最期は手を握って

真花

最期は手を握って

 散った桜の花びらは、水に流れて消えるまで、花だった頃を想うのだろうか。

 葉桜を横目に施設の門を潜り、彼女の待つ部屋に向かう。

「ユウさん、来てくれたんだ」

「はい、これお土産。職員さんに後で渡しておくから、ちょっと見てみてよ」

 両手で受け取る彼女の眼はキラキラしていて、丁寧に包みを開ければ雷おこしが出て来る。

「大好物。憶えていてくれたのね」

「俺は物覚えがいいからね。と言うか、何度も聞いてりゃ勝手に記憶しちゃうよ」

「それもそうね」

 クスクスと笑う。

「じゃあ、一旦しまって」

「はいはい」

 だけど彼女は上手くしまえずにもたつくから、まったく、と冗談めかしに呟いて俺が包みに戻す。

「ユウさんに会えると幸せ」

「そっか」

「でも、どうして私はここにいるの?」

「病気でね、しばらくの辛抱だよ」

「ねえ、あの頃よく一緒に歩いた上野公園、また行きたいな」

 俺はうんうん、と頷いて彼女の空想しているその中を覗くような気持ちで、彼女の上を眺める。

「街は大分変わっちゃったけど、公園はそんなに変化してないかもね」

「都美なんて何度行ったか分からないよね。ユウさんはあそこに何種類も同時にある企画展をざーって観るのが好きだから、私も観るのが早くなっちゃった」

 言いながら、指を一本立てて、左から右にすーっと流す。行った先の指先が、俺を指す。俺はその指をキュッと捕まえる。

「また行こうな」

「うん」

 彼女は上野公園を想っているのか、ユウさんを想っているのか、それとも上野公園で歩く二人を想っているのか、そのままの体勢でじっと黙る。俺も一緒に沈黙して、彼女が今抱えているふわふわしたものを壊さないように、彼女を見るでもなく、指を見るでもなく、こころで彼女を優しく抱き締める。

 しばらくそのままでいたら、急に彼女が何かに気付く。手を引っ込める。

「ねえ、ユウさん、あの頃カラオケでよく歌ってた歌、何か歌ってよ」

「何かって。曲が多過ぎるから、何個かピックアップしてよ」

「そうね。LINDBERGの『星に願いを』、誰だったっけ『夏祭り』、あとは、あとは、やっぱりLINDBERGの『every little thing every precious thing』」

 キャッキャしながら指折り数える。俺はポケットからメモ用紙を出して、そこに歌を書き付ける。

「ごめんな、ナオ、今日は喉の調子が悪いから、あとずっと歌ってなくって下手くそだから、次までに練習しておくから、お預けってことで」

「えー」

「待つのも楽しみにしちゃえよ」

「私憶えてられるかしら」

「大丈夫だよ」

 彼女は拗ねた唇で俺を見る。ふう、と息を吐いたら、仕方ないね、と微笑む。

「約束する。次回までに、必ず」

「はーい。楽しみにしてまーす」

 あはは、二人で笑って、あ、そうだ、とナオが話題を変える。

「最近はユウさんは何をしてるの?」

「俺? 相変わらず小説を書いてるよ」

「仕事しながらで、よく続くよね」

「両立というよりも、それぞれが必要なんだよ」

「でもさ、前は新作が出来る度に私に見せてたのに、めっきり持って来なくなったよね。どうして?」

「すごい作品が出来てからサプライズをするって方針にしたんだ」

「ユウさんの書くペースだと、もう何十万字の超大作じゃない。それを一気に読めって?」

「その通り」

「新手のイジメだー。面白いって分かってるけど、分量が暴力」

「ドサっと」

「潰れるー!」

「期待しておいてね」

「うん」

 ナオはまた笑う。ユウさんといる間は彼女は朗らかでキラキラして、とても綺麗だ。

「じゃあ俺はそろそろ行くね。またしばらくしたら来るから、待ってて」

「うん。待ってる。……帰る前にギュッてして」

「はいはい」

 彼女を抱き寄せて、キュッと力を込める。

「じゃあ、またね」

「バイバイ」

 施設の出口から部屋の辺りを見ると、彼女が手を振っていた。俺はそれに、ふ、と微笑んで、振り返す。


 一週間後、葉桜の様子は先週とそっくりだった。

「ナオ、来たよ」

「あ、ユウさん、来てくれたんだ」

「今日はおみやげはないけどね」

「まあ、いつものことだから気にはしないよ」

 俺は彼女のベッドの横に座る。

「ユウさんと会えると幸せ」

「そっか」

「でも私はどうしてここにいるの?」

「病気で、しばらくの辛抱だよ」

 彼女はむくれた表情で正面を向く。

「私何の病気か分からない」

「お医者さんから説明をして貰う方がいいけど、ナオは俺からも聞きたい?」

「んんー、じゃあいいや。それよりさ、上野公園にまた行きたいな。昔よく二人で行ったじゃない」

「行ったね」

「都美なんて何回行ったか分からない。ユウさんが観るのが早くて、私まで早く観れるようになっちゃった」

「また行こうな」

「あの頃と言えば、カラオケもよく行ったよね」

 俺は頷く。次の言葉は分かっている。

「あの頃歌ってくれた歌、歌って欲しいな」

「いいよ」

「本当? やった!」

 俺はLINDBERGの『星に願いを』をアカペラで歌う。部屋に他の人は誰もいないから、ある程度の音量は許容されるだろう。カラオケでは他の人を見て歌わないけど、二人だけでアカペラだと彼女をじっと見て歌う。ナオの眼に涙が浮かぶ。

「生きている内にまたユウさんの歌が聴けるなんて」

「大袈裟だよ」

「私の年齢がずいぶん高くなってることくらい、気付いてるよ」

「不思議だね」

「ユウさんが全然変わらない方が不思議。でもその方がいい」

「俺はナオがどんなナオでも、ナオだよ」

「もし死ぬときには、ユウさん、ギュッとするのは窮屈だから、手を握っていて欲しい。もしそのときに叶えばだけど。……私たちの関係じゃあ、死ぬときに立ち会うのなんて無理かも知れないけど、それでも奇跡を起こして駆けつけて」

「同じ奇跡なら、生き返る方がいいな」

「ユウさんならそう言うと思った。でも、そうじゃなくて、死ぬときなの」

 彼女が死ぬときを、言葉のガイドによって強制的に想像させられてしまうと、真っ黒な塊が胸の内側を圧迫するみたい。

「ナオ、死なないから。まだまだ死なないから、そんなことを想像するのはやめよう」

「そうかも知れないけど、私の想いを知っておいて欲しいの」

 俺は自分の胸を押さえる。分かった。分かったから、終わりにしてくれ。ナオは俺のその姿を見て満足したように、背もたれになっている立ったベッドに寄り掛かる。そのまま、じっと一点を見詰めたまま黙る。

 俺は約束を守りたい。彼女と約束した訳ではないけど、俺は彼女の意志を聞いたことによって片道での約束が成立したと決めた。

「そう言えばユウさん、最近何してるの?」

「小説を書いてるよ」

「あれ? 全然読ませてくれないじゃない」

「束になって完成したらサプライズでドサっと持って来るよ」

「それはちょっとした暴力だね。でも、楽しみに待ってるから」

 帰る時間になったらやっぱりギュッとすることを求められて応じて、帰る。


 夜中に携帯が鳴る。見れば実家の母。

「どうしたの?」

智弘ともひろ、お婆ちゃんが状態が悪くなって病院に搬送されたの。それで、もう危篤らしくって、すぐに病院に向かって」

 俺は全速力で病院に行き、お婆ちゃんの部屋に入った。何人かの人と両親と姉がそこにはいたけど、俺はその全てを押し退けて、お婆ちゃんの顔の近くに陣取った。

 でも、お婆ちゃんの意識はなさそう。お医者さんがそこに立っていると言うことは、死亡時刻を決めるためにいるのだろう。だとしても、俺にはやるべきことがある。お婆ちゃんの手を握る。耳許に口を近付ける。

「ナオ! 起きろ。俺が来たんだ。約束通り、俺が来たんだ!」

 周囲が奇妙なものを見る眼になっていることを感じるけど、無視する。

「ナオ! ユウだ! ユウが来たんだ!」

 お婆ちゃんが、ナオが、反応する。後ろから、どよめきが聞こえる。

 彼女の眼が開いて、俺を探す。

「ユウさん」

「ナオ」

「ユウさん、来てくれたんだ」

「奇跡は起きたよ。他ならないお前のための奇跡だ」

 俺はもう涙声で。

 彼女からも涙が溢れる。

「ユウさん。ありがとう。最期に手を握ってくれて、ここにいてくれて」

「人が大勢いるからギュッとは出来ないけど」

「いいの。私は最期まで幸せだった。ユウさん」

「うん」

「ユウさん」

 それ切り彼女の言葉は続かなくて、次第に心拍は落ちて行き、彼女の死亡が確認された。


 火葬場で母親は不思議さを放っておくことが出来ない様子で、問うて来た。

「ユウさんって誰? ナオはお婆ちゃんの名前だから分かるけど」

「知らない。でも、俺のことは彼女にとってユウさんなんだ。だから、最期までユウさんでいたかったんだ」

「孫としての智弘は?」

「この際、ユウさんにくれてやったよ。どうあったってユウさんじゃないとお婆ちゃんは幸せになれなかったんだから」

 本当はユウさんとお婆ちゃんの関係が秘密のものであったことも、誰よりもユウさんをお婆ちゃんが愛していたことも、俺は知っている。好きなお菓子も好きな歌も。でもそれは誰にも話すべきことじゃない。

 俺は彼女の宝物に参加させて貰った、それだけなのだから。


(了)

 

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