Chorus Sidus et Buzz Gloria

吉城カイト

踊る星座とざわめく鼓動

 その日は酷く蒸し暑い天気で、蚊取り線香の網を掻い潜って僕の枕元に忍び込んだ蚊なんて気にしている余裕もないほど、暑さで眠れなかったのを覚えている。

 冷房をつけると親が怒るので、窓を開けた。だから偶然だったんだ。僕が窓を開けたのは暑かったから。ただそれだけだった。

 真っ暗な闇の中でただ一人、煌びやかな光を反射して存在感を放つ奴がいた。僕の家の周辺は街燈が少ないせいか、余計に輝いて見えた。誰に光を届けているのか、そんな疑問には応えてくれそうもない。

 一陣の風が運んできたキリギリスの歌が閑静を切り裂く。

 嗚呼、鬱陶しいったらありゃしない。

 皆みんな僕の睡眠を妨害するなんて嫌いだ。今日に限ってどうしてこんなに鬱陶しいんだ。いつもなら気にならないはずなのに。

 でも——。

 一番気になって仕方ないのは、さ。

 先生の言った言葉だ。

 そして、もう一つ。

 激しく鼓動を刻み続ける心臓Gloriaだ。


 **


 先に言っておくが、僕は星に情熱を注ぐほどの愛は持ち合わせていない。ただ研究職に就いている両親の影響で、なにかと星座を見る機会があっただけ。家にある望遠鏡で星を観察したことは何度もあった。

「天文部」だかなんだか知らないけど、姉の勧めで入部したのを時々後悔している。「部員が少ないからあんた入りなさい」って一言だけ。それで素直に従った僕もどうかと思うけど、別に入りたい部活もなかったからいいかなどという言い訳で自分を誤魔化したのを覚えている。

 自分で言うのもなんだけど、僕はどちらかと言えば真面目な性格だから、興味のないわりには毎日部活に顔を出していた。後悔するなら行かなければいいのにって思うでしょ?

 でも僕は星自体を嫌悪していない。それどころか、見ているとどこか心が洗われるというか、すっきりした気持ちにすらなる。星座の図鑑なんかを引っ張り出して、どれがここにあって、みたいなことを口にするのは楽しいんだ。

 だから嫌いなのは姉の方。姉にこれを見なさいって無理やりやらされるのが嫌だった。僕が部活に行けば必ず姉がいる。当たり前な話だけど、姉は三年生で部長を務めていた。姉弟そろって同じ部活なんておかしい、って友達にからかわれたりしたけど、僕はそんなに変だとは思わなかった。

 まぁ半分強制的に入部させられても、「天文部」にいることは不快ではなかったからかもしれない。


 **


 姉が一度、風邪を引いた日があった。普段風邪なんかとは無縁だと感じる人だったので、そのことは非常に記憶に残っている。クラスのみんながインフルエンザにかかっていても、姉は予防接種なしに過ごした人だった。

 だからこの日の僕はどこか浮かれた気分だった。姉がいない「天文部」。その言葉にどれほど心躍っただろうか。放課後に訪れる命令されない時間がどれだけ待ち遠しかっただろうか。うっかり嬉しいと口にして、それが姉にバレたら怒られるだろうから、口元の緩みを抑えるのに必死だった。

 早く早くと願いながら。

 願い通り早く済んだ終礼と同時に教室を一人抜け出し、速足で部室へと向かう。決して走らなかった。走って先生に見つかってはいけない。階段を一段飛ばしで降りていき、ぶつかりそうになる人ごみをすり抜けて、帰り際の友人に挨拶を交わし、目的地に到着して一呼吸整える。蒸し暑いなかの疾走で、シャツの中は汗でびっしょりだった。ドアを開ける前に立ち止まって、目を閉じて。


 誰もいませんように。

 今だけは、僕の世界が始まるのだから。


 姉の友人もまだ来ていませんように。

 自由にくつろげる楽園があるのだから。


 だから——。


 **


 裏切られた。

 あっさりと。

 勿論部長の姉がいたわけでもなく、いつも一番早く来る菊谷きくたに先輩が座っていたわけでもなく、同学年の櫟井いちいさんがいたわけでもなかった。

 開け放たれた窓際にもたれかかって空を眺めていた先生がいた。

「おや」

 普段来ないくせに。どうして。どうしているんだよ。

 そんな文句をのどの奥にひっこめながら会釈する。無言で。今声を出すと、低い唸り声に近い罵声が飛び出そうだった。

 席に座るなり溜息をこっそり吐く。こっそりと。バレていない、はずだ。

「今日は早いんだね。この時間はまだみんな来ないはずなんだが」

 僕に聞かせる気がないのか、細々と独り言のように喋る。よれたスーツの袖が捲られ、銀色の高価そうな腕時計が顔を覗かせた。

「今日は……?」

 まるでいつもこの部室にいて皆が来るのを待っているかのような言い草だ。いつも職員室にいて顔なんて出したことないはずなのに。

 僕の質問が聞こえたのか、それに呼応して先生は僕の名前を呼んだ。いきなり畏まったように呼ぶから、ついついこちらも背筋を伸ばしてきちんと座った状態で返事してしまう。

「いつも、というのは先生がこの部室に来ているからわかることだよ。皆がやって来る五分前、そう、この終礼の時間だけこうやって来ている」

 まるで科学者が何かの実験の説明をするかのように、正しく論理的に、言葉を区切ってわかりやすく、そして平坦に言ってのけた。

 でも来ているならどうしてそのまま僕たちが来るまでいないのだろうか。先生が先に部室にいておかしいことなどないはずだ。というか、その方がいいはずだろうに。

 普段僕が部室に来る時間までまだ十五分くらいある。この五分だけ部室で過ごす意味は何かあるのだろうか。なぜ先生は僕たちが来ると、職員室に帰ってしまうのか。

 いくらでも疑問は湧いてくる。意味深なセリフからいくらでも解釈は生まれるが、その真相は本人から語られない限りはわからない。

 頭の中で思考を巡らしていると、先生が口を開いた。その表情はどこか嬉しそうで、先ほどまで僕が抱いていた感情に近いものに思えた。

「この時間が好きだから、だよ。……っと、そろそろ時間か」

 その答えはどの質問に対してだったのだろうか。そもそも僕はまだ疑問を先生にぶつけていないのに。どうして、からなんて言ったんだろう。

 先生は再び窓の方へ近づくと、開けていた窓をスライドさせて鍵を回す。ざわついていたカーテンは鳴りを潜めた。そして、今度は僕が座っている机に何かを置いた。丸みを帯びた銀の小物。これは、部室の鍵か。

「今日は、任せたよ」

 一言だけ残して先生は部室から足早に去っていった。

 静寂の中に一人取り残されてしまう。

 何故だろう。あれほどこの時間を待ち望んだはずなのに。何かが違う……。

 何が違うんだ?

 どこが違うんだ?

 言葉にできない何かが僕の心に蔓延って、考え事にも集中できず、不快感が僕に纏わりついていた。

 そして、廊下からざわめきが聞こえてくる。嗚呼、来てしまった。

 そう思った。

「こんにちはー」

 ワイワイと楽しそうに会話をしながら彼女らが僕の聖域に踏み込んでくる。

 嗚呼、終わった。

 そう思うしかなかった。


 **


 僕はいつ家に帰ったのだろうか。

 気が付くと家にいた。正確に言えば、自分の部屋のベッドの上で寝そべっていた。

 視線を横にずらすと、勉強机の上にカバンが無造作に置かれている。置いた記憶などない。無意識にここまでやったのだとしたら、僕は大したもんだ。もしくは今の今まで寝ていて、その記憶が霞んでいるだけかもしれないけれど。

 部屋に掛けられている緑色の時計を眺める。暫しのにらめっこ。変顔はせずにじっと見つめる。短針は十二付近を指していた。十二。じゅうにぃ?

 もうすぐ日付が変わるじゃないか。どうやら僕は帰ってきてからずいぶんと眠ってしまったらしい。まだ覚醒していない頭をフル稼働させながら体を起こす。あれ、夕ご飯は食べたっけ。制服のままということは、入浴はまだ済ませていないはず。

 自分が何をして、何をしていないのかを順々に把握していく。混乱しているときはまず状況確認をするのが、僕の癖だった。

 ふと、何気なく外の様子が気になった。

 理由なんてない。ただ覗こうと思っただけかもしれない。記憶にあったのが、先生が窓を開けていたことだったからかもしれない。暑かったから夜風に当たろうと思ったからかもしれない。いや、理由なんていっぱいあった。

 熱帯夜と自負してもよい暑さだったわりには、空は雨雲を運んでいなかった。代わりに見せたのは一つの星座だった。うっすらと今にも消え入りそうな感じで息を潜めている。まるで月の光から隠れるように。自分の存在が月の反射する光に吸い込まれないように。星座に感情なんてあるのかわからないけれど。そう感じた。


 夏の大三角形。

 そう呼ばれるものだ。

 こと座のベガ、わし座のアルタイル。そして、白鳥座のデネブ。

 望遠鏡なんか使わなくたってわかる。位置は大体覚えているから。あれが、デネブだ。


 今夜はどうにも眠れそうにない。

 もう頭が冴えてしまったから。デネブにときめく自分の鼓動がうるさいから。

 気になって眠れないんだ。

 白鳥しらとり先生が言った言葉の意味が気になって——。

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