第10話 綻ぶ花

 始業式の教室は騒然としていた。

 高橋悠が誰にも告げずに転校したのだ。

 クラスも学年も飛び越えて学校中がパニックになっているように有花は感じた。


「悠の父親が不倫したらしいよ」

「買春って聞いたよ」

「女子高生とエロいことしてたって」

「しかも相手が桜塚綾乃!」


 始業式は授業も無ければテストも無い。

 猿の檻と化した騒がしい教室で、有花はイヤフォンを装備する。

 ホームルーム開始5分前に教室に入ってきた綾乃は、教室中の視線を一斉に浴びた。

 素知らぬ顔で綾乃は進む。

 有花は顔を上げない。

 綾乃も有花を見ない。

 ただ、有花の席を通り過ぎるとき、綾乃がさりげなくピースをした。

 有花は机の上を指先で叩いてそれに応える。


「綾乃ォ。親友のパパとヤったって?」


 綾乃が席に着いた途端、金ヶ谷が侮蔑を込めて絡んでくる。今までにないほど低い声だ。

 綾乃は片眉を上げて鼻で笑う。


「ご飯に誘われただけよ。何度も何度も、しつこくね」

「誘うにしてもどうやってよ。パパと番号交換してたわけ?」

「するわけないでしょ。アタシの通ってるジムがあの人の勤め先の近くだったの。それでたまに顔合わせただけよ」


 イヤフォンを通り越して聞こえてくる会話に、有花は密かに息を吐く。


 始業式の前日になって、綾乃はやっと真相を語った。

 綾乃はわざとそのジムを選んだのだ。

 食事には行っていないが悠の父親の車で一緒に帰宅したことは何度もある。

 それを知った悠の母親が疑心に駆られ、夫のスマートフォンやパソコンを暴き、職場の女と不倫している証拠を掴んでしまった。

 高橋家は修羅場の果てに離婚、悠は遠く離れた母の実家に引っ越しとなったのである。


「別に、離婚させたかったわけじゃなかったのよ。悠の相談をしたかったの。悠のママはアタシのこと嫌ってるけど、パパの方は優しかったし」


 ファーストフード店の片隅でシェイクを啜りながら綾乃は言った。


「悠のママ、保守的で潔癖なのよね。だからうちのパパママが大っ嫌いで、悠がアタシと仲良くするのも大反対だったの。悠は隠してたけど」


 綾乃は饒舌だった。

 シェイクを3杯もお代わりしようとしたので止めるのに苦心した。Lサイズのポテトにナゲットまで頼んでいた。


「悠のパパと会ううちに不倫してることに気づいたの。アタシ、浮気する人大っ嫌い。パートナーを平気で傷つける人は全員死ねばいいと思ってるわ。だから今、清々しいの。嫌いな人みんな消えてくれたんだもの」


 今度は味付けの違うチキンを二つ追加する。

 楽しくてハメを外しているようには見えないし、今までの綾乃の食生活を考えると明らかに自棄になっている。

 曖昧な相槌を返していると、ふと、綾乃の弁舌が途切れた。


「……仲、良かったのよ。昔は、本当に」


 蚊の鳴くような声だった。

 幼馴染が親友を追い詰めて、今度は自分が幼馴染を追い込んだ。

 そう簡単に整理できる問題ではないだろう。


「……だから、じゃないでしょうか」


 紙コップのコーヒーを見つめながら、有花はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「一番仲のいい友達に変わらないでいてほしいって思うこと、珍しくないと思うんです。高橋さんは、綾乃さんが嫌いになったとかじゃなくて、むしろ逆で、『高橋さんの好きな綾乃さん』じゃなくなるのが耐えられなかったのかな、って。……憶測ですけど」

「……悠が変わったのは私が変わったから、ってこと?」

「変わらない人なんて一握りですよ」


 ファーストフード店から少し歩くと公園がある。入り口横の自動販売機でいつもの炭焼コーヒーを買い、綾乃は有花に差し出した。こんな状況なのに目元が緩む。

 しかし有花の手のひらに缶の底を乗せたまま、綾乃は手を離さなかった。


「有花ちゃんも変わっちゃうのかしら」


 ど、と心臓が濁った音を立てる。

 缶コーヒーのつるりとした表面から目を離さずに有花は答える。


「変わりますよ」

「そう」


 コーヒーは二人の手に包まれたまま動かない。

 震えるほど寒いのに、背中に嫌な汗が滲んだ。

 二人の間で曇った吐息が交わりながら消えていく。

 あの息のようになってしまえたら。そんなことを考えてしまうくらいには、有花は変わった。


「中学の時、よく聞いたの。美乃梨の塾の友達の話」


 不意に切り出された別の話に、有花は戸惑って目を揺らす。


「コーヒーが大好きで、とろけるように笑うんだって。内気で恥ずかしがり屋で、描かせてほしいけどいくら頼んでも断られるから、思い出しながらスケッチしてた。その絵を見せてもらったのが、丁度……」

 綾乃の指先が缶の表面をゆるりと滑る。手袋越しに有花の指先を掠めた瞬間、ぴりりと何かが体の中を走り抜けた。

「自分の恋愛対象が、同性だって気づいたとき」


 息の仕方が分からなくなる。

 綾乃の指先が離れていく。

 翻った赤いコートが背を向ける。たった一歩の距離なのに遠く感じて目眩がする。


「——っ綾乃さん!」


 咄嗟に手首を掴んだが、継ぐべき言葉が見当たらない。

 綾乃は振り払うでもなく、振り返るでもなく、ただ足を止めてそこにいる。


 公園は中心に噴水を抱いている。

 美乃梨が夢見心地に語っていた中庭の噴水とは違う、無機質で寂れた噴水だ。夏ならともかく今の季節には近づきたくない装置である。

 しかし背を押されたような心地で、有花はその寒々しい水場を指差した。


「綾乃さん。お昼、あそこで食べましょう」

「……えぇ?」


 猫目が有花の指先を追い、訝しげに眇められる。

 噴水は季節外れだし、今しがたファーストフードをしこたま腹に押し込んだばかりだ。

 何もかもちぐはぐな提案など一蹴されるか、馬鹿にされて終わりかもしれない。

 そもそも何の意味があるのだろう。

 潰えた約束の切れ端を二つ三つ繋いだとして、何の慰めになるだろう。

 突発的に出た言葉でしかなく、有花自身にも意味など分かってはいなかった。

 仕方がない。

 だって綾乃に差し出すべき言葉を有花はまだ見つけていないのだ。


 綾乃が口を開くまで、有花の心臓は取って捨てたくなるほど大音声で吠えていた。


 綾乃は噴水を見つめたまま、ゆっくりと細く息を吐いた。


「寒さで頭に血が回ってないみたいね」


 ぎくりとする切り口だった。

 有花の手があっさりと解かれる。かと思えば柔らかく握り返してきて、今の言葉は有花でなく彼女自身に向けられたものだと気がついた。


「向こうにコンビニがあったはずよ。菓子パン三個くらいならまだ食べられるわ」

「大食漢じゃないですか」

「結構突っ込んでくるわよね、有花ちゃん」


 くすくすと笑いながら肩を並べて歩き出す。

 いつもは密着してくるくせに今日は肩が触れない。一息深く吸い込んで、普段との誤差を有花から直す。

 綾乃が強張るのが肩越しに伝わった。横目で盗み見ると頬が赤く染まっている。思わず小さく噴き出すと不服そうに小突かれた。


 変わっていくものだ。

 友情も、それ以外も。


「綾乃さん」

「なぁに」

「私が綾乃さんにとって好ましくない方に変わっちゃったとしてもそれは綾乃さんのせいなので嫌いにならないでくださいね」

「何よ、それ」


 グロスで潤んだ唇が尖る。


「やめて頂戴。アタシ、一度好きになった人嫌いになれないんだから」


 堪らなくなって声を立てて笑った。

 今度は小突かれないようにぎゅっと腕にしがみつく。

 隠しようもないほど染まった薔薇は、孤高とは程遠い色をしていた。

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月に叢雲、君に風 鹿郎 @405345

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