第6話 手の内と胸の内

 実にあっさりとしたもので、露骨に避けた翌日から綾乃は話しかけて来なくなった。

 以前と同じ、空気のように有花の横を通り過ぎる。

 その度に安堵と共に湧き起こるのは屈辱という名の感情だ。


 有花が避け始めた当初は教室中が綾乃に注目していた。しかし綾乃があまりに無関心だからか、三日もするとすぐ冷めた。

 そんなクラスメイトたちを有花は心の中で侮蔑する。バカな奴らだ。私がそこまで大きな存在になっているとでも思ったのか。「クラスメイトたち」の中にはもちろん自分も含まれている。


 しくしくと痛む胸にも慣れ始めた頃、困惑する事態が起きた。

 帰宅して鞄を開いたら見知らぬスマートフォンが入り込んでいたのである。


 誰かが間違えて入れたのだろうか。

 鞄は常に机のフックに掛けている。鞄を間違えるということは席を間違えるということだ。席替え直後ならまだしも、二学期も終わるこの時期にそんなうっかりが起こるだろうか。

 それもご丁寧に充電器までセットなのだ。


「えっ、これ、どうしたらいいの?」


 思わず独りごちてしまう。

 学校に落とし物として届け出れば良いだろうか。

 通学中に見知らぬ人のものが紛れ込んだわけではないだろう。口の開いているトートバッグならともかく、ベルトで閉じた革鞄の中にすれ違いざまに転がり込むことはまず有り得ない。

 やはり教室で誰かが入れたのだろうが、学校に届けるとしたら週明けになる。


 カバーは縹色の地に鳳仙花が白く抜かれたラバー製で、質感はまだ新しい。充電器も買ったばかりのようで、箱に入ったケーブルにはまだ収納時の癖がくっきりと付いている。

 持ち主は今頃真っ青になって探し回っているに違いない。


 電話帳にはきっと家族の番号が入っているだろう。連絡するべきだろうか。それとも素知らぬ顔で交番に届けようか。

 難問である。


「う、うぅー……。とりあえず、電源、入れる……?」


 葛藤しながら電源ボタンを長押しする。画面が白く発光し、リンゴのロゴが浮かび上がる。

 パスコード入力が必要なら諦めるしかなかったが、幸いにもホーム画面が開かれた。


 メッセンジャーアプリは入っているがカスタマイズはしていないようで、アイコンはどれも初期のものばかりだ。

 深呼吸を三度繰り返し、恐る恐る電話帳のアイコンをタップしようとしたところで、急に画面が暗転し音楽が高らかに鳴り響いた。着信である。


「えっ、えっ、何これ」


 表示された着信元は人名ではない。『ゼッタイ出ろ』という命令文である。

 怖すぎる。この電話の持ち主と着信元は一体どんな関係なのか。

 ありとあらゆる良からぬ妄想が一瞬にして駆け巡り、恐怖で涙目になった。出るべきか、出てはいけないのか、全く判らない。


(いや、でも、単にバイト先とかかもしれないし。少なくとも赤の他人ではないだろうし……!)


 震える手で受話アイコンをタップする。

 そして唖然とすることになった。


「はぁい、ゆかちゃん。誰か分かる?」


 にんまりとした猫目が頭に浮かぶ。

 電話の主は桜塚綾乃だった。




 「な……にを、してるん、ですか」


 喉からやっと搾り出した声は、ひどく乾いて上擦っていた。

 聞かなくても分かる。

 彼女はわざわざ新しいスマートフォンを用意して、有花の鞄に入れたのだ。

 しかし普通、そこまでするだろうか。


 勝ち誇った声が電話の向こうから聞こえてくる。


「だって、こうでもしないと出てくれないでしょ」

「ふ、普通に番号聞いてくれれば」

「あら、そう? ふぅん。私からの電話、出てくれるの」


 意地悪げに問われれば、口籠るより他にない。

 少し前なら飛び上がって喜んだだろう。着信があれば舞い上がり、すぐに出るのは気持ち悪いか、遅いと心証が悪いかとオロオロしながら部屋の中を歩き回ったに違いない。しかし今はどうだろう。連絡先の交換すら断ったかもしれない。


 気まずい沈黙の後、棘を収めた声が静かに問うてくる。


「誰かに何か、言われたのね?」


 これにも、言葉が詰まって出なかった。

 制服のままベッドの上に身を投げ出す。

 スピーカーに切り替えて、画面に表示されている綾乃のアイコンを眺める。親子の写真だ。手を繋いで砂浜を歩く両親と小さな子供のシルエットが夕日に照らされている。


「金ヶ谷たちが何を言ったか知らないけど——」

「弟さん」

 今度は綾乃を遮った。

「元気になりましたか。熱が出たんでしょう」


 嫌な言い方だった。

 陰湿で、粘着質で、自分で自分が嫌になる。

 綾乃が口を開くまで、少しばかり間が空いた。

 怒っただろうか。はたまた幻滅しただろうか。

 自分から突き放しておいて、嫌われるのがこんなにも怖い。仕方がない。嫌われるのが怖くて突き放したのだから。


 返ってくるのは罵倒か、弁明か。身構える有花に返されたのは初めて聞く言葉だった。


「ポリアモリー、って知ってる?」

「ポリ……え?」

「ポリアモリー。和訳するなら複数恋愛ってところね。一度に多人数と恋愛関係を持つことよ。浮気性と違うのは全員に理解を得た上で付き合うこと。うちの両親は二人ともポリアモリーなのよ」


 金ヶ谷たちの言葉が蘇る。

 ——アイツの両親、キレてんのよ。

 あれはもしかして、そういうことなのか。


「弟は父親が違うの。弟のパパはクロアチア人で今はママとフランスに住んでる。私のパパはメキシコにいて、現地とポルトガルに彼氏と彼女が一人ずついるわ。どう? 混乱してきたでしょ」


 大混乱だ。

 情報量が多すぎる。

 多すぎるくせに、肝心の情報が無い。

 片手で端末を握りしめ、ゆっくりと身を起こす。


 どう返したものか、悩んで相槌すら打てなかったのは事実だ。

 しかし綾乃が待ったのは呼吸一つ分だけだった。


「引いた?」


 捨て鉢に吐き出された一言に、自分でも訳のわからぬまま、全身が燃えるように熱くなった。


「引いてません」


 彼女の自嘲に食らいつく。

 自分の声を自分で聴いて、身を焼く熱が怒りであると理解した。


 桜塚綾乃という人は、誰に何を言われようと常に傲然と笑んでいる。

 1ミリたりとも傷付かず、そよ風ほども気に留めず、悠然と佇んでいる。

 それがどうだ。

 踏み躙られた野草のごとき捨て鉢な態度は誰のせいだ。


「なんで引くんですか。今の話、どこに引けばいいんですか? ポリアモリーとか、ごめんなさい、私よく分かりません。分かりませんけど、ビックリしましたけど、私が綾乃さんをどう思うかに何の関係があるんですか!」


 拙い叫びだった。

 ただただ悔しくて悔しくて、今まで綾乃に向けられてきた偏見や蔑視を想像して、それら全てが許せなかった。

 普段怒らないものだから、たったこれだけで息が切れた。

 頭に上った血を疲労感が冷ましていく。しかし言いたいことはまだまだある。

 ベッドの端に座り直し、トーンダウンして言葉を続ける。


「綾乃さんのご両親なんだから、何か言っていいのは綾乃さんだけです。……あ、あと、弟さんと、恋人さん、たち? お、多いな……。でも、それ以外の人なんて関係ないです。違いますか」


 随分と長い沈黙が降りた。

 通話が切れたかと疑うほどの静けさの中、時折電話口の向こうから衣擦れの音や息遣いが届く。

 やがて、ふふ、と吐息混じりの笑みが聞こえた。


「名前で呼んでくれたわね」

「あっ……!? あ、あの、違っ、すみませ、」

「嬉しい」


 怒りから焦りへ、焦りから安堵へ、顔の火照りが濃度を変える。

 平静を装っていたけれど、綾乃の声は少しばかり掠れていた。

 綾乃が何も言わなかったのは引かれたくなかったからだ。

 自分自身が恥ずかしくなる。

 何も知らず、知ろうともせずに、教えてくれないと拗ねていた。


「……ごめんなさい、綾乃さん」

「うん?」

「私、人との距離感分からなくて。嫌な態度取ってしまって」

「いいのよ」


 深く一呼吸すると、綾乃はいつものニンマリ声を取り戻した。


「むしろ好都合だわ」

「えっ?」

「一緒にいると有花ちゃんまで色々言われるのは分かってたの。わざわざ駄犬に餌をやる必要は無いわ。だから表向きはこのまま縁が切れたことにしましょ」

「えっ?」

「休日だけ一緒に過ごすのよ。秘密の友達。楽しいと思わない?」

「えっ?」

「まずは仲直りのしるしにうちに招待するわ。明日は空いてる?」

「えっ?」


 戸惑いのあまり同じ音ばかり繰り返す。構わず綾乃は勝手に計画を立てていく。通知サウンドが鳴り、待ち合わせ場所の地図が送られてくる。ああ駄目だ、予定があっても断れない圧力を感じる。無いけれども。

 綾乃は最後にとろけるような声で締めた。


「それじゃあ、有花ちゃん。もっと仲良くなりましょうね」


 許された返事はハイかYESかme tooのみだ。

 有花は半笑いで頷いたのだった。

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