第7話 踏み入れる①
元来律儀な性分の有花は、初めての場所を訪ねる際は迷う時間を考慮して30分早く家を出る。何の支障もなくたどり着けば当然それだけ無為な時間ができるのだが、遅れるよりは遥かに良い。
今回も指定された午前11時より30分早く到着した。何しろ駅から5分の場所だ。よほど謎めいた外観や入り組んだ立地でない限り迷子にはならない。
しかし今、有花は迷子になったと思いこもうとしていた。送られてきた地図と聳え立つマンションを何度も何度も交互に見やる。
URLが指し示すのはホテルめいた外観の高層マンションだった。最上階が何階なのか、外から見ても分からない。樹々に彩られたアプローチは庶民の来訪を拒んでいる。近付くことすら恐れ多く、道路を挟んでかれこれ5分、所在なく立ち尽くしている。
アドレスを間違えたと言ってほしい。
しかし何度確認しても、画面に表示されたマンション名と目の前の建物に刻まれているマンション名は同じ文字列である。
レクサスのSUVが一台路肩に滑り込み、ハザードを焚いて停まった。こんなマンションの前にも堂々と路上駐車ができる強者を食い入るように見てしまう。助手席と後部座席から女性と子供が降りてきて、自動ドアに吸い込まれていく。運転席の男性は眠たげにスマートフォンを弄っている。
2〜3分後、内側から自動ドアが開いた。先程の二人連れが別の子連れと一緒に戻ってきた。
レクサスの女性も若々しいが、新たに加わった女性はもっと若い。自分とそう変わらない歳に見える。姉弟だろうかとぼんやり眺め、数秒経ってからハッとした。
綾乃だった。
デニムにモッズコートというラフな服装で、学校で会うときとは印象が随分違っている。とは言えどんな格好でも洗練されて見えるのは、小物使いの良さか、スタイルの良さか、はたまた顔の良さゆえか。高い位置で緩やかに結んだ髪と中性的な装いが、彼女の刺々しい雰囲気を年相応に和らげでいる。
彼女の後ろにはブロンドの少年がちょこちょこついて歩いていた。あれが件の弟なのだろう。
車の前まで来ると、綾乃は来客に頭を下げつつ弟の背中を押しやった。子供二人がはしゃぎながら後部座席に乗り込んでいく。女性も笑顔で助手席に戻り、綾乃は今度は運転席に向かって頭を下げ、子供達に手を振った。
「いってきまーす!」
「るいのねーちゃん、ばいばーい!」
一際高い子供達の声を残し、レクサスが走り去る。
保護者だ。いつもの女王様然とした立ち居振る舞いはどこへやら、弟を見送る眼差しはあたたかな保護者のものだった。
ぽかんとしながら見ていると、猫目がこちらに気付いて丸くなった。
ばつが悪いが仕方がない。観念して道路を渡る。
「もう着いたの、有花ちゃん」
「す、すみません。早すぎますよね」
「構わないわ。アタシの用事は今済んだから」
手袋に包まれた有花の手に、綾乃の細い指が当然のように絡んでくる。今日の爪は白とオレンジをゴールドで囲ったデザインだ。ふわりと鼻腔に届く香りは柑橘系である。住む世界の違いにクラクラするが、今更だ。
「弟がね、今日は友達一家と水族館なの。送り出したら私は夜まで空いてるから」
「今のが弟さんですか?」
「そ。ルイっていうの。瑠璃のルに偉大のイで瑠偉。名付け親はあたし」
「良い名前ですね」
「でしょ? 国籍も感じさせないし」
「なるほど」
手を引かれて自動ドアを潜る。冷えた頬が心地よい暖気に包み込まれて、ほぅ、と息が漏れた。
絨毯の敷かれたホールを進み、エレベーターに踏み込む。自転車を立てて乗り入れるような学生はこのマンションには居まい。
階数ボタンは1から20まで二列で行儀良く並んでいる。オレンジの爪が押したのは13階だった。到着までの間、綾乃は有花の肩に小さな頭を乗せてきて、無闇に有花の胸を騒がせた。
部屋の鍵は暗証番号式だった。綾乃が入力する間、外界から閉ざされた内廊下の壁や天井を眺める。自然光に近づけた照明が圧迫感を払拭している。感心するが、庶民としてはどうしてもお家賃に思いを馳せてしまう。
「どうぞ。入って」
開かれた扉の内側は目まぐるしいほど賑やかだった。
家族写真と共に海外土産と思しき小物がずらりと並んでいるのだが、あまりにも多国籍で取り止めがない。エッフェル塔の横に白い像の香炉箱、ノルディックなタペストリーの上にツノの生えた仮面が三つ、マニ車を囲む何だかよく分からない数々の石と重たげな十字架、廊下には何を模したのか分からない木彫りの置物に謎の日本語が書かれた白いTシャツが被せられ、極彩色の玄関マットにはムートンのスリッパが並んでいる。
シューズクロークの戸を開き、コートを渡すよう促しながら半笑いで綾乃が言う。
「安心してちょうだい。残りは全部両親の部屋に押し込んであるから」
頬の引き攣りは誤魔化せなかったが、「この玄関だけで世界一周旅行が楽しめますね」というコメントは差し控えておいた。
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