桜庭晴美 1


「桜庭さん」


雨宮さんが私の席までやってきたのは予想より少し遅く、昼休みに入って数分した頃だった。


ちょうど空席になっていた一つ前の席の椅子を引いて、雨宮さんが横向きに腰掛ける。机の上に置いていた弁当箱は肘で隅に押しやられた。


真正面から向かい合う形になって思わず顔を逸らす。が、既に取り囲むようにして雨宮さんの友達が二人、隣に立って私を見下ろしていた。


同級生の太腿あたりを眺め続けるのもいかがなものか、何よりまた何か難癖をつけられそうだったので結局顔の向きを正面に戻す。


「それ、どうしたの? 昨日までは無かったよね」


自身の頬に人差し指をちょこんと当てて、雨宮さんは首を傾げる。

どうしたも何も、知らないはずがないだろうに。


意地でも目を逸らし続けたのは私の最後の抵抗。取り合う気はないという意思表示。

たとえ俯く形になったとしても、彼女の視線をまっすぐに受け止めることは耐え難かった。


「てことは昨日の放課後あたり? 誰に告ったの? 私も知ってる人?」


教室中によく響く声で質問は途切れることなく続く。

鈍感ではないはずの彼女の無遠慮さには私を貶めようという意図が透けて見えた。


人の恋路まで面白半分に弄ぼうとする彼女の悪意にただただ萎縮した。

そうして萎縮しかできない自分自身に仄暗い怒りを抱く。


雨宮さんに目をつけられたのはちょうど一年前。

高校に入学して1ヶ月が経った頃には上級生にもすっかりその名が知れ渡っているほど、雨宮さんはとにかく目立った。

美人で快活、成績も優秀。非の打ち所がない高嶺の花としてその地位を確立していた。


きっかけはよく分からない。

ちゃんと会話をしたこともなかった。


ただ移動教室で座った席がたまたま前後になって、前から回ってきたプリントを雨宮さんに手渡そうと振り向いた瞬間、冷たい目で睨まれたのだ。


そこからの転落は早かった。

最初は彼女個人に無視される程度で済んでいたけれど、やがて彼女の顔色を伺うクラスメイトにまで口をきいて貰えなくなり、まともに友人も作れないまま私は孤立した。


秋になる頃には無視から一転、雨宮さんの方から話しかけてくるようになった。当然、好意的な接し方ではないわけだが。


あわや本格的なイジメに発展するかというところで再び春を迎え、ようやく雨宮さんと離れられると胸を撫で下ろしたというのに、2年生になってまた同じクラスに突っ込まれるとは。


「ねぇ聞いてる?」


バンッ、と大きな音がして反射的に肩が跳ねる。

苛立ちを隠そうともせず片手で机を叩いた雨宮さんが、不愉快そうに鼻を鳴らした。


元々思考の渦に溺れがちな質ではあるが、どうにも高校生になってからぼんやり空想することが増えた。現実逃避の一環だ。


「そもそも桜庭さん、好きな人なんていたんだね。そういうの縁がなさそうって思ってた」


合いの手か何かのように、雨宮さんの友達がくっくっと笑う。

事前に示し合わせでもしたかのような絶妙なタイミングは友情の為せる技、なんて空々しく考えてうっかり失笑が漏れそうになった。


なるべく雨宮さんを刺激しないように、今にも落下しそうな弁当箱を机の隅からこっそり救出する。


一挙一投足に動悸が付き纏い、雨宮さんの顔色を伺いながらでなければ指一本動かせない私も、友達という名の取巻き達と似たようなものだ。


「ねぇ、誰にフラれたか教えてよ。私が仇取ってきてあげる!」


「……仇?」


いつも通り沈黙を貫こうと思っていたのに、その一言が引っかかって反応してしまった。

後悔しても後の祭り。


左口角が妙に歪んだ微笑を浮かべ、雨宮さんは自慢の黒髪を指で梳いた。


「私もその人に告ってみる。んで、オッケー貰った後に思いっきり恥かかせて振ってあげるの。桜庭さんと同じくらい惨めな思いさせて、それで」


硬い物が擦れ合う音が甲高く鳴った。


雨宮さんの少し驚いた顔が小気味いい。

けど、それ以上に強張っているであろう自分の顔は想像したくもない。


身体が勝手に動いて、私は椅子から立ち上がっていた。

弁当箱を片手に鷲掴んだまま、床を睨み大股で歩き出す。


取巻きの一人の肩に軽くぶつかって何やら怒鳴られたけど、意味を成さない雑音のように鼓膜を揺らすだけで内容は私の中に入ってこなかった。






保健室に辿り着いた頃にはある程度冷静になっていて、普段通りの無表情をしっかり保てていたように思う。


それでも、頬に白いガーゼを当ててもらいながら私はまだ床を睨み続けていた。


「ローズクォーツ、かしらね。宝石が表出する事例は初めて見たけど……何にせよ、あまり重症じゃないようでよかった」


ガーゼを当て終えた保健の富土先生は、今度は包帯を手に取って手際よく私の首に巻きつけ始めた。


エーコー症候群の病状には個人差があるらしい。

聞いた話では身体の節々から花が咲いたり、九雀のような羽根が生えたり。

何が軽傷で何が重症なのか判別はできないが、今は富土先生の言葉を信じるしかない。


富土先生の冷たい指先が肌を掠めて眦が少し痙攣する。


「今日は早退して病院に行った方がいいわ。病院で貰える安定剤で少しは症状を軽減できるって話だから」


「……はい」


このまま早退したら、明日登校する勇気が湧くだろうか。

私のいない教室で、一体どんな身勝手な憶測や侮蔑が飛び交うだろう。


想像するだけで鳩尾の奥が疼くような不快感があった。

何とか気持ちを奮い立たせようと深呼吸をしてみるが、吐く息と共にむしろ気概が抜け落ちていく。


気づいた時には富土先生の提案にぼんやりとした表情で首肯していた。


首元の包帯を固定し終わり、富土先生が椅子から立ち上がる。


「早退すること牧原先生に伝えてくる。荷物は自分で取ってこれる?」


反射的に背筋が冷えた。


口から零れかけた拒絶の言葉を舌の上で転がして、吐き気を催しながら嚥下する。


やがて、沈黙に頭を押さえつけられる形で力無く頷いた。


富土先生の足音が遠ざかり、カラカラ軽薄な音がして扉が閉まる。


保健室という白い箱の中、一人きり。

部屋中に満ちる静寂と薬品の香りに抱かれるのは思いのほか心地良い。


少し気持ちが落ち着いて、私はようやく顔を上げた。


白いカーテンが微かに膨れて揺れる。

ずっと遠くで生まれた誰かの笑い声が、春の日差しと共に保健室へ流れ込んでいた。


「……戻りたくないな」


雨宮さんの不興を買ったかもしれない。

あれほどの辱めを受けても口を噤んだまま、怒るどころか彼女の機嫌を伺うなんて私はどこまでみじめに堕ちていくんだ。


負の感情はいつだって、私の内側に向かって襲いかかる。


老婆のような緩慢さで椅子から立ち上がり、教室へ戻るべく歩を進めた。

鉛でも詰め込まれたかのように重い脚を拳で軽く叩く。


通りゃんせの歌詞がふと頭に浮かんだ。

行きはよいよい帰りは怖い、……別に往路も良いわけではなかったか。

勢いよく走って逃げ出してきただけだ。


へら、と笑って安堵する。

まだ笑えてる。大丈夫。


ぴたりと閉ざされた保健室の扉に手を伸ばした。


指先が取手に触れるより早く、扉が開く。


「あ」


中途半端に伸ばした手が所在無く宙を掴む。


小さな声が俯きがちの頭の上にぽろりと落ちてきた。

聞き慣れた低い声。


動悸がする。


朝感じたものとは違う、温かいリズムが胸を叩く。


「晴美」


彼の唇が紡ぐ私の名前はどうして、こんなにも心地よく響くのか。


「雪斗君」


彼は私より頭一つ高いから、目を見て話すにはどうしても顔を上げなければいけない。

俯くことに慣らされた首がぎこちなく上向いた。


驚き目を見開いた想い人の視線が、私の頬のガーゼを撫ぜていた。

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エーコー症候群 松村善十朗 @zenjuro

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