第8話 悠

 島林女子高等学校は運動部に全く力を入れていない。

 去年の始め、バスケ部の人数はわずか四人だった。悠の入部以降部員はじわりと増えたものの、本気でバスケットボールを楽しみたい者などおらず、ボールを片手におしゃべりをする緩い雰囲気のままである。

 そんな部の部長など気楽なものだ。しかし聞こえの良い肩書きは、悠の進学先に不満を持っている母親を少しばかり納得させるために有用だった。


「片付けは終わったね。それじゃあ、みんなお疲れ様でした。解散」

「お疲れ様でしたー!」


 体育館の片隅に集まって一礼し、部員たちはきゃあきゃあと連れ立って更衣室へ消えていく。名残惜しげな視線を向けてくる数名を気付かぬふりで黙殺し、デイバッグを引っ提げて悠は職員室へ向かった。


 途中、渡り廊下で一度足を止める。ここから水飲み場が見えるのだが、タイミングが良ければ走り込みを終えた陸上部員が見られるのだ。

 前述の通り、生温い空気は陸上部にも蔓延している。毎日熱心に走っているのは一人だけだ。つまり彼女は本当に走りたくて走っている。水飲み場で汗を拭く彼女は常に満足げで、しかしどこか満たされない顔をしている。その姿は悠の目に際立って映るのだ。

 自分を高めることに迷いのない人間は潔い。他者の目など気にもせず自己評価のみを追求する人間はなかなかいない。例えば、幼馴染のように。


 しかし今日は運が無かったようで、それらしい人影は見当たらなかった。粘るようなことはせず、すぐに歩みを再開する。ここ三日ほど見かけていないが、そんなこともあるだろう。


 校舎に入った時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出さずとも誰からの着信か知っている。出るまで受信と着信が交互に続くことも分かっているが、校門を抜けるまで応じるつもりはない。真面目な優等生である悠は校内でスマートフォンなど触らない——ということにしてあるのだ。どうせ緊急ではない。

 スマートフォンをタオルに包み、デイバッグの底に沈める。肩にかけていれば振動は僅かに伝わってくるが、音を殺すには十分だ。電源を切ってしまえれば良いのだが、そうすると帰宅後に嵐が吹き荒れるので仕方がない。


 職員室は効きすぎた暖房で暑いほどだった。

 顧問に挨拶し、鍵を返却する。

 担任が声をかけてきて、笑顔で応じる。

 いつものルーティンは横から聞こえてきた会話でささやかに曲げられた。


「そうかぁ……、ううん、分かった。でもなぁ、勿体ないなぁ。先生待ってるから、また気が変わったら、いつでも陸上部に戻ってきてよ。な?」


 誰かが陸上部を辞めるらしい。

 目をやると、陸上部の顧問の前に生徒が一人立っている。制服姿では一瞬分からなかったが、いつも走っているあの生徒だ。


「ありがとうございます。お世話になりました」


 キビキビとした動きで直角に腰を折り、足元の鞄を拾い上げて爽やかに去っていく。

 横顔には微笑が浮かんでいたが、どこか空虚に見えた。


「すみません、失礼します」


 だらだらと続く担任の雑談を一方的に切り上げて後を追う。

 自分らしくない行為だ。

 家のことで疲れているのだろうか。

 そんなに人間らしい情緒が自分にあったのだろうか。


 彼女にはすぐに追いついた。

 ひと気のない階段の前で日に焼けた手首を掴みとる。


「ねぇ、君」

「んっ?」


 振り返った彼女は丸い目を大きく見開いていた。胸元の名札には倉本の二文字が刻まれており、学年章は悠と同じ二年生だ。


「もう走らないの?」


 瞬きを二つ繰り返すと、彼女はやんわりと笑った。


「もう、意味が無いんだ」


 謎めいた言葉だった。

 訝しむ悠の表情を読んだのか、彼女は片足の先を床に打ち付ける。リノリウムと靴底が擦れて鳴き声のような音を立てた。


「中学の頃、ハイジャンやってたんだ。でもダメになっちゃった。走るのは好きだし、走ってる間は何にも考えなくて済んだし、また跳べるようになるまで走ろうって決めてたんだけど、もう良いやって」


 彼女は笑っている。

 穏やかに微笑んでいるが、嬉しくも楽しくもなさそうだ。浮かべておく表情が分からないのかもしれない。

 あけすけに語る様は覇気がなく、驚くほど無防備だ。


 少し迷って、もう一つ無礼を働くことにした。既に十分不躾なことをしている。不躾ついでに、恐らくは生々しく負っているであろう傷を探る。


「ダメになったって、怪我か何か?」

「んーん」


 彼女は首を振った。

 口元が更にへらりと緩む。


「従姉妹がね、私が跳んでるとこ見るの、好きって言ってくれてたの。もっと見たいって言ってくれたから一緒の高校にしたんだけど、色々あって、その子は来れなくなっちゃって。私、それからどんどん跳べなくなって。走ってる間は全部忘れられたんだけど、それももう、出来なくなっちゃった」


 ——何か、覚えのある話だ。

 名札の二文字を注視する。

 倉本。

 別の中学に通う友人と、同じ高校に行く約束をし、果たせなかった『倉本』。


「……従姉妹って、倉本美乃梨?」


 そうだ。あの子のスケッチブックには、高々と空を跳ぶ少女の姿があった。


 空虚な笑顔が見上げてくる。

 笑顔の向こうの空洞を、悲哀と諦念が等しく虚しく充たしている。


「変だよね。いじめられたのは美乃梨なのに」


 何かが落ちる音がした。

 階段の方からだ。

 振り返ると、踊り場の上で三橋有花が鞄を落としたところだった。手すりに縋るように立ち、真っ青になってこちらを見つめている。

 この階段の上は図書館だ。勉強でもしていたのだろう。


「美乃梨ちゃん、それで……?」


 悠は渋く顔を歪めた。

 三橋有花もまたスケッチブックの中にいた。学校は違ったが、美乃梨の友人だったのだ。

 もちろん、綾乃は知っていて三橋有花に近づいた。


 悠は苦々しげに顔を背ける。


「……綾乃の噂は、全部が全部デマってわけじゃないんだよ」


 そう。中には真実も混じっている。

 デイバッグの中で震え続けるスマートフォンが語るように。


 三橋有花に関わる理由は既に無い。

 しかし今後のことを考えれば、まあ、ダメ押しくらいはしておいても良いかもしれない。


「倉本……美乃梨さんはね。綾乃と仲良くなったのがきっかけで、綾乃を嫌ってる奴らから酷い目に遭わされたんだ。私は親しくなかったし、違うクラスで庇ってあげられなかった」

「そんな……」


 腰が抜けたか膝が立たなくなったのか、三橋有花がへたり込む。

 なんて哀れなのだろう。

 こんなにも弱い子に近づくなんて、綾乃は何を考えているのだろう。


「綾乃がいじめた訳じゃないよ。そこは誤解しないでほしい。でも綾乃は敵ばかり作って孤立してて、守ることが出来なかった。あんなこと、もう繰り返してほしくない。だから……」

「美乃梨ちゃんは?」


 悠の言葉を三橋有花が遮った。


「美乃梨ちゃん、今、どうしてるの?」


 心から波が引いていく。

 三橋有花の心は綾乃より倉橋美乃梨に傾いているらしい。

 問いの答えを持つ人物に目を転じる。


「通信制の高校に進んだよ。少しずつ快復してる」


 それはつまり、まだ傷は深いということだ。


 身体的な暴力は無かった。

 少なくなかった友人たちが次々と離れていき、私物が暴かれ、絵が汚され、スケッチブックは破られた。


 ——おっ、この子可愛くね? 地味だけど。

 ——いいじゃん、アリだわ。処女っぽい。

 ——この制服、隣町の学校じゃね。待ち伏せしちゃう?


 綾乃に昔手酷くされた男子たちは、缶コーヒーを片手に微笑む少女の絵に下卑た笑いを浴びせていた。

 その絵が後日、綾乃の机から皺まみれで見つかった。

 それ以来、彼女は学校に来なくなった。


 美乃梨ちゃん、美乃梨ちゃん、と階段の上の少女が啜り泣く。

 ああ、綾乃に見せてやりたい。

 あんたからあっさり離れたあんたのお気に入りは、あんたのことよりミノリチャンの方がよっぽど大事みたいだよ。


 冷めた心地で見ていると、どうして、と彼女は呟いた。

 涙を拭う手が退き、赤くなった目がまっすぐ悠に落ちてきた。


「どうしてそんなことしたんですか、高橋さん」


 ——ああ、なんだ。

 既に綾乃に吹き込まれていたのか。


 リノリウムの鳴き声が踊り場の上から降りてくる。

 白く締まった太腿がスカートの裾を揺らしながら三橋有花の傍に立つ。

 猫目が悠を刺し貫く。


 唇を歪めて悠は嗤った。

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