第5話 旅の終わり

 私は松宇戸市の歴史を辿るという企画展へ行った翌日、再び松宇戸市を訪れていた。私が笠原鮮魚店に着いた頃、もう陽は暮れ、空には満月がのぼっていた。笠原鮮魚店の店の脇の街灯も円くて山吹色の光を放っているので、まるで満月が二つあるようだった。

 鮮魚店はちょうど店じまいをした後だった。

「ちょっと待っててね」

 そう言うと、笠原投手の長女、夏代さんは店の奥にある家の方へいったん引っ込んだ。その後すぐ出て来ると脇にはハンドバッグを抱えていた。うっすら口紅もしている。

「魚屋でも出かける時はこのくらいしないとね。夕食はまだ? こんな昔の家じゃ気の利いた飲み物なんて出せないから、向かいのお店に行きましょう」


 向かいには下町の小さな洋食屋があった。

 窓際の木のテーブルに向かい合って座ると夏代さんはハンバーグ定食とコーヒーを頼んだので、私も同じ物を頼んだ。年代物の店には似つかわしくない、小さな硝子玉で作ったクリスマスツリーがテーブルの上にあり、赤や緑の光を慎ましやかに点滅させている。


「おかしいでしょ? 初対面なのに一緒に食事なんて。でも一人で店をやってるから食事はちゃんととらなきゃ。亡くなった父がよくそう言ってたの」


 鮮魚店から出て来た所を見たせいか、昨日より下町のおばちゃんに見える。でもやな感じじゃない。あの写真に似ている。


「お父様がそうおっしゃってたんですね。確か早くに亡くなったとか」


「そうね。でも私は父の若い頃の子どもなので、父が亡くなった時、もう十分大人でした。お嬢さんくらいだったんですよ」


「ずっとお一人でお店をされているんですか?」


「バイトの子を除けばね。初めは祖母もいました。母もいたんですが、母には重度の障害を伴う病気があって店の事は無理だったんです。子ども達もここにいる間は店を手伝ってくれてましたけど、今では皆、独立して出て行きました。私の妹は遠くにお嫁に行きましたしね」


「私がお父様の事を調べてるなんて不審感を持たれたんじゃないかしら」


「そんな事ないです。メアリーさんの写真集のおかげで、たまに海外からもお客さんが見える位なんですよ。すごい威力です。国内で写真集見て、というのは珍しいですがね」そう言って人懐っこく笑った。


「そうなんですね。これまでに世界中で多くの人があの写真集を見たんですね」


「それに写真集以外でも、昔の父のファンとは別にインターネットで昔の父の投球を見た若い方がたまに訪ねて来られるんですよ」


「そうなんですか?」


「ええ。父はただひたすら自分の能力で出せる最高の球を投げ続けるというスタンスでした。それが父の信条だったんです。継続力に長けていたから出来たのでしょうけど。だから父がマウンドに立つと試合は予想外に早く終わるんです。余計な事に悩まず投げると言うんですかね」


「それが信条だったんですね……」私は張りのある彼女の声に押されそうになりながら言った。


「そうなんです。私達娘にもよく話してましたから。今できる最高の球を投げ続けるだけだだって。それでもこんな店を若くで任されちゃったから余計な事にクヨクヨしてしまうような時があって。そんな時は父の野太い声が聞こえるような気がするから悩むの止めるんです。あはは。インターネットでピッチャーとしての父の投球に惹かれる若い方々はそんな声を聞きたいんだろうなって私は思うんです」


「今出来る最高の球を投げ続けるってそんな簡単な事じゃないかもしれませんね」


「でしょ? そういう基本的な事が最も難しいんです。他にも父には幾つか大切な基本的な事があって、それは決して譲らなかったんですけどね」 


 基本的な事が一番難しい――それは旅の終わりに私が何度か聞いた言葉だった。


「私もそんな言葉を聞きたくて、結局写真集を手がかりにここまで来たのでしょう」


「それにお嬢さんはメアリーさんがここを発って故郷に帰った理由も知りたいとか。ローズさんからのクリスマスカードにありました。メアリーさん自身が故郷に帰られてからも何年か、我が家にクリスマスカードを送ってくれてたんですよ。途中、住所が変わったりで送られなくなったんですけど。私ね、幼かったけどメアリーの事、何となく覚えてるんです。キレイな金髪の人だなあって」


「そう……。お父様はもう結婚されて、夏代さんがいたんですよね」


「たぶん、父の初恋の思い出がメアリーさんの思い出とカブったんだと思うんです。それで婚約者さんにストレートに好きな気持ちを貫く事に決めたんじゃないですか?」


「そうだったんですね。じゃお父様の初恋の相手の方をご存知なんですか? 幼なじみで、初めてのデートにレモン色の服を着てきたって女の子の事を」


「ええ、もちろん! それは亡くなった母の事ですもの」


「え! そうだったんですか? では初恋の方と結婚されたんですね。そして幸せな家庭を築かれたんですね」


 眼の前の夏代さんを見ると幸せな家庭がありありと浮かんでくる。


 その晩、夏代さんから聞いた両親の初恋の話はほぼアーロンから聞いていたのと同じ。ただ新しい事実も聞けた。夏代さんの父親と母親はピクニックに行くずっと前からお互いが好きだったという事。これは娘として父と母の両方から聞いていたと言う。そして父親は物の置き場を変える事がないので探し物なんて滅多にしないのに時々何かを探すようにしている時、娘たちはからかったと言う。「レモン色の服の女の子でも探してるの?」と。



 夏代さんの話を聞いて、アーロンから聞いた事を自分の想像力で補足するとこんな感じ。


――――――――――――――――

  その日、野原に着いたトモユキは、素振りをしながら、辺りを見回す。そこは昔、子どもたちのための野外劇場があった場所。今も周囲をぐるりと観客席がわりの石段が取り巻いている。彼女は来てない。昨日、教室でゼッタイ来るって言ってたのに。


――トモ君、ね、さっき言ってた一人ぼっちの練習ってほんと? だったら私、応援に行こうかな。サンドイッチ作って。私、けっこう得意なんだよ。中身、何にしようかな――


「……なんて言ってたのにさ」

 でも数分後、レモンイエローのワンピースを着た少女が石段の間の通り道を降りて来る姿が新緑の木々の間から見えると、トモユキは慌てて唇を尖らすのをやめた。そしてあっという間の午前の練習が終わってお昼になるとふたりは並んで座ってサンドイッチを食べながら、トモユキの野球の事、レモンイエローの女の子の趣味のピアノの事、将来の夢等話し始めた。


「何だ、あさみって子どもの頃とちっとも変わってないんだ。心配して損した」


「変わるわけないじゃん」


「そうだよな。考えすぎんじゃなかった。母ちゃんから言われてたのに」


「なんて言われてたの?」


「考え過ぎたり、疑っちゃだめだって」


「そうよ。変わるわけないもの」



――――――――――――――――


「でもね、母はとても若い頃に難病を患い、それは精神的にも不安になったりとか色々影響を与えるもので、それで父は苦労したんですよ。それで野球にも本腰が入らなくなり、短い野球人生を終わらせ、自営業の父親の鮮魚業を引き継いだんです」


「そうだったんですか? ではトラブルメーカーだったのは……。あ、失礼しました。そんな風に書かれてあるのはもしかして病気の妻の看病に関係あったんですか?」


「そうなんですよ。母のため急きょ合同練習に遅れたり。言い訳しない、不器用な父なので、いろいろ誤解もされてたようで、私は小学生低学年の頃それにイライラさせられてたものです。妹は父が現役の頃は物心ついてなかったんですけど」

 彼女の丸っこい眼は昔の日々を思い出しているようだった。

「母は出かけては朦朧として帰り道が分からなくなり、迷子になる事もありました。そんな母を探すのが父の役目でもあったんです」


「では、レモンイエローの服の子を探すというのには、そんな悲しい思い出もあったのですね」


「悲しいと言えばそうですが、手をつないで連れ添って帰って来る二人は、幸せそうでもありました」

 夏代さんは思い出し、微笑んでいたが、ふっと顔を曇らせた。

「そしてそんな合間にも、日が暮れても小雨が降ってもずっと素振りをして練習を欠かさない父の姿があったのに、まるで怠け者みたいに言われて私はずいぶん悔しい思いをしたんですよ」


 ネット記事で知った事だが、笠原選手は「早わざのK」を、草野球チーム出身というだけでなく、早く試合に負けるとかクタバレとか、そんな風に捻じ曲げられ観衆から野次を飛ばされた事もあるらしい。Kの初恋の話が自分の思い出と重なったから、メアリーも同じように貫く事にした。でも幸せいっぱいだけじゃない姿を見てるから、そう決めたんじゃないかな、と。これは自分の考えだけど。他所よそから来た人には美しくても、そこに住むと窮屈だったり、美しさを維持するのは大変だったりって現実を目の当たりに見たら、多分人はどちらか一つを選ぶものだから……。そこに住むか住まないか。

 そしてローズさんはあらかたの事を知ってたけど、もしかしたらあえてここに私を向かわせたのかなと感じた。

「お父様は、何ていうか純粋な方だったんですね。なかなか普通の人には出来ないかなって思います」


「そうですね。また不器用な人間にありがちな冗談も通じないような、扱いにくさもありましたよ。応用がきかないんですもの。あはは」


 不器用で親愛なるもの。そんな不器用な人間が初恋の人の姿を見つけた瞬間のまぶしさが分かる気がした。それがベースだったんだろうな。


「あのね、お嬢さん。祖母が亡くなったのは父より後だったんですけど、祖母が亡くなる前に私達姉妹はある事を発見したんですよ。祖母は自分の名前や住所以外ほとんど読み書きが出来なかったんです。それで祖母自身読んで新たな事を学ぶ機会がないので、親から学んだ、人として基本的な事をとても大事にしてたんだなぁって。だから父も成長する過程で、基本的な物事だけを大切にするよう、祖母から受け継いだんです」


 私はそれに何も返せなかったと思う。言葉で何か言ったら嘘っぽくなりそうだったから。

 

 帰る時、月の位置は変わっていた。でも笠原鮮魚店の脇の街灯の位置はそのまま。だからまるで満月に見送られるように、私は下町の街路を後にした。きっとまたこの朋友のような町を訪れるだろうと思いながら。それでいて振り返らずに。


 そして一人暮らしの部屋に帰って来た時、ここしばらくずっと言えなかった言葉をやっと言えた。

「ただいま」と。


 そして旅は終わり。


 写真集を閉じ、本棚の一番目立つ所に入れた時、壁にかけてある時計の秒針のトクンと進む音が聞こえた気がした。


(終)


























 

 

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