最終話 五十嵐

〇 探偵  五十嵐いがらし 十五じゅうご



 渋谷行きの電車に乗っていた。ちょうど真ん中、3両目で事件は起きた。

 改札に近くもない車輌だったためか、満員という程ではなかった。身体を動かすことは多少なりとも可能だったし、車内は渋谷駅が近づいたことで多少気が緩み、会話もまばらだった。異音には全く気が付かなかったのは探偵として不甲斐ない。


 先にホームとは逆の扉が開き、乗客が十数人出ていく。ホーム側の扉も遅れて開き、降りる人の中で一人が倒れた。ホームの凹凸のある床に血が広がっていく。背面の脇腹付近に血の染みが広がっていた。降りた車内に血まみれのナイフが残された。


 殺しだ。


 私は咄嗟に井の頭線渋谷駅の駅員室に電話をかけた。先日、落とし物探しで一度電話をしていたのが幸いした。履歴の近いところにあったからだ。


「五十嵐です。いますぐ急行渋谷行きから降りた乗客を改札で止めてください。殺人事件です!!」


 数人が出ていった後だったが、ほとんどはホームに残すことが出来た。救急車と渋谷署に連絡し、後のことは警察に任せるとして、私に出来ることをすることにした。


 探偵にできないことは、警察ならできるだろう。だが、警察にできないことも、探偵ならばできることがある。


 まずは何かに怯えている挙動不審な女性に話しかけた。

 彼女を駅員に保護してもらい、明前という男を探すため、5両目から降りたと言う数人に話を聞いた。

 やってきた警察と多少、話をした。

 怯えていた女性を探している男性を警察に引渡し、その後、トイレに篭っていた男から話を聞いた。


 駅員室にて監視カメラを確認させてもらった。

 

 そして、

 私は再びあの人物に話を聞きに行くことにした。






 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆






 こんにちは。もう一度お話を聞かせてもらえませんか?






 久山ひさやま しおりさん。




 彼女は肩から掛けたカバンを握りしめ、私の方を見た。


「五十嵐さん、でしたっけ。私たちはいつまでここにいるんでしょうか」

「もう、あと数分でこの封鎖は解かれるでしょう。ご安心ください。最後にあと少し、質問をさせてください」


「そうですか。あまり思い出したくないですが、最後ならば、いいですよ」


「あなたは5両目にいたと言っていましたが、実は違う場所にいたのではないですか?」


 彼女の目に暗い光が宿ったのを、私は見逃さなかった。

 わざと反論させるように、言葉を変える。

「あの幸せそうな二人を見ると、自分が惨めになるような気がして、逃げ出したかった。だから……あなたは5両目ではなく、3両目にいた。違いますか?」


「違います。扉のすぐそば、あのカップルのすぐ近くにいました」


「二人は人目も憚らず抱き合っていて、目に毒だった。周りにいた数人の方も辟易されていました。耳も塞ぎたいほどだったのではありませんか? ならそもそも別の車輌に乗ってしまえばいい」


「たまたま二人の傍に来てしまったんです。満員でしたから、腕も動かせず、耳も塞げませんでした」


「でも、あの二人があの5両目にいることはわかっていたでしょう? 毎日そうなのなら、イヤホンをして音楽を聞けばいい」


「そうです。だから私もあの日……」


「いいえ、違います。あなたは二人の声をすぐ近くで聞いている。音楽は聞いていないですね。イヤホンもさしていない」


「それは……」


「にも関わらず、あなたはあの車輌のあの位置にいれば、必ず聞いていなければならない異常な声を話してくれませんでしたね」


「……何の話ですか? 殺人があったとは聞いていますが」


「そう。今日は殺人事件の他に、があったんです。5両目で下沢 晋さんがナイフで手を刺されました。痴漢をして、その被害者に抵抗されて、刺されたんです。彼のうめき声をあなたは聞いていない」


「ナイフで……?」


「そして、3両目で井頭いがしら ゆたかさんが殺されました。背中をナイフで刺されていました。犯人は、あなたですね。久山 栞さん」


 井頭の名前を出した時、彼女はカバンをまた強く握りしめた。


「何のことを仰っているのか分かりません。私は5両目に乗っていたんです。カメラを確認すれば分かるはずです」


「そう。よくご存知ですね。ホームの扉を監視するカメラ。そのカメラに映るようにあなたは5両目から降りました。しかし、あなたはその前に、3両目から降りたはずだ」


 久山は苛立った様子でしきりに右手のリングをなぞる。


「渋谷駅は終点なので、両方の扉が時間差で開くんです。よって、3両目の最初に開いた扉から出て、5両目に乗り込み、時間差で開いたホーム側の扉から降りた。カメラには5両目から降りた久山さんも映っていましたが、3両目から降りたあなたももちろん、映っていましたよ」


「私ではありません。見間違いでしょう」


「もし万が一、事情聴取をされたとしても、いつも5両目に乗っているカップルの話をすれば、アリバイを作ることができると踏んだのでしょう。あの混雑だ。電車が渋谷駅に着くまでは、車輌間の移動はできなかったでしょうからね」


 結果としては、そんなことをせずにすぐさま逃げていたら、捜査の手は間に合わなかった訳だが。

 否、私が偶然ここに乗り合わせなかったら、どちらにしても彼女を捕まえることなどできなかっただろう。


「あなたはこう証言していましたね。『こいぬの木を見た。下北沢のホームを降りた時に見た』と」


「…………」


「しかし、下北沢駅の南口に位置する『こいぬの木』を見ることができるのは、南側にある扉からだけです。進行方向に対して右側の扉の前にいる、閉まったままの扉側にいる人だけ」

 明大前駅で開いた側の扉のそばにいた、大学生 吉寺、カップル 永町、明前は見ることができた。背の小さい永町は見ることは出来なかったが。


「井の頭線 渋谷行きの電車から見て、下北沢駅のホームは北側にあります。ホームを降りても電車の向こう側にある『こいぬの木』を見ることはできません」


「それは、記憶が混乱していたから、変なことを言ってしまっただけで……」


「いいえ。あなたは『こいぬの木』を確かに見たはずです。下北沢駅で停車した、3両目の南側の閉まった扉。被害者の背中に全体重を掛けてナイフを刺した時に、その肩越しに『こいぬの木』を目撃した。その記憶が忘れられず、つい話してしまったのでしょう」





 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




『ごめん、少し頭が痛くて、また今度にしよう』


 メッセージが来た。もう電車に乗っていた。私は仕方なく、扉の窓から通り過ぎる景色に目を落とす。


 見覚えがある洋服が見えた。

 いつも同じ服を来て、いつもボサボサな髪。私が好きな彼と、他の女が寄り添って歩いていた。


 気のせい。そう言い聞かせるほどに、あの姿がちらつく。

 結婚してくれるって言ったのに。最近は話もできない。目線を逸らす。彼の目を見て、最後に話したのはいつだっただろうか。


 結局その日のことが聞けないまま、私は今日を迎えた。

 殺意という、ナイフをカバンに忍ばせて。


 彼は私を避けて、3両目という、改札に行くにも混雑を避けるにも中途半端な場所の車輌に乗っていた。私を見つけると、いつものように目を逸らし、私に背中を向けた。


「ねぇ、聞いてる?」


「何が」


「先週の日曜、誰か他の女の人と会っていたでしょう?」


「覚えてないな」


「そう」


 私はこんなにも、覚えているのに。

 忘れたくても、忘れられないのにね。


 いつも見る服。同じくせっ毛。見飽きた背中。


 その背中の柔らかい部分にナイフを突き刺した。

 非力な私でも、それは深々と、易々と根元まで刺さっていた。息を殺し、力を込めた。


 彼の吐息が聞こえた気がした。

 何を言っていたかは、聞き取れなかった。


 ここはまだ、電車の中。

 扉の窓の向こうに見えた、あの『こいぬの木』。


 以前、彼と『こいぬの木』の前で待ち合わせをして、下北沢のアクセサリーショップを歩いた。

 いくつもの箱があり、その中に陳列されていたたくさんのアクセサリー。いくつもの世界が広がっていた。キラキラしていて、どんな遊園地よりも楽しくて、どんな夜景よりも綺麗だった。

 私はそのお店で、ペアリングを彼と購入した。


 彼との思い出を持ち帰った。

 楽しくて、綺麗な思い出を。




 私の指にはそれがあり、彼の指にはそれが無かった。




 渋谷駅に着く。横にいた他人の服を使ってナイフを掴み、彼の身体からナイフを引き抜いた。指紋も拭いてナイフを捨てる。彼の身体は人と閉じた扉の間に収まっていた。


 彼のいる方とは逆側の扉が開いた。

 人の波に乗じて彼の身体を離れて、私は開いた逆の扉から降りて改札方向に向かい、同じ電車の5両目に乗り込み、時間差で開いた扉からホームに降りた。


 後ろの方で叫び声が聞こえたが、気にしない。

 改札に向かう。

 目の前で改札が動かなくなる。出られない。

 ちっ。


 大丈夫。

 彼の指にも、彼の中にも私の記録は一切ないだろう。

 誰も私を、捕まえることは出来ない。


 絶対に。








 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「どうして、私がやったって分かったんですか?」


 彼女は周りを見渡す。渋谷駅に溢れた人、人、人。

 電車は止まり、人の苛立ちの波が、溢れていた。


「あなたに刻みつけられた記憶が全てです」


「どうして、『こいぬの木』を見てしまったんだろう。楽しかったあの頃を、思い出してしまったのかな」


 もう、なんの意味もないのに。

 そう、彼女は呟いた。


 私はかける言葉を探した。何を言っても、彼女の心を苦しめることしかできない。彼女の心にかかる暗闇を、少しでも忘れさせたいと思った。


「あなたがもし、彼の命に手をかける前に、その楽しい記憶を思い出すことが出来ていたとしたら、一瞬でもその恐ろしい殺意を、忘れられたのかもしれない」


「……うん。……だけどね、五十嵐さん」


 彼女は最後に笑った。

 両手でその顔を覆い、悲しそうに、笑った。


「あの人を許せないって気持ちと、楽しかった思い出。全部まとめて忘れられたら、よかったのにね」


 彼女の指に光るリングが、とても綺麗だった。








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忘れられたらいいのに ぎざ @gizazig

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