第3話 棘と影

 どうやら有花の世界では遠近感が狂ってしまったらしい。

 そうでなければ有り得るだろうか。初めて口を利いてから数日も経っていない、その数日間も大して言葉を交わしていない、ほぼ赤の他人と言って差し支えない人間が隣に椅子を並べてべったり凭れてくるなどということが。


 コツコツと回収してきた飲み物代を炭焼コーヒーで利子付き返済した綾乃は、週が明けて今朝、教室に入ってくるなり文字通り有花にくっついてきたのである。


 怖い。距離感の詰め方が理解不能で恐ろしい。

 しかも最初に挨拶したきり特に会話も無いのである。

 おはよう、ゆかちゃん。お、おはようございます。一往復で終わる定型句を交わした後、綾乃は体の半分を有花に預けてずっとスマートフォンを弄っているのだ。


 シマジョこと島林女子高等学校は進学校である。何とか頑張ってギリギリ平均の順位を保っている有花にとって、朝礼前の数分も貴重な勉強時間だ。苦手な科学の小テストがあるとなれば尚更である。

 そのため一生懸命予習に励んでいるのだが、全く集中できない。


 綾乃が凭れているのは利き手と反対の左側で、ペンは自由に動かせる。しかし消しゴムをかけたりノートを押さえたり教科書を捲ったりといった動作が驚くほど阻害される。

 そもそも人との触れ合いなんて廊下で誰かとぶつかることが年に数回あるか無いかの人生である。


 他人とこんなに密着するなんて母に抱っこされていた幼児期以降あっただろうか。あった。修学旅行で乗った満員電車だ。カウントしてから虚しさに襲われた。考えるのではなかった。


 もちろん、もう一つある。先週末の帰り際、勢い余って綾乃に抱きついてしまったことだ。今度は羞恥心に襲われた。やはり考えるべきではなかった。


 あたたかいだとか、いい匂いがするだとか、髪の端がくすぐったいだとか、心臓がドキドキするだとか、本当に考えたくない。

 けれど生々しい質量が有花の意識を奪っていく。


 指に力が入りすぎ、シャープペンシルの芯が折れた。砕けた粉がノートを汚す。綾乃が来てから一問だって進んでいないのに消しゴムを使う羽目になる。

 何だか憎らしくなってきた。

 大体、スマートフォンで何を見ているのだろうか。

 やはりブランドだのコスメだの、有花には分からないサイトだろうか。それとも顔出しSNSでいいね三昧しているのだろうか。綾乃ほどの顔面偏差値ならフォロワーは多そうだが、常に炎上していそうである。

 他人のスマートフォンを覗き込むなど失礼千万と思いつつ、そろりと綾乃の手元を覗き込む。

 英文サイトだった。


「英語……っ!?」


 思わず口から飛び出してしまう。しかもお堅いニュースサイトである。目玉が飛び出さなかっただけマシだ。

 綾乃は眉一つ動かさず、つまらなさそうに画面をスクロールする。


「終わったのォ? 全く進んでないように見えるけど」

「く、くっつかれてたら出来ません」

「アナタの口は『離れて』は言えないのに文句だったら言えるのね」


 ぐうの音も出ない。確かに、離れてくれと一言言えば良かったのだ。その一言を省いたのは臆病を盾にした怠慢である。

 しかしあまりにも冷ややかな物言いではないか。

 シャープペンシルを握る手にじとりと嫌な汗が滲む。

 気を悪くしたのだろうか。

 言葉で切られた痛みと、言葉を選ばぬ綾乃への反発と、遠ざけられる恐怖で身が竦む。

 何も言えないでいるうちに予鈴が鳴った。


「じゃあね、ゆかちゃん」


 去り際の声に棘は無かったが、有花は顔を上げることも出来なかった。




 一限目の後の休み時間も、二限目の後の移動時間も、綾乃は声をかけては来なかった。

 その度にずぶずぶ気が沈んでいったが、昼休みになると変わらぬ調子で有花の前に現れた。


「ねえ。ゆかちゃんっていつもどこでご飯食べてるの?」


 朝のセリフが刃物なら、こちらは重い鈍器である。

 綾乃の声は大きくなくとも通りやすい。加えて彼女の言動にはクラス中が注目している。

 凍りつく有花を中心に、嘲笑がさざめいた。


 ——聞いちゃう、それ?

 ——便所メシだったりして。


 潜めているのかいないのか、笑い混じりの声が耳に届く。

 汗の吹き出す顔を伏せ、スカートのヒダを両手で握る。

 トイレでなんて食べていない。しかし似たようなものだ。いつも逃げるように教室を出て、寒風吹き荒ぶ非常階段の踊り場で縮こまりながら食べている。時々舞い込む落ち葉や小さな虫に一人で悲鳴を上げながら。

 恥ずかしい。

 綾乃といると恥ずかしい思いをさせられる。

 どうしてこんな目に晒されなければならないのだろう。


(放っておいてくれれば晒し者になんかならないのに……!)


 しかし傲岸不遜な女王様は庶民の心情など顧みない。


「アナタたちに聞いてないんだけど」


 鞭打つ如き一言に、教室がぴしゃりと静まった。

 嘲笑の主の顔など有花は見ることも出来ないが、綾乃は高らかに顎を上げ、視線と声で貫いた。

 下賤の民どもに鼻を鳴らし、綾乃は有花に向き直る。


「言い方が悪かったわね。一緒に食べないかって聞きたかったのよ。もちろん、来るわよね?」


 有無を言わさぬ圧はあったが、いつもよりずっと優しい声色だった。

 泣きそうになりながら頷いて、有花は綾乃の手を取った。




 島林女子高等学校は不便な立地と引き換えに広い土地を持っている。

 コの字型の本校舎と渡り廊下で繋がる芸術棟、南に陣取る体育館は屋内プールを備えている。そこから東へ少し歩くと旧校舎を一部改装した部活棟があるのだが、木立がところどころを覆い隠し、池やベンチが突然現れて訪れた者を驚かせる。


 綾乃が案内したのは部活棟の三階、かつて美術室として使われていた部屋だった。

 扉を開けると黒板を挟んで二面が窓になっている。開ければ綺麗に風が吹き抜けるだろう。片側には錆び付いた蛇口が並んでいる。しばらく使われてはいないようだ。がらんとした室内には何一つ残されてはいないものの、染み付いた顔料のにおいがかつての姿を主張する。


「ここよ。お気に入りなの。冬でも結構暖かいし」

「勝手に入っていいんですか?」

「いいんじゃない? この学校、勉強さえしてれば怒られないもの」


 校内で一番華やかなくせに、綾乃は常に成績上位なのである。

 有花は苦虫を噛み潰したが、妬んだところで仕方がない。

 それより驚いたのは綾乃の昼食である。

 教壇に膝を揃えて腰掛けた綾乃が取り出したのはそこそこ大きな弁当箱だったのだ。それも二段で、水筒はどう見ても1リットルはある。

 サラダや果物やバランス栄養食で済ませそうな外見で、こんなにしっかり食べるのか。運動部並みである。

 あんぐり口を開けている有花に気付き、綾乃は片眉を釣り上げた。


「家庭科で赤点取りそうな顔ね」


 皮肉しか言えないのだろうか。いちいち傷つくのでやめてほしい。

 弁当箱の包みを解いて蓋を開くと、彩り豊かな野菜の中心に焼き上げられた鶏肉が鎮座している。サラダの横には自家製らしきドレッシングの小さなボトルが添えてあり、下段に入っているのは麦飯だ。


「大事なのはバランスよ。自分の必要カロリーを計算して栄養素を摂るの。サプリメントも良いわね。水分だって重要。炭水化物もよ。どんなに美しくても動けない体に用は無いもの」

「は、はあ……アスリートみたいですね」


 何と返すべきか分からず曖昧に答えると、綾乃は猫目をにんまり光らせた。弁当を置いて立ち上がり、有花の前へと向き直る。次の瞬間ギョッとした。綾乃は片足を半歩前に出し、スカートを足の付け根までするりとたくし上げたのだ。曝け出された肌の白さに息を呑む。


「キックボクシングやってるの。こう見えて結構強いのよ」


 綾乃は得意げに顎を持ち上げて笑う。努力の成果を自慢したかったらしい。

 確かに美しい脚だ。運動部でもここまで鍛えている生徒は少ない。隆起した筋肉の硬さを薄く乗った脂肪が和らげ、女性的な柔らかさを損なわせない。

 それは確かに見事なのだが、少しばかり有花には刺激が強すぎた。


「わわわ、分かりました、分かりましたから!」

「何を焦ってるの?」


 真っ赤になって首を振る有花に、綾乃は不思議顔である。こういうところが妙な噂を生んでいるのではないだろうか。


 意識が高いことには違いないが、想像していたキラキラ系女子ではないようだ。

 元の姿勢に戻った綾乃にホッと胸を撫で下ろし、心を無にして隣に座る。

 だからね、と綾乃がぽつりと呟いた。


「嫌な奴がいたらアタシに言いなさい。黙らせてあげるから」


 どきりとした。

 盗み見た横顔は、どこか遠くを見つめているようだった。

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