第4話 線を引く
懐かしい声が脳裏に響く。
——ねえ、ねえ。志望校って決まってる?
綺麗な声だ。囁きほどの声量でも涼やかに耳に届く。
首を振ると、鈴の音の声が嬉しげに弾む。
——じゃあさ、シマジョにしない? 裏庭に小さな噴水があってね、すっごく雰囲気いいんだ。あそこで一緒にお昼ご飯食べたいなあ。
高校なんてどこでも同じだと思っていた。
後々のことを考えれば偏差値の高いところが良いのだろう。島林女子高等学校は県内で上から三番目ほどの学力である。
横目で表情を盗み見ると、子犬のように無邪気な笑顔が眩しいほどに輝いている。
眩しい。
本当に、どうしてこんなに眩しいのだろう。
誘われるまま頷くと、彼女は飛び上がって喜んだ。
結局、約束は裏切られたのだけれど。
*
旧美術室での昼食が定番になった。
綾乃は毎日かいがいしく、昼休みになると有花に声をかけてくる。もっと正確に言えば、抱きついたり、腕を絡めて来たりする。
とにかく密着率が高く、有花はその度に挙動不審に陥った。
放課後も似たようなもので、鐘が鳴るなり綾乃は文字通り絡んでくる。
しかしそれ以外の休憩時間は全く話しかけてこない。
「アタシがいると邪魔なんでしょう? アナタずっとお勉強してるもの」
常に大人びた雰囲気を纏っているくせに、むくれて唇を尖らせた顔は年齢以上に幼かった。
気を使われているのだと知り、自習を5分で切り上げて綾乃の席へ行ってみると、目を丸くしてから破顔した。薔薇よりも向日葵に似た笑顔だった。
ドキドキしている。
最初は不安ばかりだったのに、徐々に喜びが膨らんでいく。
12月になり、朝は冷え込みが厳しくなってきた。
暖房の効いていたバスを降りるや、思わず首を竦めてしまう。マフラーを鼻まで引き上げる。制服のコートにもフードがあれば良いのに。
自販機でホットコーヒーを買い、ポケットに突っ込む。飲み頃の温度になるまでは懐炉代わりだ。舌を楽しませ、眠気を覚まし、温もりまで提供してくれる缶コーヒーは人類の財産である。
こんなに寒い日でも朝から走り込んでいる運動部員はマゾヒストではないだろうか。
学校の外周を軽やかな足取りで駆けていくジャージ姿の生徒を見て、有花はもう一度身震いした。
一年のときのクラスメイトだが、向こうはこちらなど認識すらしていまい。今のクラスメイトにも「えーと、み、み、……何だっけ?」なんて言われるほど、有花の存在感は薄い。
この学校で下の名前で呼んでくれるのは綾乃だけだ。
きょろきょろと周りを見回す。誰もいないことを確認し、念入りに引き上げたマフラーの中で呟く。
「綾乃ちゃん」
瞬時に顔が熱った。
違う、やっぱり違う。
一生懸命頭を振って過った邪念を振り払う。
友達じゃない。
綾乃は気まぐれで相手をしてくれているだけで、断じて友達などではない。
彼女が飽きたらまた独りだ。
唇をきつく噛み締めて、校舎に向けて歩き出す。
友達だなんて思わない。
そうすれば裏切りは起こり得ないのだ。
綾乃は案外真面目な生徒だ。
有花の記憶が確かなら、少なくともこの一年は遅刻も欠席もしていない。
その綾乃が今日、初めて朝礼に姿を見せなかった。
寝坊したか、風邪でも引いたか。
知る手立ては有花には無い。連絡先も交換していないのだ。
心配よりも落胆が大きい。
やはり、これでは友達とは言えまい。
旧美術室に一人で向かう気にもなれず、昼食は以前の場所でこっそり取った。数日ぶりの非常階段は予想以上に寒々しく、途中で少し泣きたくなった。
早々に弁当をかき込んで震えながら教室に戻ると、今度は心に寒風が吹きつけた。
有花の席がクラスメイトに使われている。
それは良い。友人と話し込むときに近くの空席を借りるなんてよくあることだ。何でもない顔で引き返し、昼休みが終わるまでどこかで時間を潰せば良い。いつもそうしてきたのだ。
けれど今日は様子が違った。
有花の席を陣取っているのは金ヶ谷のグループである。金ヶ谷はあろうことか机に座り、無遠慮に紙パックのジュースを飲みながら仲間とゲラゲラ笑っている。
「マジなのそれぇ? 完全にクソじゃん」
「マジだって。アイツの両親キレてんのよ」
「蛙の親も蛙だわ」
綾乃のことだ。直感した。
途端に心臓が早鐘を打つ。足元が凍りついて動けなくなる。
金ヶ谷達は振り向かないが、有花の存在に気付いているのだろう。
抑え気味に——否、抑えたふりの大きな声で、粘つく笑いと共に言う。
「中学のとき友達イジメて潰したんでしょ、アイツ。おとなしい子に近づいて仲良くなったら突き離すらしいよ。その子引きこもりになっちゃったって」
うわ、サイテー!
批難と嘲笑が場を沸かす。
耳に障る笑い声がわんわんと頭の中に響く。
何が楽しいのだろう。
しかし何が言えるだろう?
そんなことをする人ではないと金ヶ谷に食ってかかれるほど、自分は綾乃のことを知っているだろうか。
「あれぇ、三橋さんいたんだ。今退くからさ、ごめんねぇ」
振り返った金ヶ谷が粘っこく目を細める。
「三橋さんもさぁ、気をつけてね」
「ヤバいよ、綾乃は。ヤバ乃だからさぁ」
「何かされたらウチらに言うんだよ」
俯く有花の肩を馴れ馴れしく叩き、金ヶ谷達は愉快げに席に戻っていく。
机列の乱れた自席を前に、有花はチャイムが鳴るまで立ち尽くしていた。
次に声をかけられたのは、全く集中出来ずに授業を終えた後だった。
辛うじて板書を写しただけのノートを閉じ、いつもの復習もしないまま次の科目の準備をしていると、女子の中では大きな手が机の上にそっと乗った。
「三橋さん、大丈夫?」
優しげなハスキーボイスにぎこちなく顔を持ち上げる。
心配そうに眉を寄せた悠が有花を覗き込んでいた。
「アカネに絡まれてたでしょ。……顔色悪いよ」
なんとか口を開いたが、うまく言葉が出てこない。
気の毒そうに目をすがめ、悠はしゃがんで目線を合わせてくれる。励ますように少しだけ口の端を上げて言う。
「あんまり気にしないで。虐めるつもりで人に近付くような子ではないからさ」
気が塞いでいるせいだろうか。言葉の一つ一つが引っかかる。
あんまり、とはどういうことだ。少しは気にした方がいいということなのか。
悠はやり切れなさそうに低く唸る。
「全く、綾乃もこうなること分かってただろうに……。シッターさんがいるんだから弟の世話なんて任せておけばいいのにね」
え、と意図せず口から漏れた。
え、と同じ音が悠の口から返ってくる。
「あれ、聞いてない? 綾乃の弟が熱出したから今日休むって。ほら、親さん海外だし、弟くんまだ小さいじゃない?」
知らない。
聞いていない。
今日学校に来ていない理由も、親と暮らしていないことも、小さな弟がいることも。
「……知りません」
「う、うーん、そっか。まあ普通、家族の話なんてしないか」
困り顔で取り繕ったところで、悠は人に呼ばれて忙しなく去っていった。
(ほら。友達じゃなかった)
分かっていたから痛みも無い。
その後は何の雑念もなく、普段以上に集中できた。
頬の強張りはコーヒーを飲んでも解れなかった。
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