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さて、とある帰り道だ。
その日はコーヒー専門店に忍び込んで
バカみたいにたくさんの種類のコーヒーを飲み倒した後で、
僕は胃もたれと動悸に苦しめられていた。
「少年」と唐突に、隣を歩く彼女は僕に呼び掛けた。
「そろそろやりたいことは見つかったかい」
「別に」
「もう『別に』回数は優に三桁超えだぞ、
ここがプレステ4の世界なら実績解除してるとこだ」
「現実世界で良かった」
「じゃあ後でトロフィー作ってあげるね」
「要らねえ」
「で、本当になにもないのかい?
衝撃与えたらなにか出てこないかな」
「歩きながらリズミカルに尻を蹴るの
止めてもらっていいですか」
べしんべしんとケツに伝わる彼女の蹴りを感じながら、
何故だろう、僕はとある言葉をポロッと漏らしていた。
「学校」
「うん?」
彼女の蹴りが止まった。
「いまなんか言ったよね」
僕は押し黙った。
いや、言いたくなくなったってわけじゃない。
口を滑らせたあと、果たして何を言いたかったのか、
自分でよく分からなくなったんだ。
学校?
別に学校で何かあったってわけじゃない。
僕はイジメやトラブルには無縁の生活を送っていた。
楽しいことも特にはなかったけどね。
「黙秘するな、もうこの世界に黙秘権なんて残されてないんだぞ」
「人権に尊重しろよ」
「もはや社会そのものがないのに人権なあるものか」
「横暴だ」
「教えてよ」
改めて、彼女は言った。
「君のやりたいことってなに?」
僕は唸った。
僕は何をしたいんだ?
考え込む。
学校。
学校を。
「……学校を」
「学校を?」
その後にしっくりくる言葉を探して、
さんざっぱら悩んだ挙げ句に、僕は言った。
僕は、学校を。
「学校を、燃やしてやりたい」
彼女はきょとんとした顔をして、
それから、口を大きくゆがませてにぃと笑った。
「それは素晴らしいアイデアだね」
***
何故だか自分でもよくわからないけど、
なるほど僕は、学校を燃やしてみたかったらしい。
なので僕たちは、
学校を燃やすことにした。
それはもう派手に。
天まで炎が届くくらいに。
***
と、いうわけで僕らは念入りに準備をした。
ちょっと前の未遂に終わった花火の反省を活かしたってわけだ。
人は成長する。
素晴らしいね。
通っていた高校と最寄りのホームセンターとの間を
何度も何度も台車で往復して、
僕らはありったけの着火剤を学校に運んだ。
ジェル状のものを廊下や階段に引いて火の通り道を作り、
固形のものは教室や部屋の中にバラまいた。
それだけでは物足りない気がして、
学校に残っていた燃えそうなものはなんでもかんでもぶちまけた。
誰かのテストの答案も。
誰かの野球のユニフォームも。
誰かの描いた絵も。
全部。
最後に油と着火剤を塗りつけた木綿のロープを
校舎の中に伸ばしておいて、導火線の完成だ。
朝から取り掛かったこの準備が一段落ついたのは、
もう陽も落ちかけた時刻になってからだった。
「絶好の放火日和だ」と、
物騒極まりないセリフを彼女が言った。
この日は昼から雲一つない快晴だった。
夕暮れの空は蒼から茜の綺麗なグラデーションに染まっていて、
それを背負って建つ薄暗い校舎はやけに荘厳に見えた。
「じゃ、燃やすか」
散歩に行くみたいな、気軽な調子で彼女は言う。
「君が火をつけるんだろう?」
僕は頷く。
右手の大型ライターをカチカチ鳴らす。
校舎の前に座り込んで、
転がしてあるロープを手に取る。
ライターを近くに寄せる。
着火。
自分でも意外なほど、
躊躇いも、逡巡もなく、気軽に。
ロープを放り投げ、急いで離れて、僕らは校庭まで避難する。
赤い火がロープを伝って、校舎内に忍び込むのを確認する。
「どうだった?」と彼女は聞いた。
「達成感があったとか、すっとしたとか」
「まだ何も」と僕は言う。
「炎が上がりだしたら、何か変わるかもな」
そして、僕らは待った。
黒い煙が少しずつ、少しずつ窓から漏れ始めた。
やがてその量が増していくと、窓ガラス越しにちらほらと
赤く踊る炎が見えるようになった。
それは事前に想定していた、
校舎全体が激しく燃え上がるような破滅的な大火災ではなくって、
組み木の中で穏やかに燃える、統制された炎に見えた。
「思っていたほど爽快ではないね」
彼女は言って、僕は頷いた。
「どうする? 一応目的は達成したけど」
「もう少し眺めてる」と僕は答えた。
校庭のど真ん中に寝っ転がって、穏やかに赤く染まりながら
煙をたどたどしく吐き出す校舎の姿を見ていた。
これに、僕はいったい何を期待していたんだろう?
僕の人生のつまらなさを、
この炎が焼き尽くしてくれるとでも思っていたのだろうか。
***
いつの間にか寝入っていた。
目をこすって体を起こす。
どれくらい経ったのだろうか、陽はすっかり落ちていた。
校舎を覆う炎は激しさを増して、何かが爆ぜる音が間断なく響き、
黒い煙は蒸気機関車のように噴き出されていた。
「よくもまあ、眠れるもんだね」
隣に座っていた彼女は言った。
「ごらん」彼女の指が空を差す。
「野次馬が来てる」
空を見上げる。
そこには天使たちの姿が見えた。
炎に照らされて赤く染まる空。
その中を天使たちが舞う。
久しぶりに見る、僕と彼女以外の生き物の姿だった。
いや、彼らを生き物って呼んでいいのかわからないけどさ。
十人以上はいるだろうか。
遠目で見てもそれとわかるような、美男美女ばかりで。
いやに神秘的な雰囲気をまとって。
誰も彼が文字通り天使みたいな笑顔を浮かべて、
優雅に空を飛びながら、校舎の炎を眺めてた。
綺麗な光景だと思うかい?
僕には街灯に集る羽虫に見えたね。
で、気付いたら僕は立ち上がって、
ブチ切れてた。
「ふざけんな!」
あまりにも大きな怒鳴り声に自分で驚いてしまったくらいだ。
一瞬だけ我に返って、それでも僕の怒りは収まらなかった。
「何を見に来てんだよ!
お前らはこっから逃げたんだろ、離れたんだろうが!
いまさら、何を戻ってきてるんだよ!」
全力で僕は叫んだ。
「お前らはずっと楽しそうだっただろうが!
別に天使になんかならなくても!
地面にいたまんまでも!
僕とは関係のないところで、
ずっと楽しそうに笑ってたろうが!
向こうでよろしくやってろよ!
こっちを見にくんな!
僕を見てんじゃねえよ!」
大きく息を吸う。
涙がにじむ。
今まで一番の怒鳴り声をあげる。
「この炎は、この炎だけは僕のもんだ!」
膝に手をついて、僕は荒く呼吸をする。
袖で目をぬぐう。
拭いても拭いても、なぜだか涙がにじみ出てくる。
「そっか」
いつの間にか傍らに立っていた彼女が、
優しく言う。
「君は怒りたかったんだね」
「そんなことねえよ」と反射的に言う。
それから、少し間を空けて、
「そうかもしれない」と僕は言う。
***
「致命的な何かがあったわけじゃない」
僕は、ぽつぽつと語りだす。
「別にイジメられてたわけでもないし、
家庭がぶっ壊れてたわけでもない。
具体的な原因は一つもないのに、
それでもなぜか、高校に入ってからくらいかな。
妙に全部がうまくいかなくなった」
彼女は頷く。
「しらけちゃったんだよ僕は。
学校も部活も友達もマンガもアニメも全部、
急にあらゆるものがつまらなくなった。
何も楽しくなかったし、何もやりたくなくなった。
で、全部ちゃんとやらなくなった。
するとまた、更につまらなくなるんだよ。
ぼんやりとした膜に包まれてるみたいだった。
どうやったら外に出て行けるのかわからなかった。
僕の人生は、緩慢な絶望だったんだ」
彼女は頷く。
「周りの奴らはそんなことに関係なくずっと楽しそうでさ。
気づいたら僕は誰にもついていけなくなって。
何に怒ればいいのかもわからなかった。
何を悲しめばいいのかもわからなかった。
ただ一つだけ分かってたのは、
僕の怒りも悲しみも、他の誰のせいではなかったし、
僕の絶望はすべて僕の怠慢の自己責任だ、ってことだった」
彼女は頷く。
「決定的な何かが起これば、少しは変わると思ってた。
例えば世界が終わってくれれば、
僕を覆う絶望が少しは晴れてくれると思ったんだ。
で、本当に世界は終わった。
だけどやっぱり、何も変わらなくて。
みんな僕を放ってどこかに行って。
相変わらず僕は全部つまらないままで。
何をやりたくて何をすればいいのかわからないまま、
ここにずっと取り残されてた」
彼女は頷く。
「なあ、幽霊なんだろ僕らは。
いったいなんだったって、
こんなところに僕は置いてけぼりなんだ。
僕はもうこんな人生ごめんなんだよ。
こんな僕に、何の未練が残されてるっていうんだよ」
彼女は優しく言う。
優しく。
だけど突き放して。
「知らないよ、そんなこと」
僕は黙る。
彼女は言葉を続ける。
「君のことなんて私は知らないし、知ったこっちゃないよ。
でも、これだけは言ってあげよう。
ねえ、何をやってもいいんだ。
何になってもいいんだよ。
君には全てに挑戦する権利があり、全てに失敗する権利がある。
君には全てを楽しむ権利があり、全てに怒る権利がある。
もちろん全てのほうも君に対して怒る権利があるから、
怒られることもあるかもしれない。
でもそれは些細なことだ。ちっぽけな割合だよ。
君の行く道を阻むものじゃない」
うつむいたままの僕の頭を、
彼女は柔らかく撫でる。
「この世界で何をやりたいのか、確かめること。
それが君の未練なんじゃないのかな」
僕は泣く。
静かに。
だけどとどまることなく、ずっと。
その間、彼女は僕の頭を撫でていてくれた。
***
ようやく涙が収まったころ、
彼女の手を払って僕は身体を起こす。
「大丈夫?」と尋ねる彼女に、
「大丈夫」と僕は返す。
それから僕は言う。
「あんたもさ」
これは少し意地が悪いかもしれない。
「勝手に弟を僕に重ねて、面倒を見るのをやめなよ。
僕はあんたの弟じゃないし、代わりにはなれないんだから」
でもあんだけ泣き顔を見られたんだ。
ちょっとした、意趣返しってことで。
「……バレてた?」
バツが悪そうに、頭をかきながら彼女は言う。
「なんとなく」と僕は言う。
「天使化じゃないんだろ。
たぶん、交通事故で亡くなったんだ。
あんたはやけに車を嫌ってたし」
「ご名答」と彼女は両手を挙げる。
「弟は君に少し似ていた。
顔とか背格好じゃないくて。
年齢と、あと雰囲気がね。
幼いころはお姉ちゃんっ子で可愛かったもんだけど、
大きくなってからはずっとむっつりしててさ。
この世に楽しいことなんて一つもありませんみたいな、
不愛想で不細工なツラをしてた。
ちょうど君みたいな、ね」
言い返したいが、我慢して黙っておく。
「弟が何考えてるのか、
気付いたら私には全然わからなくなっててね。
天使化が始まるちょっと前だったかな。
ある日の深夜、あいつは無免許のくせに家の車に勝手に乗り込んで。
真っ暗な道を暴走して、交差点の電柱とガードレールに突っ込んだ。
で、死んだ。
何をやりたかったんだろうね、あいつは。
誰も巻き込まなかったことだけが幸いだったよ」
「それが、あんたが歌ってたあの交差点か」
「意外と君は勘が良いね」
「意外と、は余計だよ」
「So, Bye-Bye, Miss American Pie.
あの歌は、弟が妙に気に入っててね。
ちっちゃい頃から頑張って、歌詞覚えて歌ってた」
彼女は話を続ける。
「私は弟に伝えたかったんだ。
この世の中には楽しいことがたくさんあるって。
私は知りたかったんだ。
弟が何を考えていて、
それでどうすれば昔みたいに笑ってくれるのか。
今となって叶えようがない、それが私の未練だったんだ」
「伝えればいいじゃん」と僕は言う。
「一発ひっぱたいて、そっから話を聞いてやればいい」
彼女は怪訝そうに僕の顔を見る。
「向こう側に、きっといるだろ。
天使がいる場所は天国だって、
相場が決まってるんだから。
絶対、会えるよ」
「そうだね」
彼女は静かに笑う。
「そうかもしれないね」
しばらく、二人して黙って突っ立ったまま、
燃え続ける校舎とその周りを飛び交う天使たちを眺めていた。
帰るかと呟いて、僕は踵を返す。
「もういいのかい」彼女は言う。
「別にいいよ」歩きながら僕は手を振る。
「もう一度見たくなったら、もっかい燃やすことにする」
「その意気だ」と彼女は笑う。
彼女も振り返り、僕の隣に並ぶ。
「じゃあ、やろうか」彼女は言う。
「何を」
「決まってるだろ」
彼女は笑う。
たぶん、今まで一番悪い顔で。
「何かをやり終えたら、
打上げをするもんさ」
***
正直な話、それからのことはよく覚えていない。
だけど彼女の家のリビングで一晩中、
いろんなお酒を二人でしこたま飲み漁ったってことは確からしい。
***
で、翌朝。
わけわかんないくらいの頭痛と気持ち悪さに襲われつつ、
やっとの思いで僕が身体を起こすと、
やっぱり、もう彼女はいなくなってて。
机の上には、空き缶と空き瓶の山に囲まれて、
大きな綺麗な白い羽根が一つ、
朝日を受けてキラキラ輝いていた。
僕はそれを摘まみ上げて、
バイバイ、と呟いた。
で、思いっきり吐いた。
最後に恰好つかなくて恥ずかしいけどね。
***
二日酔いが明けたらすぐ、
僕は旅の用意を始めた。
支度はあっという間に済んだ。
着替え。水。缶詰。
適当にカバンに詰め込んで自転車の後ろに括り付けた。
背中にはリュックサック。
その肩ベルトには、
あの白い羽根を縫い付けておいた。
外は暖かくなり始めていた。
季節は少しずつ春に近づいていた。
天使になることへの理由が一つできた僕は、
きっといつか、天使になるのだろう。
他の人たちと、そして彼女と同じように。
だけどその前にもう少し、
この世界を楽しんでやろうと、僕は決めた。
そしてこの旅の話を手土産に持って、
彼女に会いに行こう、ってね。
両手で頬をぺしぺし叩いて、気合を入れる。
よっしゃ。
それじゃあひとまず、ロサンゼルスまで。
行ってみようか。
僕はペダルを踏む。
自転車は前に進む。
バイバイ、ミス・アメリカンパイ 鰐人 @wani_jin
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