第9話 剥がれ落ちる

「まるで私が主犯格みたいな言い方だね、三橋さん?」


 眉を顰める悠は、まるで傷ついたように、少し怒っているように、有花の目には写った。

 けれど綾乃が現れた瞬間、ほんの一瞬だけ暗い冷笑が浮かんだのを、有花ははっきり捉えていた。

 震えが止まらない。

 おおらかで優しい人だと思っていた。

 今の笑顔は、ぞっとするような笑顔は、底なしの悪意がちらりと蓋を開けたようだった。


「言ったでしょ。あいつはハリボテの王子様だって」


 階段を一つ下り、有花を庇うように綾乃が立つ。

 ハリボテの王子様。家に遊びに行った日、綾乃は幼馴染をそう形容した。

 周りの望むように振る舞って、裏では人を操作する。

 昔はそうやって、アタシを庇ってくれてたのよ。血を吐くように呟いた綾乃の声が耳の奥に絡んでいる。


 いかにも苛立たしげに悠はかぶりを振った。


「またそんなこと言って……。私を嫌うのは勝手だけど、三橋さんを巻き込むなよ」

「巻き込まれてたでしょ。とっくに」


 階段を挟んで二人が睨み合う。

「大体、」綾乃が浅く息を吐く。「嫌ってるのは、アンタでしょ」


 猫目がくしゃりと歪んでいく。

 他のクラスメイトに何を言われても歯牙にもかけなかったのに、抑えきれない感情が声の端々を震わせる。


「アタシが嫌いなら回りくどいことしないでアタシを攻撃すればいいでしょ。美乃梨や有花ちゃんを巻き込まないで」

「だから嫌ってないってば。なんでそんな誤解するかなあ」

「じゃあどうして有花ちゃんの絵が私の机に入ってたのよ」


 綾乃の語気が跳ね上がった。


「コーヒー飲んでる女の子の絵。あの絵が欲しいけど美乃梨がくれないって、アタシ、アンタにしか話してないわ!」


 怒声は悲鳴じみていた。

 ひと気のない校舎に虚しく反響して消えていく。

 有花は胸を押さえて頭を垂れた。髪の先が階段を掃く。

 気づいた美月が慌てて階段を駆け上ってきた。

 労る声をかけながら背中を優しくさすってくれる。その手のあたたかさに涙が出る。


 苦しい。心臓を捻られているようで、息の仕方が分からない。

 なのに何故苦しいのか分からない。

 苦しめられたのは美乃梨であり、綾乃であり、自分ではない。

 だから自分が泣いてはいけない。


 暫し、重苦しい沈黙が降りた。

 呼吸の音すら聞こえるほど張り詰めた空気を、ふ、と悠の唇が割った。

 場違いに清々しい笑い声が響き渡る。

 ハリボテはもう、剥がれていた。


「あれはね。ラブレターだよ、綾乃」

「……は?」

「ラブレター。私から、あんたへのね」


 綾乃が頬を引き攣らせる。

 悠は芝居がかった調子で手のひらを胸に当てた。


「私はね、本当にあんたのことが好きなんだよ。ああ、安心して。恋愛感情なんて陳腐なもんじゃないからさ。孤高の薔薇にオトモダチなんて要らない。雑草が絡んでたら見栄えが悪いでしょ? 綾乃の強さも美しさも独りだからこそ際立つんだ。独りだから良いんだよ。どうして分からないかなあ?」


 熱に浮かされたように滔々と語る。

 弧を描く双眸は危うい光を孕んでいる。


「星の王子様は薔薇をガラスで覆った。世界でたった一つの薔薇だから。だからあんたにも覆いを被せるの。あんたは花園の薔薇じゃない。ずっとずっと、独りでいて」


 悠の熱は逆に綾乃を冷まさせた。


「……そう。もういいわ」

「いいの?」

「いいわ。どうせアンタはいなくなるんだもの」


 綾乃の目が悠のデイバッグに向けられる。

 スマートフォンの存在を見透かしている。

 唇は笑みのまま、悠は目元を捩らせた。


「私からも聞いておきたいんだけど。これ、やっぱりあんたの仕業?」


 今度は綾乃がニッコリ笑んだ。


「ラブレターのお返事よ」


 乾いた声で悠が笑う。

 諦めたような、妙に満足したような、不可解な笑い方だった。


「気を付けなよ、三橋さん。これは本当に、三橋さんのための警告。綾乃の噂は嘘ばっかじゃないんだから」


 悠も綾乃もそれ以上は語らなかった。

 有花と美月は顔を見合わせたが、謎めいた会話の真相を知る術はない。


 そして綾乃の言葉通り、終業式を最後に、悠は学校から姿を消した。

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