第7話 踏み入れる③

 拗ねた綾乃の機嫌を取るのは骨が折れた。

 絵が上手いと褒め、爪が可愛いと褒め、働いているなんて凄いと褒め、思いつく限り褒めちぎった。

 人を褒めるのは難しい。照れが入ると薄っぺらく響いてしまう。コミュニケーション能力にいささか乏しい有花にとっては尚更だ。

 疲れ果てるほど頑張っても綾乃はツンとしたままで、疲れ果ててしまった有花は疲れ果ててしまったがためにうっかり口を滑らせてしまった。


「子供みたい」

「何ですって?」


 ようやく返ってきたレスポンスがこれである。

 まなじりを釣り上げた綾乃は威圧感を出しているが、今の有花には威嚇する仔猫にしか見えない。

 怯まず静かに見返すと綾乃は更に口角を下げ、そして不意に笑顔になった。途端、有花の背筋に悪寒が走る。


「そうね。アタシ、おとなげ無かったわ」

「えっ」

「せっかく家まで来てくれた有花ちゃんに失礼よね。もっとちゃんとおもてなししなくちゃ。ねえ、何がいいかしら」

「いえ、あの、おかまいなく」

「そうだわ。こんなのはどう?」


 綾乃が仔猫なら有花は仔鼠なのである。

 次の瞬間、有花は片手を取られてクッションに引き倒されていた。

 天井を背景に綾乃が勝者の笑みで言う。


「護身術、教えたげる」

「いやあの結構で」

「まずはここから腕をこう」

「近い近い近いです!」


 そこからみっちり一時間、綾乃の護身術教室は続いた。

 終わった頃には有花は息が切れていた。

 痛いことをされたわけではない。

 何一つ痛いことはなかったが、終始ゼロ距離だったのだ。跨られ、抱きつかれ、腕やら足やら絡め取られ、有花はほとんどずっとパニックだった。


「そろそろお昼にしましょうか。その辺の本とか好きに見てていいわよ」


 すっかり上機嫌になった綾乃は鼻歌混じりでキッチンへ消えていく。有花はクッションにへばりつき、出て行く背中を恨みがましげに見送った。




 供された昼食はまるでカフェ飯のようだった。

 野菜たっぷりのタコライスにはとろりとした温泉卵が乗っており、脇にはコンソメスープが添えられている。米はヘルシーに雑穀米だ。

 歓声を上げた有花に綾乃は大層気を良くした。雑穀米は瑠偉には不評でなかなか食卓に出せないらしい。


「仲良いんですね。弟さんと」

「良いわよ。意外?」


 自分から話を振っておいて返答に困ってしまった。

 看病のために学校を休むくらいなのだから、姉弟仲は想像できた。

 しかし家庭事情を鑑みると、単純に「仲良し」で済ませられるものなのか分からない。


「最初は気に入らなかったわよ。ママは瑠偉が出来てから瑠偉パパの家で暮らし始めたの。ママを取られたって思うじゃない。でも瑠偉が2歳のときに瑠偉パパが帰国して、ママが瑠偉連れて戻ってきて、面倒見るうちに可愛くなってきちゃったのよね」


 綾乃の口調は穏やかで、取り繕ったそぶりは無い。


「両親にカミングアウトされたのは8歳の頃よ。それまではパパもママも家庭外に恋人作らなかったの。パパは仕事でちょくちょく海外行ってたから、本当のところは分からないけど。こう言われたわ。『綾乃が嫌なら、私たちは他に恋人は持たないよ』って」


 顔を顰めてしまった有花だった。

 そんなことを子供に決断させるのはあまりにも酷ではないか。

 綾乃は肩を竦めてみせる。


「だからあたし、嫌って言った」

「良いと思います」


 真面目くさって頷くと、綾乃は小さく吹き出した。腑に落ちない。おかしなことを言ったつもりは無いのだが。

 しのび笑いが収まると、猫目の先は斜め下に落ちていった。


「でも、悠がね。パパとママの幸せを、あたしが邪魔しちゃいけないって。あたしはパパとママの味方でいなきゃいけないって言ったの。幸せの形は人それぞれなんだから、って」


 胸の詰まるような話だ。

 高橋悠という人は、そんな頃から聡くて優しい子供だったらしい。

 だから綾乃は両親の婚外恋愛を認め、その末に瑠偉が生まれた。

 後悔など無いと綾乃は言う。

 同じ唇で「でも」と呟く。


「嫌って言って、良かったのね」


 消え入りそうな声だった。

 伏せられた目許には影が落ちていたけれど、刷かれた微笑は切なくなるほど穏やかだった。




 空になった皿を綾乃が片付けている間、有花はぼんやりと部屋の中を眺めていた。

 すっかり打ち解けた雰囲気になっているけれど、未だに現実感が薄いのも確かだ。

 夢でも見ているのではないか。ささやかな疑念が常に心の隅にある。

 孤高の薔薇が何故自分に構うのか、どうしても分からない。仮説なら思いつくのだけれど。


 ふと、書棚の下段に並ぶアルバムを目が拾った。

 綾乃の幼少期や瑠偉の写真をまとめたらしいタイトルのフォトブックの横に、幼稚園から中学までの卒業アルバムが収められている。

 その中に『青嵐中学校』という文字列を認めた瞬間、心音が銅鑼のように鳴り響いた。喉の奥がぎゅうっと詰まり、心臓が肥大して肺を圧迫しているような錯覚に陥る。


 部屋の中のものを自由に見る許可は下りている。

 しかし、卒業アルバムなどというプライベートの塊を勝手に広げて良いものか。


(でも。でも、あれを見れば)


 あの子のことが分かるかもしれない。


 床を這い、手を伸ばす。

 冷たく震える指先をアルバムの箱の背に掛ける。

 半分ほど引っ張り出したとき、挟まっていたらしい紙がパサリと落ちた。


 画用紙だ。

 二つ折りになっているが、一度乱雑に扱われたようでめちゃくちゃな折り目の跡が残っている。スケッチブックから破り取ったらしく、一辺は四角い綴じ穴が所々破れながら並んでいる。

 氷水を被る心地で、拾い上げた画用紙を開く。


 絵が描いてあった。

 人物画だ。

 ここから一駅離れた中学校の制服を着て、幸せそうに笑っている。

 よくあるHBや2Bだけではない、硬度の違う数種類の鉛筆を使い分け、モノクロの世界を濃淡で色付けている。

 細やかに描き込まれているとは言い難い。缶の模様なんて曖昧にぼかしてある。

 対象を見て描いたのではなく、記憶を頼りに描き起したのだ。

 だってこの絵のモデルは、缶コーヒーを両手に包んでとろけるように笑う少女は、あの子とずっと友達でいられると疑いもしなかった中学生の頃の有花は、描かせてほしいという打診をずっと恥ずかしさで断ってきたのだ。


「なんで……これが、ここに……」


 ただでさえ出鱈目な折り目の残る紙が、有花の手から湿度を吸ってふやけていく。


 知っていた。

 綾乃の出身校があの子と同じだということも。

 綾乃があの子と仲が良かったことも。

 あの子と有花は塾でしか顔を合わせなかったけれど、あの子の「好き」が詰めこまれたスケッチブックを、有花だって見せてもらっていたのだ。


 背後でドアが開かれる。

 コーヒーと紅茶の香りが流れてくる。


「有花ちゃん。確認したいんだけど」


 振り返らない有花の背に、静かな声が降ってくる。


「有花ちゃんに瑠偉の話をしたのは、悠なのよね?」


 耳の奥に金ヶ谷の声が蘇る。


 ——中学のとき友達イジメて潰したんでしょ、アイツ。


 金ヶ谷に『噂』を吹き込んでいるのは誰なのだろうか。

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