第2話 炭焼を一つ
名前を覚えられたのは気がかりだが、もう二度と話すこともないだろう。
彼女が薔薇ならこちらはせいぜいペンペン草だ。
住む世界が違うのだ。
そう思っていたのだが、それから度々綾乃は話しかけてきた。
「ゆかちゃん、お財布忘れちゃった」
「ゆかちゃん、今日お札しか無いの」
「ゆかちゃん、コーヒーあげる。100円」
たかられているのだろうか。
その後も綾乃は猫撫で声で近づいてきては缶コーヒーと百円玉を交換していく。
財布の中の小銭など気にしたこともなかったが、すっかり百円玉を確保しておくようになってしまった。
これはダメではないだろうか。
抵抗しなくては。
「ゆかちゃん。ハイ」
5回目にコーヒーを置かれたとき、意を決して十円玉を10枚出した。有花の抵抗などこの程度である。それでも心臓は飛び出すかと思ったし、冬だというのに背中は汗で湿り気を帯びた。
綾乃は大きな目を更に大きく丸くした。
どんな罵声が飛んでくるか。
はたまたビンタでも飛んでくるか。
ぎゅっと目をつぶって縮こまっていたが、降ってきたのは抑えた笑い声だった。
「ッフフフ。はぁい、ありがと」
コーラルピンクの爪が十円玉を攫っていく。
ああ、これは、気にしていない。
有花の意図を正しく汲み取った上で、あっさりと受け流した。安堵と落胆が有花の肩を下げさせる。
そうして目も伏せてしまったので、コーラルピンクが伸びてきたことに触れられるまで気づかなかった。
頬にかかる髪を一筋、長い爪が掬い上げる。
「面白い子ね、ゆかちゃん」
吐息めいた囁きが、有花の耳朶を愛撫した。
鼓膜から脳へ、脳から腰へ、甘やかな声色が有花の内部を撫で上げる。
反射的に耳を押さえて仰け反ると、獲物をいたぶる猫の笑みが哀れな有花を見下ろしていた。
「ゆかちゃん、またね」
全身を赤くして唇をわななかせる有花に、綾乃はニンマリと目を細くして去っていった。
*
「三橋さん、大丈夫?」
声をかけられたのは放課後だった。
授業が終わると素早く身支度を整え学校を出て、バス停で缶コーヒーを買って一息つく。それがいつもの有花のルーティンだ。
直帰組は存外少なく、同じ停留所のベンチに座るのは多くともせいぜい三人だ。通り過ぎていく生徒を横目に苦味をそっと舌に乗せ、ゆっくりと喉に流し込む。じわじわと胃まであたたかくなる瞬間が有花の密かな楽しみである。
しかし今日はその楽しみも少し遅らせなければならない。
いつもバス停のベンチに最初に座るのは綾乃だからだ。
会ったからといって話すような仲ではないが、さすがに今日は気まずい。何度も鞄の中身を確認し、ゆっくりとコートを着込んでいた。
綾乃が教室を出ていくのを横目で確認し、次の発着時間まで図書室にでも避難しようかと算段を立てていたところに、珍しい人物が寄ってきたのだった。
「……高橋さん?」
バスケ部の高橋悠(たかはし ゆう)である。
女子校の中では文字通り頭一つ飛び出した長身で、サバけた性格は特に後輩からの羨望をほしいままにしている。
一度ぶつかった拍子にコーヒーをかけてしまったことがある。半泣きで何度も頭を下げる有花に、制服嫌いだからジャージに着替える口実ができてラッキーだよ、と笑ってくれた良い人だ。
以来密かに信奉しているのだが、認知されていたことで有花は内心酷く狼狽えた。腕を組み、いかめしい顔で対峙されたのなら尚更だ。
コーヒーをかける以上のことを何かしてしまっただろうか。
最近たまに綾乃と話しているから調子に乗るななどと怒られるのだろうか。
青い顔で凍りついていたが、悠の顔に浮かんでいたのは恫喝ではなく心配だった。
「三橋さん、大丈夫? 最近綾乃に絡まれてるでしょ」
「え? あ、あぁ……」
「私、綾乃と幼馴染なんだ。あの子、悪い子じゃないんだけど、人を振り回して楽しむところあるからさ。私から釘刺しておこうか?」
なんと優しいのだろうか。
綾乃の幼馴染なら被った苦労も多いだろう。しかし悪し様に言うことなくフォローしようとしている。懐の深さが窺えるというものだ。
憧れの存在の人柄に触れて胸があたたかくなる。
しかし、何故だろう。
同時にしくりと小さな痛みが胸を刺す。この痛みは何だ。
有花が口を開く前に別の声が割り込んだ。
「そーだよ三橋さん。悠から言ってもらいな、迷惑してるって」
「何かさあ、お金取られてんでしょ? 犯罪だよ、犯罪!」
「何ならウチらケーサツ行ったげよっか」
ドッと下卑た笑いが起こる。
自分を貶められたわけではないのに冷水を浴びせられた気分になった。視線が爪先に落ちる。鞄の持ち手を握り込み、歯の奥を食いしばる。
彼女たちはクラスで一番目立つグループで、リーダー格の金ヶ谷アカネを筆頭に綾乃をいつも目の敵にしている。綾乃に関する黒い噂も大半はこのグループが出所だ。
悠は凛々しい眉をきつく寄せ、腰に手を当てて大きく溜息を吐いた。呆れと怒りがありありと感じられる一息だった。
切れ長の目がチラリと時計に向けられる。彼女には部活があるのだ。早く済ませたいのだろう。
お願いしますと言ってしまえばいい。
そうすれば綾乃とは縁が切れ、怖いグループに注目されることも無くなる。
少しずつお金を取られているのも事実だ。累計はそろそろ購買のコーヒー一本分というところだが、続けば大きくなっていく。今度はもっと大胆な額を強請られるかもしれない。
有花は綾乃に困っている。困っていて、ヒーローが助けてくれると言っている。
なのに、どうしてだろう。
「だっ、大丈夫、です!」
鞄を抱え、申し訳程度に頭を下げて、有花は教室を飛び出した。
廊下を走ったのはいつぶりだろう。
体力が無いインドア派である。瞬く間に息が上がり、昇降口に着く頃には汗まみれになっていた。
外に出ると火照った頬に冬の冷気が心地良い。これでは風邪を引いてしまう。
校門を抜けながら腕時計を確認する。いつものバスは既に出ていた。
停留所までの道をトボトボ歩く。
コーヒーが飲みたい。バス停の自販機には炭焼コーヒーが置いてある。購買のものと違って120円するのだが、鼻に抜ける特有の香りとクセのある苦味が大好きだ。
自販機でも使える交通系ICカードをポケットの中で握り締める。
見えてきたバス停には人影が一つあった。自販機の前に立っており、飲み物を選んでいるようだ。
あの人が退いたら買おう。
虚な目で人影の動きを追う。飲み物が落ちてくる音がして、人影が屈む。この寒い日に白い太ももを惜しげもなく晒している。
コーラルピンクの爪が缶を取り出す。
「ゆかちゃん。コーヒー奢ったげる」
いたずらめいた笑みが差し出す缶には炭焼の二文字が光っている。
有花は思わず駆け出した。
勢い余って抱きつくと、綾乃は声を立てて笑った。
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