第10話・再嫁


 俺は北の大地へ、瞬間移動した。

 巨大な魔物に目が向くより早く、たった一つの存在に気づく。


 絹糸のような美しい黒髪が風に舞う。

 その瞳は以前よりも濃く、紫水晶のように煌めいていた。

 色白な肌に端正な面差し。細くもたおやかな手足。

 その全てが懐かしく、愛おしさであふれた。



「────咲夜!!」



 腕を伸ばし、強く抱き締める。


 ──咲夜、咲夜。本当に咲夜だ……!


 咲夜の驚きに満ちた瞳に、俺が映る。


「!!──翡、翠……!?」


 長いまつ毛が瞬き、その口で俺の名を呼ぶ。

 咲夜が……生きて、ここにいる。


「っ、翡翠!! 後ろッ、魔物が!」


 ──邪魔だ!


 咲夜を腕に抱いたまま、目に映る全ての魔物を一瞬で消し去る。魔物たちは砂のように崩れ去り、本来あるべき骨すら残らず、魔石のみが地面に転がり落ちた。



「…………咲夜、逢いたかった……」


 手に、首すじに、頬に、小さな花弁のような唇に、自分を重ねる。

 声が聞きたくて身を引くと、咲夜は今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめていた。


「………………翡翠…………」


 咲夜の濃紫の瞳からは、綺麗な涙の粒がこぼれ落ちていた。

 三度巡った人生で、初めて見せる泣き顔。

 それはこの世界に来てからの、咲夜の全てを物語っていた。


「……っ、翡翠、翡翠……っ」


 咲夜は何度も俺の名を呼んだ。

 ずっと求めていたものを、やっと見つけた声で。

 感情に任せ抱き寄せると、咲夜は俺の背に腕を回し、胸に頬をすり寄せた。


 ああ……咲夜だ。咲夜の温もりと匂いだ。

 俺はやっと、自分に欠けていた大切なものを取り戻せた気がした。


「どうして咲夜がこの世界に?」

「……ずっと言えずにいてすまなかった。前世で、天狐と取引をしたのだ」

「天狐と?」


 その時、少し離れた所にある、かすかな気配に気づいた。


「ぅおーい、オルディア様ー?」

「二人の世界に入る前に、説明よろしくっすよー」

「やっだ。オルディア様がずっと待っていらっしゃったのって、あの方ですの!?」

「えぇ~! 超カッコイイ! オルディア様ばっか、ずるーい!」


 咲夜以外、全く目に入っていなかった。

 どうやら供がいたらしい。


「…………オルディア?」

「私の、この世界での呼び名だ。なぜか初めから決まっていた」


 俺は手っ取り早く、咲夜とその場にいた四人の記憶を読み、また咲夜が彼らに見せても良いと判断した記憶を、そのまま与えた。


「ひぇっ!! この人……いや、この方があの伝説の魔王っすか!?」

「どうりで。オルディア様が無敵な理由に納得ですわ。世界最強の魔王の奥方だったなんて」


 オルディア・ゾーク・アウストゥル。

 名の意味は『秩序を破壊する者』。

 咲夜は、この世界の人々からそう呼ばれていた。


 記憶を覗いて知ったのだが、俺が天狐と取引をした日、咲夜もまた別の取引を天狐と交わしていた。

 あの時すでに、咲夜の魂はあの世界の輪廻の輪から外れてしまっていたらしい。


 原因は俺にある。俺の魔力を吸い過ぎたせいで、咲夜の魂は異質なものに変わり、あの世界での居場所を失くしてしまっていた。

 無理に留まり続ければ、悪霊や妖怪と同じ扱いを受けることになる。そこへ、天狐が取引を持ちかけたのだ。


 咲夜が他の世界への転生を大人しく受け入れるのであれば、俺が元の世界に転移するまで、この世界に滞在することを許可する、と。


 俺の安全な居場所を守るため、咲夜は取引に応じた。その際に条件が一つ出される。今生において、次の転生のことは誰にも話してはいけないと。

 ひと言でも誰かに話せば、その時点で取引は破棄。咲夜の魂は消滅し、俺の身の安全も保証しない、と。取引というよりは脅しと言えた。


 そして約束を守った咲夜は死後、天狐によって転生させられ、俺は安全な場所に封印されることとなった。

 ……俺は、咲夜に守られていたのだ。


 天狐と取引をした時、咲夜はどの世界に転生させられるのか知らなかった。

 だが、この世界のあの城で目を覚ました時、咲夜は天狐の思惑を知り、深い感謝の念を抱いたのだった。


 それが、90年ほど前の話だ。


 この星に転生した咲夜は10歳くらいの見た目で、自分の名は、オルディア・ゾーク・アウストゥル、『秩序を破壊する者』であると、なぜか自覚していたという。

 だがこれは、俺の時と同じだった。


 それから10年ほど経ち、途中から自分の姿が変わらなくなっていることに咲夜は気づく。

 恐らく、前世で俺の魔力を飲み込んだ時、身体の記憶も魂に固定されてしまったのだろう。

 今の咲夜は、前世で再会した時と同じ姿だった。


 そしてその後、俺の記憶を持っていた咲夜は、この世界を一人の冒険者として巡り歩くことになる。

 この世界に生きる人々の暮らしや文化に触れ、様々な交流を持ち、少しずつ仲間を増やしながら。


 執事や使用人を雇い、城を管理させてもいた。

 俺がいつ戻ってきてもいいように、と。

 週に一、二回、自分で書いた手紙を執事に預けてもいた。


「名は今まで通り、咲夜と呼んで欲しい。私をその名で呼ぶのは、もう翡翠だけだが」

「では、俺のことも翡翠と呼んで欲しい。咲夜にしか、その名で呼ぶことを許すつもりはないが」


 そう言って微笑むと、咲夜は一度照れてから微笑み返してくれた。

 この世界に来てから、表情が豊かになったのだろうか。とても可愛らしい。


「すげぇ。オルディア様の笑った顔、初めて見たっす」

「こりゃあ、明日は火の雨が降るな」

「馬っ鹿! そんなこと言ってオルディア様に聞こえたら──」

「うぉあっちぃ!?」


 軽口を叩く男のマントが燃えた。

 どうやら咲夜がやったらしい。

 今のは真言とやらではなく、無詠唱魔法だった。

 さきほど見た咲夜の記憶には、俺に似た力が使えるようになった、とあったのだが……なるほど。


「ほんに、あやつらは……」

「咲夜、いま燃やそうとした者が勇者というのは本当か?」

「残念ながら本当だ」


 いつも通りであれば、俺がこの世界に戻り、魔物がそれなりに増えてから勇者は誕生するはずだった。

 だから本来なら、ここにいるはずがない。

 咲夜が転生してきたことで、何かが少しずつ変わってきているということだろうか。


 ……いや、それよりも勇者が咲夜の供とは。

 様付けで呼んでいる辺りにも、いろいろと闇を感じたが、笑い話のようだから心配はいらないらしい。


「この世界での翡翠の話し口調は知っていたが、直に耳にするのは心地好いものであるな。こちらの方が似合っているのではないか?」

「…………は」


 勇者を笑えなくなってしまった。

 これが……俗にいう黒歴史……。


「この世界の自分の名には未だ慣れぬが、翡翠の真名と姓が揃いで嬉しかった」

「姓……?」


 もしや、ゾーク・アウストゥルの部分か?

 いや、あれはそもそもが名ではなく、肩書きの呼称なのだが……。


 呼び名の意味するところの『破壊する者』が姓で咲夜は良いのだろうか。日本で言うのなら、名字を『破壊神』としているようなものだ。……たぶん、痛い。


 しかし、はにかんだ顔で微笑む咲夜を見ていたら、それでもいいかと思う自分がいた。

 例え呪われた名でも咲夜と揃いなら、誇らしく思えるから不思議だ。


「揃い、で思い出したのだが」


 俺は咲夜の左手を取り、その薬指にかつてはまっていた指輪を自分の手の平に出した。


「……また、つけてもらえるか?」


 これだけはどうしてもあの世界に置き去りに出来ず、封印されている間も肌身離さず持っていた。

 それぞれの瞳の色と同じ宝石が付いた、白金の指輪。その内側には、互いの名が刻まれていた。翡翠、咲夜、と。


 咲夜はしばらく息を止めたように、指輪をじっと見つめていた。


「無論だ。私は『鬼の嫁』であろう?」


 差し出された手に指輪をはめる。

 咲夜の細い指に、翡翠色の宝石が煌めいた。


「……翡翠はずっと、つけていてくれたのだな」


 そう呟き、俺の左手にある指輪を感慨深そうに見つめる。自分の瞳と同じ色の宝石に咲夜は微笑み、ひと粒だけ涙を落とした。


「それこそ無論だ」


 俺は咲夜を胸に抱きかかえた。

 この魂は、もう二度と離さない。

 何と引き換えにしても、必ず守り抜こう。


「翡翠。話したいことがたくさんある」

「俺もだ。咲夜……」


 これから始まる物語に、勇者の出る幕はきっとないだろう。主人公は星ごと古い秩序を壊し、新しい世界を紡ぐ麗しの姫だ。


「まずは……お帰り、翡翠」

「…………ただいま、咲夜」



 姫は再び、『鬼』に嫁いだ。


 俺は全身全霊を尽くし、この姫を愛そう。

 この星と共に、この生命が尽きるまで。


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鬼に嫁ぐ日 珀尾 @Kaminekonoel

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