂子の妹。茶髪のショートヘアに金色のピアスという外見は、まだ高校生なのに校則に引っかからないのだろうかと志穂子はいつも心配になる。
「別に普通だけど、何で?」
「だって志穂、最近なんか機嫌いいじゃん。毎週どっか行ってるし。もしかして男できた?」千夏が興味津々の様子で尋ねてきた。
「違うよ。山に行ってるだけ。」
「なーんだ、つまんないの。大学でいい人見つけたのかと思ったのに。」
千夏が急に興味をなくした顔になった。志穂子は苦笑した。千夏は志穂子とは全然タイプが違う。登山はおろか、運動にもまったく興味がない。関心があるのは美容にファッション、それに格好いい男の子の話題だけだ。
「なっちゃん、それより勉強はいいの?試験、近いんでしょ?」
志穂子が尋ねた。千夏は東京にある私立大学への進学を希望している。キャンパスがお洒落なことと、学生の顔面偏差値が高いことで有名な大学だ。今は一月の下旬、もう試験は目前に迫っているはずなのだが、妹の様子に焦りは微塵も感じられない。
「今日はやる気出ないからいいの。ね、それよりさ、本当に何もないの?だって志穂、こんなに頻繁に出かけることなんかなかったじゃん。本当にただ山見に行ってるだけ?」
千夏が諦めきれない様子で尋ねてきた。よほど勉強から目を背けたいのだろう。
「…まぁ、確かに景色以外にもあるけど…。」志穂子は渋々認めた。
「やっぱり!絶対男でしょ!何、山でカッコいい人に会ったの!?ね、教えてよ!どんな人?」
千夏が思いっきり食いついてきた。言ったそばから志穂子は後悔した。
「まぁ…、見た目は確かに格好いいかな。スマートだけど、ちょっと物憂げな感じで。」
「何それ、超いいじゃん!ね、あたしにも会わせてよ!」
「でも、なっちゃん山になんか興味ないでしょ。」
「山にはないけどイケメンにはあるの!ね、おねがーい!」
千夏ががくがくと志穂子の肩を揺さぶった。志穂子はため息をついた。千夏のこの行動は今に始まったことではない。小学生の頃からずっとそうだった。志穂子に少しでも気になる人ができると、麻薬取締犬のように素早くそれを嗅ぎつけ、手品師顔負けの早業で自分のものにしてしまう。志穂子の恋愛経験がないのはそこにも一因があった。
「でも、ほら、その人に会おうと思ったら、山に登らないといけないんだよ?雪山って大変だよ?上から下まで厚着しなきゃいけないし、重い荷物背負って歩かなきゃいけないし、なっちゃん運動なんて普段しないでしょ?」
「しないけど!だってずるいじゃん!志穂ばっかりカッコいい人と会って!あたしなんか受験勉強ばっかでもろくに遊びにも行けないのにさ。ちょっとくらい羽伸ばさせてくれたっていいじゃん!」
「でもその人、何て言うかちょっと特殊だから、なっちゃんには合わないんじゃないかな…。」
「そんなのわかんないじゃん!ね、あたしも連れてってよー!」
志穂子はまたしてもため息をついた。妹がこうなったら会うまでは絶対に引き下がらないことは経験から知っている。
「わかった。でも今はダメ。大事な時期なんだから、試験終わるまでは勉強に専念すること。山に登るのはそれから、いい?」
「…はーい。」
千夏は思いっきり不満そうに言うと、ぶつぶつ文句を言いながら自分の部屋へと戻って行った。志穂子はその背中を見ながら三度目のため息をついた。せっかく手に入れた居心地のいい場所が、早くも失われようとしていた。
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