エーコー症候群

松村善十朗

プロローグ ―桜の頃―


面白半分に投げつけられる悪意には、残念ながら慣れっこになっていた。

昔は周囲の嘲笑を耳が拾うだけで、カステラを切るようにザクザクと容易く心が刻まれていったものだけれど、最近では炙るような鈍い恐怖と虚しさが腹の底に貼り付いているだけ。


だからこんなにも鼓動が乱れるほどに、背中に冷えた汗が浮かぶほどに、大きく動揺したのは久しぶりだ。


教室に戻りたくない。

『この姿』で、教室に戻りたくない。


「桜庭さん?」


能天気な声が私を呼ぶ。

教室の扉の前で硬直していた身体が、さらに硬く縮こまった。


廊下はすっかり生徒の影も失せ、冷たい雰囲気で沈黙していた。閉ざされた各教室の扉の隙間から、生徒達の声がくぐもった音になって漏れ出している。


本鈴まであと数十秒かというこのタイミングで、同級生達から腫れ物扱いされている私に気安く声をかけてくる人物。一人だけ当たりがついた。


振り向くべきか迷っている内に、背後から一歩踏み出した……予想通りの人物、担任の牧原先生が隣に並び顔を覗き込んでくる。

朝の白光に透かされた色素の薄い瞳が淡く光っていた。


「何してるの? もうチャイムが鳴……」


咄嗟に俯くと、肩で切り揃えた髪がサラサラと頬にかかる。

しかし生まれつきの猫っ毛は牧原先生の視線からそれを隠してはくれなかった。


不自然に千切れた言葉を呑み込んだ、先生の動揺が伝わってきて泣き出したくなる。

いたたまれなくて、顔に熱が上るのがわかった。


息苦しい沈黙に耐えること数秒、先生のすらりとした指が持ち上がる。教室後方の扉を指していた。


教室前方の扉を先生に譲り、のろのろと後方の扉の前に辿り着く。

震える指先を扉に滑らせた。


タイムリミットだ。

いつも通り鈍感になれ。

不快感、恐怖、焦燥感、羞恥心、その他諸々の負の感情に蓋をしろ無視しろ考えるな馬鹿になれ。


先生の視線を感じながら扉を横に引いた。

同時に、私が立てた音を掻き消すように先生が勢いよく扉を開ける。


「はい、おはようございます!」


先生の声に意識を引っ張られ、クラスメイトはみんな前方に顔を向けていた。

私の席は窓際の一番後ろ。先生に気を遣われたんだなと合点する。

みじめさと少しの感謝を胸に静かに踏み出した。


しかし、ぱらぱらと視線が私に集まり始めるのにそう時間はかからない。

やがて誰かが息を呑む。


どこからか生じた好奇の色が教室内に広がっていく。

波のように寄せては返し、盛衰を繰り返しながら満遍なく広がりきった頃には、私はほとんどのクラスメイトの視線に貫かれていた。


「ホームルーム始めますよ!前向いて」


先生の声に形だけ顔を向けるも、断続的に視線は寄越される。

暗く湿気った小さな笑い声がじっとりと鼓膜にこびり付いた。


僅か開いた窓の隙間から風が柔らかく吹き込んで、私の髪を揺らす。

桜の香りに梳かれた髪の合間、右頬から左の鎖骨にかけてを覆う紅水晶が視界の端でくすんだ煌めきを宿していた。


病的なほど白かった肌は隆起した鉱石の奥に埋もれたか、それとも肌そのものが鉱石に変わったのか。死にかけの魚の鱗にも似て、まるで鉱石のコーティングが一部だけ剥がれ落ちたようにまばらに元々の肌は残っているものだから一層歪だ。


頬だった場所に指を這わせれば冷たく硬い感触が指先に纏い、痛みどころか何かが触れている感覚もほとんどない。カサブタみたい。


不意に、一際鋭い視線を感じた。


詰めた息を静かに吐き出して恐る恐る見回すと、最前列の扉側、ちょうど私の対角線上の席に座る雨宮さんと目が合った。


細い肩越しに振り返り値踏みするように私の顔を見つめた後、薄く嗤う。


「雨宮さん、前向いて」


「はーい」


反抗するでもなくあっさりと姿勢を正した雨宮さんは、艷やかな黒髪を掻き上げて肩を竦めた。

横顔のラインもバランスの良い背姿も、滑らかな指先が辿る軌道すら美しいと誰もが見惚れるほどに、今日も彼女は完成されている。


彼女は、この病を患うことなんて一生無いのだろう。

蔑みと憐れみが混じった雨宮さんの瞳が脳裏から離れない。


牧原先生の声をどこか遠くに聞きながら、ふと、保健室に寄ればよかったなと今更思い至る。

包帯とガーゼで隠してから来ればよかった。いずれはバレてしまっただろうけど、朝からこんなにも無防備に醜態を晒す羽目にはならなかっただろう。


気が動転してたとはいえ自分の迂闊さに下唇を噛む。鼻と目の奥に熱が生まれて、眉間に力を入れてじっと耐えた。

私は本当に馬鹿だ。嫌になる。


誰にも気付かれないよう左手で静かに自分の首を絞めた。


紅水晶に覆われた首に指は沈まないから、息は苦しくなかった。


これが若い女性に発症しがちな一過性の病であることは知っている。

基本的には痛みもないし、よほど重症化しなければ後遺症もないと聞いていた。

だから発現した症状が何であれ、そこまで深刻には捉えていなかった。


私にとって何より問題なのは、この病を患う条件が何なのかを誰もかれもが知っているということだ。


エーコー症候群。

報われない恋の苦しみから木霊になった妖精の名を借りた、原因不明の病。身体の一部が突然変異し、異形の姿へと変貌する。失恋した女性のみ発症し、予防方法も特効薬も存在しない。


発現するのは私のように鉱石や宝石だったり、満開の花だったり、鮮やかな羽根であったり。その症状の美しさと失恋という単語の趣深さから、青春の象徴として美談のようにも語られることもしばしば。


実際は、誰にも悟られず胸の奥に秘めておきたい恋の末路が否応なしに暴かれ、取り繕ったような美しさと共に晒されているだけ。

趣味が悪い病だと改めて嫌悪する。


クラスでも浮いた存在である私の発症は一際目立つ。

面白味のない高校生活の中で、しばらくの間は絶好の娯楽の種となるだろう。


机の木目に視線を落としながら、途切れることのない好奇の視線の雨に打たれた。


まるで、見世物だった。

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