第5話 なれる、なれない
嬉しげな声が耳の奥に蘇る。
——ねえ、聞いて。私の友達がね、そう、いつも話してる子、その子もシマジョ志望にしてくれるって!
花咲く笑顔で真っ先に報告してくれた。
教室の中ではあっという間にその他大勢に溶け込んでしまう、けれど菫のような清廉さを持つ少女だった。
よく見れば大きな目が、厚い眼鏡の向こうできらきらと輝いていた。
物怖じしない彼女は自分とは違い、学校でも習い事でも、たちまち友達を作ってしまう。
いつも眩しく見えていたが、その日は一段と輝いていた。
——ああ、楽しみ。そうだなあ、二人はちょっと、最初は合わないかもって感じると思う。話聞いてても思うでしょ? でもきっと仲良くなれると思うの。私、二人のこと勝手に親友だと思ってるもの。
口元に手を添えてくすくす笑う。深く切られた爪の先は、洗っても取れなかったのであろう木炭がしぶとく居座っていた。
彼女の交友関係は分かりやすい。
いつも携えているスケッチブックには、有り余るほど彼女の「好き」が詰まっていた。
——みんな揃ったら描かせてね。もちろん、あの噴水の中庭で。絶対、絶対、約束よ。
笑って頷いたことを後悔している。
あのとき誓った。
裏切りは二度と許さないと。
*
綾乃が入ってきた瞬間、教室内から音が消えた。一瞬にも満たない、ほんのわずかの間だった。
教室内の全ての生徒が意図して口を閉ざしたわけではない。ほとんど偶然ではあったし、大半の生徒は気付かぬふりですぐに会話を再開した。しかし気付かぬふりは気づかなかったことにはならない。結局、クラス中の注意は彼女一人に集まっていた。
有花もその中の一人だった。シャープペンシルを握る手をほんのわずかに止めた後、汗でぬめる手に力を込めてノートにペン先を走らせた。
綾乃はいつも通り、教室内の空気など気にも留めず顎を上げて進む。まっすぐ有花の席までやってきて、いつも通りに甘く微笑む。
「おはよう、ゆかちゃん」
「おはようございます」
有花はノートから目も上げずに答えた。声が裏返ったり濁ったりはしなかった。ただ、いつもより低く、早口だった。
そっけなーい。無関係な誰かの嘲笑が耳に刺さる。
綾乃はすぐには去らなかった。しばらく有花のつむじを眺めていた。
見透かされているようだ。動悸が小鼠の速さになる。自分の書いている文字が問題の答えになっているのかも分からない。
それでも顔を上げずにいると、綾乃は無言のまま自分の席へ去っていった。
安堵で息を吐きながら、落胆とも不安ともつかない気持ちが胸の中で渦巻いた。
昼休みにはチャイムが鳴るなり弁当箱をひっ掴んで教室を飛び出した。スマートフォンを忘れたことに気づいたが、鼓動と同じ速さで突き出す足を緩めることはできなかった。
そんな速度で進んでおいて爪先ばかり睨んでいれば、事故は避けられるものではない。昇降口間近の曲がり角でとうとう人とぶつかって、有花は尻から転がった。
「わっ、ごめん、怪我はない?」
勢いならば有花の方がついていただろうに、相手はパンこそ幾つか落としたものの少しよろめいただけだった。
どう考えても有花の過失なのだが、軽やかな声で謝りながらわざわざ助け起こしてくれる。
あまりの恥ずかしさと申し訳なさに有花は首まで真っ赤になった。
「だ、大丈夫です。すみません、あの、それより、パンが」
「パンなんていいよ、袋に入ってるもん。足とか挫いてない? 立ってみて、ゆっくりね」
「は、はい」
散らばったパンを気にしつつ、言われるがまま立ち上がる。ゆっくり足を動かして異常がないことを伝えると、相手は向日葵のように笑った。そこでやっと相手の顔を見た有花は、自分がぶつかったのが知っている相手だと気づいた。
去年同じクラスだった倉本美月である。
陸上部で唯一のハイジャンプの選手であり、毎日朝や放課後に一人で走り込んでいる生徒だ。さきほど転ばなかったのも体幹の違いだろうか。
「本当にすみませんでした」
パンを拾い上げて軽く払い、差し出しながら深々と頭を下げる。そのまま顔を上げずに立ち去ろうとした。
住む世界の違う相手である。元クラスメイトといっても言葉を交わしたことはない。自分のことなど覚えていまいが、もしも半端に覚えられていたら気まずい。えーと、何橋さんだっけ、なんて気軽に言われれば傷つくのだ。
しかし美月は有花の心算をあっさりと狂わせた。
「三橋さん、今日は一人なの?」
「えっ?」
声が無様にひっくり返った。
名前を覚えられていたことと、動向を気に掛けられたこと、そしてまるでいつもは一人ではないと思っているような口振りにである。
美月は丸い目をくりくりさせて無邪気に白い歯を見せる。
「桜塚さんと仲良くなったんでしょ? 一緒に旧校舎の方行ってるの、何回か見かけたんだ」
美月の口から飛び出した名前に、ヒュ、と息を飲んだ。
青い顔で目を逸らした有花に、美月は首を傾ける。
「あれっ、ケンカした?」
「いえ」
否定の声は短いながら、自分でも驚くほど刺々しく響いた。自分の声が纏った棘が耳から入って胸を刺す。言う必要もないのに、続けて勝手に口が動いた。
「そもそも、仲良くなんかなってません」
空気がピシリと凍りつく。
初めて話した相手に何を口走っているのだろう。自己嫌悪がじわりと湧くが、よくぞ言った、その通りだと拍手喝采する自分もいる。
初めて話した相手だからこそ、二度と話さないであろう相手だからこそ、口をついて出てしまった。
本当は誰かに聞いて欲しいのに、そんな相手はいないから。
通路で立ち止まっている二人を避けながら、行き交う生徒たちがチラチラと視線を投げてくる。
自分はなんて無様で、みじめで、どうしようもないのだろう。
「……私ね」
歯を食いしばって滲む視界に耐えていると、美月がぽつりと呟いた。
「桜塚さんのこと、直接は知らないけど。興味ない人と行動する人じゃないと思うんだよ」
妙な言い回しだった。
伺い見ると、美月は力の無い笑顔でこちらを見ている。
丸い目がそっと逸れ、瞼の向こうに閉ざされた。
「でも、そっか。仲良くなれないかぁ」
自分の放った言葉をあまりにも優しく復唱されて、視界がぐにゃりと形を無くす。
申し訳程度に頭を下げて、有花はその場から逃げ出した。
寒空の中、馴染みの非常階段に走っていく。
体育でもこんなに全力で走り抜いたことはない。
辛いのは走ったからだ。
頬から落ちてくるのは汗だ。
ぐちゃぐちゃなのは弁当だけだ。
鼻が出るのは寒いからだし、食欲が無いのも寒さのせいだ。
だから大丈夫。
一人なんか、慣れている。
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