第7話 踏み入れる②
玄関とは一転、リビングはモデルルームのように整っていた。
広々としたフローリングには塵一つ無く、折り上げ天井からは輪が重なったようなシーリングが下がっている。壁にかけられた液晶テレビもさることながら、その前に配されたソファーは大人三人くらい余裕で寝られそうなほど大きい。
ともすれば無機質な空間に彩りを添えるのは、窓際の観葉植物や食卓の上の花瓶ではない。ソファーの背もたれに掛かる羊模様の毛布であり、チェスト横のラックに詰まった怪獣のぬいぐるみである。
「飲み物出すからこっちで待ってて。少し散らかってるけど」
通された綾乃の部屋はリビングとはまた印象が違った。
まず目に飛び込んできたのは二体のトルソーだ。色とりどりの布の詰まった棚の横、広々としたミシン台の脇に採寸メジャーを首から下げた大小のトルソーが並んでいる。
家具は赤と黄色で揃えてあり女性的な部屋なのだが、書棚には渋い洋書やレコードが並び、ロフトの下にはサンドバッグとプレスベンチが鎮座しており、どうにも可愛らしくない。トレーニング器具の横は壁一面鏡になっているが、用途は身だしなみの確認ではないだろう。
机と呼べるものは豆型のローテーブルだけだった。赤と黄色のクッションに挟まれたテーブルには、絵本と画用紙、クレヨンが散らばっている。ついさっきまで弟とお絵描きをしていたようだ。
飲み物を持ってきてくれるなら、これは片付けるべきだろうか。しかし勝手に触って良いものか。
悩みながらひとまずクッションを避けて腰を下ろす。クッション無しでも毛足の長いラグのおかげで座り心地は悪くない。
絵本は手作りのようだった。人魚と王子、それに人間のお姫様が手を繋いで笑っている。
『おひめさまと おうじさまと にんぎょひめは
さんにんで なかよく くらしました。
めでたし、めでたし。』
書かれた文字を追った途端、胸がギュッと締め付けられた。
棚には市販の絵本も並んでいる。
これを描いたのが親であれ、綾乃であれ、どんな気持ちで描いたのか。
画用紙には子供の絵と筆跡で、王冠を被った怪物と人魚の王子の戦闘シーンが描かれている。人間の王子は実は怪物で、人魚の王子が人魚姫を助けに来るというストーリーらしい。
いや、違う。
床に落ちている画用紙を拾い上げると、子供が描いたとは思えない筋肉質な半魚人が禍々しく描かれていた。
『わたしは ひめぎみでは ない…
われこそは うみのおう
アーノルド・シュワルギョネッガーなり』
「何だこれ」
シンプルに突っ込んでしまった。
心から説明を求めたい。シュワルギョネッガーって何だ。本当に何だ。
「ああ、それ。さっき瑠偉と遊んでたのよ」
トレイにカップを乗せた綾乃が折よく部屋に入ってきた。
ミルクティーの甘い匂いと共に芳ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。普段なら喜んでコーヒーに食いつくところだが、今はそれより謎の絵だ。
「何ですかシュワルギョネッガーって」
「シュワルツェネッガー好きなの、あたし」
「ギョネッガーは無いです。ギョネッガーは無いです」
「なんで二回言うのよ」
「大事なことだからです」
綾乃はトレイを左手に乗せたまま、右手で危うげなく絵本と画用紙を纏めていく。クレヨンは適当に箱に流し込んでお終いだ。色の近い順に揃えるタイプの有花は見ていてムズムズした。
「人魚姫って泡になって終わりでしょ? 三人で仲良くするのがママの考えるハッピーエンドで、ママが描いたのがこの絵本なんだけど、瑠偉がもっと良い結末を考えるって言い出して。ムキムキになった人魚姫が偽物の王子を殴るところ描いてって言うからこんな感じに」
「それにしてもギョネッガーは無いです」
「こだわるわね」
テーブルにカップを並べながら、うまく描けたと思ったのに、と綾乃は唇を尖らせる。
確かに驚くほどうまく描けているのだが——鱗に覆われた大腿四頭筋への偏執的な描き込み具合など特に見事だ——波打つ長髪を振り乱し胸に貝殻を付けて闘志を燃やすギョネッガーなど誰が喜ぶのか。弟は喜んだのだろうけれども。いや、まあ、弟が喜べば良いのかもしれないけれども。
出されたコーヒーを口に含むと、ほどよい苦味とコクがたちまち有花の心を和らげた。何より大変香り高い。缶コーヒーでは絶対に味わえない風味だ。
「はぁぁ、美味しい……挽き立てみたい」
「よく分かったわね。パパのコーヒーミルを引っ張り出してきたの」
「お父さん、コーヒー好きなんですね。豆もお父さんのですか?」
挽き立てのコーヒーなんてなかなか飲めないものだから、ついつい目を輝かせてしまう。
香り豊かでコクがあり、さっぱりとした口当たりのコーヒーだ。こんな豆をお持ちとは、綾乃の父君とは良い酒ならぬ良いコーヒーが交わせそうである。
しかし綾乃は大して興味もなさそうに首を振った。
「買ったわ」
「買った!?」
ぎょっとして身を乗り出した有花に、綾乃は不思議顔をする。
何という人だ。
有花のコーヒー愛と庶民魂に火が付いた。
「豆って大体200グラムからしか売ってませんよね? 何杯分か分かってます? 美味しく飲めるのは二週間って知ってます!?」
「店で聞いたわ」
「綾乃さんコーヒー飲めないんでしょう? 瑠偉くんだって年齢的に飲めませんよね? どうやって消費する気なんですか。ちゃんと考えて買ったんですか!?」
有花の剣幕に最初はたじろいでいた綾乃の顔色が、段々と剣呑になっていく。
しかし有花とて引く気は無い。
鞄の中から鳳仙花のスマートフォンを取り出して綾乃の前に突きつけた。
「これも! 綾乃さんはちょっと色々とやりすぎです。友達と連絡取るためにわざわざスマホ買うなんておかしいですよ。綾乃さんにとっては端金かもしれませんけど、ご両親のお金でしょう。こんなふうに使っちゃダメです!」
左右の眉がくっつくかと思うほど綾乃の眉間に皺が寄った。
どんな罵倒や暴言が返ってくるか。有花はビクつきながらも覚悟を決めたが、ハニーオレンジの唇からは意外な言葉が飛び出した。
「親のじゃないわ。私の稼いだお金よ」
「えっ。……えっ?」
二度も問い返してしまった。
綾乃はつんとそっぽを向き、マドラーでミルクティーをかき混ぜる。
「ユニバーサルデザインの服とか小物とか、全国から買い付けてネット販売してるの。修繕やリメイクも手掛けてる。将来的にはデザイナーや福祉サービスと連携して事業展開していくつもり。各国に知り合いのいる両親の伝手があってのものだけど、余分にスマホを買うくらいのお金はあるわ」
言葉を無くしてしまった有花だった。
普通の高校生からはあまり聞かれない単語の数々に脳の処理が追いつかない。
二体のトルソーが目に留まる。あれは仕事用なのだ。
本当に、住んでいる世界が違う。
驚きはすぐに通り過ぎ、納得が溜息を連れてきた。
「……だとしても、です」
有花は鳳仙花のスマートフォンを揃えた両手でテーブルに置いた。
「経営者になるんでしょう。それなら尚更、お金は考えて使ってください」
綾乃は振り向かない。ますます唇を尖らせる。
「……何よ。喜んでくれると思ったのに」
むくれた横顔に棘は無い。拗ねに拗ねた口調はまるで素直になれない子供のようだ。
またも情緒を乱された有花は、脳の了解を得ずに飛び出してきそうな言葉の数々を喉の奥で堰き止めて、んぐぅ、と呻いたのだった。
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