Chocolat d'amour
「ごめん、遅くなった」
すぐそばに匠が来た気配がして頭を上げる。コートを片手に立っている匠の目はうつろで生気がなく、顔色も悪い。何か言わなきゃと口を開きかけたが、匠は響子の座りこんだすぐそばの床に店の紙袋を無造作に置くと、覚束ない足取りでソファへ向かい、ぼすっと身を沈ませた。
「それ、響子の。悪い、十分だけ……寝る」
言葉の最後はほとんど吐息と混ざって、匠は座ったまま本当に眠ってしまった。心身ともによほど疲れているのだろう。
見事な寝入り方はバレンタインにやっと恋人に会えた人のものではとてもない。
この疲労度合いを見たら、心配してあげるのが筋だろう。それなのに心のどこかで残念に思っている。それに気づいた途端、響子は匠から目を逸らした。
自分自身が嫌になる。何を子供っぽいことを。
再び膝の上に落とした頭を少し傾けると、匠の置いた袋が視界に入り込む。言葉にならないくすんだ気持ちが胸の内に渦巻いて、他に何をすべきかも思いつかず、響子はのろのろと匠が置いた紙袋を引き寄せた。
中にはバレンタイン・シーズン用の薄い商品冊子と、匠の店のショコラの箱が入っていた。ただし箱の方は客に売るときのようなリボンやシールの飾りはない。
匠が店で残ったショコラをくれるのはいつものことだ。バレンタインだから特別なんてわけは無い。
もやついた気持ちのまま、バレンタイン・シーズン限定のプラリネとプティ・フールの詳細を一つ一つ読んでいく。
初めにあるプティ・フールは、
———今年は、色んな国の愛の言葉なんだ。
匠が作るバレンタインのショコラにはコンセプトがある。これは独立する前に勤めていた店でもやらせてもらっていたことだ。匠が毎年、その年だけのために考えたテーマで新作のショコラが生まれる。
最初の品はイタリア語の名前で、イタリアの伝統菓子アマレッティをアレンジしたプティ・フール。そのほかのバレンタイン限定のショコラ菓子にも、それぞれ別の言語で名前がつけられていた。
ホワイトチョコレートが掛かった小さなショートブレッドは、英語で「Kiss Me」
光沢のあるボンボンは「
「Amantes Amentes」は、確かラテン語の諺だと教養科目の文学で習った。「
あと一つは——
「あんぶらす……あんぶらっせ、もわ?」
丸みを帯びた花びらが可愛らしいショコラだった。「Embrasse《アンブラッセ》 Moi《モワ》」という読み方しかわからないが、響子も「Moi」が「私」というフランス語なのは知っている。フランポワーズのコーティングにビター・チョコレート、そして中央にホワイト・チョコレートのガナッシュ。艶めいたルージュがひときわ目を惹く美しいショコラ。
バレンタイン・ボックスには、バレンタイン限定の五つのショコラうちどれか一つが、冬季商品と定番のボンボンと一緒に入っているという仕様らしい。限定ショコラの名前がそのままバレンタイン・ボックスの名前になっている。
カタログのボックスを一通り眺め、紙袋をチラリと覗く。入っている箱はカタログに載っている写真のどれとも違ってずっと細い。指で包み込めるくらいの幅しかないそれを取り出して、そろそろと蓋を開けてみる。
中には等間隔で仕切られたスペースに、限定ショコラ全てが一列に並んでいた。中央に金箔のトリュフが来るよう、イタリアからイギリスまで。
Dolce Amore
Embrasse Moi
Amantes Amentes
Reine Liebe
そして最後は、
Kiss Me
——あ。
もう一度、左端から右端まで、順番に確認する。またもう一度、名前を呟きながら。多分、間違いではない。
——それ、
一粒一粒、宝石のようなショコラが整然と並んだこのボックスは、響子のだ。確かに響子だけのものだった。
真摯な愛情で。しかし幼馴染の妹代わりに対する
心から想う、親愛なる、相手として。
唇が震えて、瞳の奥が熱くなる。
匠が伝えてくれた、響子だけへの愛情。
箱を強く胸に押し当てて立ち上がる。瞼を閉じた匠の顔を一瞬覗き込み、横にぽすりと座ると、骨張った肩に頭をこてん、とぶつけた。すると、身じろぎ一つしなかった匠の腕が僅かに動く。
「ん……食べるか。ご飯、なに?」
「……豆乳鍋……と、牛乳プリン」
消え入りそうな声で言うと、「さんきゅ」と欠伸混じりの返事が返ってくる。
なんだかもう、情けない。
「……ごめん、こんなメニューで」
「え、なんで? 嬉しいけど豆乳鍋」
「だって。あんな、綺麗なショコラ、くれたのに」
さっきまで燻っていた不安も嫉妬もいまはもう馬鹿みたいに思えて、なかなか顔が上げられない。すると笑みを含んだ匠の声が降ってきた。
「響子の箱、見た?」
黙って、顔を肩にぶつけたまま頷く。
「伝わりましたか?」
「……伝わりました」
「それは良かった」
頭の上に匠の手のひらがそっと置かれ、髪を撫でた。ショコラティエには有利なことに、チョコレートも簡単に溶けない末端冷え性の匠の手だけれど、今の響子にはとても温かく感じる。
「たくちゃんよく思いついたね、あんなたくさんの国の言葉」
「いや、難儀した。頭文字だけならまだしも女の子ウケの良さそうなのもわからないし。仕方なくしほに泣きついた」
「しほさん?」
「あいつ語学すさまじいから」
「全部の意味はわかんなかったけど」
「辞書、ひいてみな」
そう言うと、匠は響子がもたれかかったままの状態で伸びをし、「じゃあつまみも作ってワイン開けるかなぁ」と立ち上がった。響子は額の置き場を失い、今度は自分の手で顔を覆う。
今の自分はどんなひどい顔をしているのか。悩んでいたのは自分だけで、しかもとんだ気苦労で、ほとほと恥ずかしい。
決まりの悪さを拭えないまま起き直りつつ、やっぱりラザニアとかせめてチーズ・フォンデュとか、もっとお洒落で特別感の出るものを作れば良かったと思わずにはいられない。
そんな響子の心境には構わず、匠は冷蔵庫を開けながら聞いた。
「ショコラ、どれが一番気に入った?」
「えっと、まだ食べてないんだけど、」
せめて手伝わなきゃと急いで立ち上がり、響子も匠を追ってキッチンに入りながらショコラの箱を開けた。もう一度見ても、最初に目を惹くのは同じショコラだ。ルージュの花びらを摘み上げ、角度を変えて眺めまわす。
「やっぱりこれかな。あんぶらっせ・もわ」
小さな花びらの粒を一片齧る。表面のコーティングが割れ、木苺の酸味とほのかに苦いビターショコラが、まろやかなホワイトチョコレートの甘さと溶け合った。直感的に惹かれた通り、幸せに満たされるような不思議な魅力のショコラ。
「うん、もらうなら私、あんぶらっせが欲しい」
すると、振り返った匠が急に真面目な顔を作る。
「響子、それ絶対、他の人に言うなよ」
「え? どして? 『あんぶらっせ・もわ』って……」
ポケットからスマートフォンを取り出し検索する。辞典を引いて意味を読んだとき、響子の指が匠の手に包まれて止められた。
「たくちゃんのなら……欲しいです」
久しぶりに触れたせいか、つい、甘えが出てしまう。
言葉に出した次の時には、優しく息が塞がれる。とろけたショコラが喉を通って、全身が甘い熱で焦がされるよう。
「これが、その言葉の答え」
響子の目の前に、店では決して見ることのない、柔らかな匠の笑い顔があった。
それを見てしまうと、やっぱり思う。
有名になるのは、匠のショコラだけでいい。
♡ * ♡ * ♡
Fin.
Dear K〜ショコラティエのバレンタイン 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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