月に叢雲、君に風
鹿郎
第1話 薔薇の気紛れ
踊るスカートの群れの中、有花は今日もイヤフォンで世界を薄く遮断する。
不自然に見えぬよう、机に肘をつき瞼を下ろす。「音楽に浸っている人」の出来上がりだ。
女子校は異性がいなくて気楽だが、同性ならば打ち解けられるというわけでもない。
一年のときやっと話せるようになった元クラスメイト——どこから友達と呼んでいいのかも最近は分からない——とは二年でクラスが分かれてしまった。
それから春が過ぎ夏が過ぎ、気づけば11月である。新しく友人関係を築くタイミングはとっくに過ぎた。
イヤフォンから流れる音楽の壁を、時々喧しい笑い声が突き抜ける。その度に肩が跳ねていることに、どうか誰も気付きませんように。
誰も自分など見ていないだろうけれど。
そっと溜息をついたとき、笑い声よりも不躾な音がすぐ目の前から轟いた。椅子の音だ。前の席の椅子が引かれて有花の机に遠慮なく当たり、誰かが座ってこちらの机を指で叩いた。
冷や汗が噴き出す。誰が、自分に、何の用だ。
目を開けてみて、絶望した。
視界に映ったのは缶コーヒーに添えられた艶やかな爪だった。ピンクの濃淡でグラデーションを描かれた見事なネイルの持ち主なんて、絶対に友達になれないタイプである。
こういう相手からの絡みはロクな目に遭わない。
警戒しながら恐る恐る目線を上げて、また面食らった。
同学年なら誰もが知っているであろう《孤高の薔薇》——桜塚綾乃である。
飛び抜けて容姿端麗で、誰ともつるむことはなく、教師とヤリまくっているだの何度も堕胎しているだの悪い噂が絶えない生徒だ。たまに声を聞くのは授業で当てられたときか、派手なグループのリーダー格と喧々轟々やり合っているときくらいである。
有花とは到底違う世界の住人だ。共通点などバスの路線くらいのものだ。
何かの間違いであれと祈っても、彼女の大きな猫目は間違いなく有花を捉えている。
強ばった腕をぎこちなく上げ、イヤフォンを外す。両耳が開放されると珊瑚色の唇が開いた。
「アナタ、いつもコーヒー飲んでる人?」
「はぇ?」
随分と間抜けな返事をしてしまった。
ささやかな醜態に顔を赤らめる有花に構わず、綾乃は机に缶の底を打ち付ける。
「購買の自販機、ミルクティーの隣にコーヒー並んでるじゃない? 間違えてボタン押しちゃったの。でもアタシ、コーヒー飲めないのよね」
人差し指で缶を傾け、綾乃は不満げに唇を尖らせる。
つまりコーヒーの引き取り先を探しているのだ。
用件が分かると有花は胸を撫で下ろした。
「それなら私、貰います。コーヒー好きなので」
「そう? 良かった」
有花の返答に綾乃はにっこり笑った。
大輪の花が開いた様だ。同性なのに何だかどきりとしてしまう。
ドギマギしつつコーヒーを手にすると、冷めはじめた温もりがじんわりと伝わってくる。飲み頃は過ぎてしまったようだ。無糖でもないし、好きなメーカーのものでもない。
少々がっかりしていると、白魚の手のひらが目の前に突き出された。
「じゃ、100円ね」
目が点になった。
綾乃の都合で貰ってあげる立場なのだが、コーヒー代は徴収されるらしい。
有花の記憶が確かなら購買部の缶コーヒーは一律80円だった筈なのだが。
しかし何が言えようか。
「あ、うん。はい」
ブリキの人形めいた動きで鞄から財布を取り出して、つまみ上げた百円玉を綾乃の手に触れないようにそっと落とす。
「ハイ、ありがと。誰さんだっけ?」
「あ、三橋です」
「三橋、何?」
「ゆ、有花です」
「ゆかちゃんね」
綾乃は満足げに反芻して立ち上がる。惜しげもなく晒された白い太ももがドアに向けて翻る。
「小銭無かったの。これで紅茶が買えるわ。ありがと、ゆかちゃん」
ひらりと手を振り、軽やかな足取りで綾乃は廊下に消えていった。
そういえば、ミルクティーは100円だった。
しかしミルクティーを買うつもりなら100円は持っていた筈で、間違えてコーヒーを買ったなら20円のお釣りがある筈で、だからやっぱりミルクティーを買うにしても80円あれば足りた筈で、なのに何故有花は100円払わされたのだろう。
(いや、いいけど。20円だし。いいんだけど……っ)
割り切れない気持ちでプルタブを引く。
一口啜ると、容器より更に冷めた中身が生温く舌に広がった。
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