超決戦バレンタイン 超巨大杉田玄白チョコと散れ

くれは

超巨大杉田玄白チョコと散れ

 今年の二月十四日、バレンタインデーは日曜日だ。

 幼馴染のカナ兄は、こういうのに疎いというか興味が薄い。なので毎年、どうしようかと悩んで、それで結局当日に買って渡すようなことを繰り返している。


 カナ兄は頭が良い。わたしよりも年上で、今は大学で、何やら難しい研究をしているのだそうだ。

 大学では有名人らしく、見た目もそこそこなので言い寄ってくる女の人もいるらしいけど、カナ兄があまりそういうことに興味を示してないので、ここまでは何事もないと聞いてはいる。


 わたしは兄妹のような幼馴染枠で、カナ兄の隣にいるだけだ。だから毎年、色気付いても良いものか、大丈夫か、悩んでは「一応ね」みたいな感じでチョコレートを渡している。

 カナ兄は一応お礼は言ってくれるし、ホワイトデーのお返しだって貰ってはいるけど。






 わたしは結局今年も、チョコレートを買った。

 とは言っても、わたしのお小遣いとバイト代からは、そこまで高価なチョコレートを買えるわけじゃない。しかもバレンタイン当日で、各種ショップでも売り切れ品は多く、選択肢は限られていた。

 そんな中で選んだのは、てのひらほどもある赤い色のハート型のチョコレート。

 最初に見たときに、あからさますぎてどうなんだろう、と思った。チョコレートだって、大きければ良いというものではない。一口サイズくらいの方が食べやすい。だから売れ残っているんだろうな、なんて思った。

 けれど、とても綺麗な赤い色だったのだ。


 チョコレートを手に入れて、わたしはカナ兄の研究所に向かった。

 カナ兄はこの若さで、自分専用の研究所を持っている。詳しくは知らないけど、スポンサーがとか特許料がとか聞いたことがある。まあ、なんだかよくわからないけど、やっぱりすごい人なんだと思う、カナ兄は。

 カナ兄は、ちょうどどこかへ出かけていたらしい。両手にビニール袋と紙袋を持っていた。その中には、綺麗にラッピングされた箱。時期的に、きっとチョコレートなんだろう。

 ひょっとしてカナ兄が誰かからもらったものなんだろうか。


「ハルカも見ていくか? 今ちょうど、研究が完成しそうなんだ。完成の瞬間を見届けて欲しい」

「わたしが見ても良いの?」


 わたしの言葉に、カナ兄は笑って頷いた。さっき買ったチョコレートが入った紙袋は、渡しそびれたままだった。






 研究所の一階は、いたって普通の事務室みたいな感じだ。二階には生活のためのプライベートなスペースがある。カナ兄はよくここで寝泊まりしている。

 そして、地下室。ここが、カナ兄の研究の中心だ。カナ兄の案内で、わたしは地下室に降りる。


 地下にある広い空間に、甘いにおいが充満していた。カカオのにおい。

 そして、見上げるほどの、巨大な茶色の塊。


 等身大ガンダム像のようなそれは、でも、ロボットのような姿形には程遠い。おじさんのような顔立ちは、どこか見覚えがあるような、でもよくわからない。

 隣に立っているカナ兄が、ドヤ顔をしている理由もわからない。


「カナ兄、これは何?」


 わたしの質問に、カナ兄はその程よく整った顔をきらきらさせながら答えてくれた。


「これは、チョコレート細胞と特殊チョコレート合金で作り上げた超巨大杉田玄白だ!」

「……杉田玄白?」


 ちょっと待って思い出せない、誰だっけそれ。






 カナ兄は、手に持っていたビニール袋と紙袋から、包装された箱を取り出す。そして、中身のチョコレートを取り出して、何かの機械で何かを測定し始めた。

 わたしはその間に、杉田玄白をネットで調べる。蘭学者、お医者さんなのか。ターヘル・アナトミアという単語は、確かに何かで聞いたことがある。

 その間に、カナ兄は手持ちのチョコレートの何かの測定を終えていた。そして、溜息とともに首を振る。


「あと少しで完成なんだ。けど、そのあと少しが足りない」


 そう言って手に持っているのは、ああ、わたしがさっき買ったのと同じ、赤いハート型のチョコレート。


「そもそも、何を作ってるの?」


 わたしの声に、カナ兄は手にしていたチョコレートを他のチョコレートでできた山に放った。カタカタ、と軽い音を立てて山が少し崩れたけど、カナ兄はそのチョコレートに見向きもしない。


「だから、超巨大杉田玄白だ」

「なんで杉田玄白?」

「今、人類は危機に晒されている。それを守って戦うものが必要で……ウィルスに侵されたこの時代には、杉田玄白の魂がふさわしいと思ってモチーフにしたんだ」

「何と戦うの? ウィルス? ワクチンを作るとか、そういう話?」

「俺にワクチンを作れるだけの技術と知識はないよ。そういうのは専門家の仕事だ。だから、俺は俺ができることをしようと思ったんだ」


 カナ兄の専門が何なのか知らないわたしは、カナ兄がワクチンを作れないと聞いても、そうなんだとしか思えない。でも、それでなんで杉田玄白を巨大化させようとしたのかは、やっぱりわからない。


「それで、なんでチョコレートで?」

「チョコレートに含まれる成分の中で、特定の周波に反応するものがあったんだ。元々は、別の研究の際の副産物だったんだけど、それをさらに応用して、最新の生体科学とサイバネティクス技術と合わせることで」


 カナ兄のスイッチが入ってしまって、わたしはいつものようにそれをただ聞くだけになる。

 相変わらず、カナ兄の言っていることはこれっぽっちもわからなかったけど、カナ兄がかなり興奮していることだけはわかった。


「超巨大杉田玄白を起動させるための、あと一つが足りないんだ。それで、チョコレートを色々買ってみたんだけど……どれも駄目だった」

「チョコレートが必要なの?」

「そう、この杉田玄白の心臓部になる、チョコレートだ。それがあれば」


 そう言って、超巨大杉田玄白を仰ぎ見るカナ兄。わたしも同じように仰ぎ見たけど、おじさんだなあ、という感想しか持てない。

 それでも、カナ兄に渡そうと思っていたチョコレートが手元にあったので、わたしはそれを差し出した。


「これ、カナ兄にあげようと思って用意したんだ。でも、役に立つかはわかんないよ。その中に、同じのがあったから」


 カナ兄は、きょとんとした顔でわたしが差し出した紙袋を受け取った。そういう表情をしていると、少し子供っぽい。

 カナ兄は、紙袋からチョコレートの箱を取り出す。そして、こんな時だっていうのに、とても丁寧に綺麗に包装を開いてゆく。中から出てきたのは、さっきまでカナ兄が持っていたのと同じ手のひらほどの赤いハート型のチョコレート。

 カナ兄はしばらくまじまじと箱に収まっているチョコレートを眺めて、それから顔をあげてわたしを見た。優しげに微笑んでくれている。


「ありがとう、ハルカ。試してみるよ。何かお礼しないとだな」


 単純なわたしは、カナ兄のその言葉で満足してしまったのだった。






 わたしが渡したチョコレートのなんらかの測定を始めたカナ兄が、すぐに興奮した声を上げる。


「ハルカ! これはどこで買ったんだ!? さっきのチョコレートと違う!」

「え、お店で普通に買ったよ。カナ兄と同じじゃない?」

「だって数値が全然違うんだ! なんでハルカのチョコレートだけ……個体差があるのか……? いや、今はとにかく、杉田玄白を起動させなければ」


 カナ兄は、わたしのチョコレートを持って、超巨大杉田玄白に近付くと、その脇に作られた階段を登り始めた。カン、カン、と足音が響く。

 それを眺めながら、ああ、わたしのチョコレートは杉田玄白のパーツになるのかと思った。本当はカナ兄に食べて欲しかったんだけど、カナ兄の役に立ったんならそれでも良いかな。


 超巨大杉田玄白の胸の前で、カナ兄はしばらく何かをしていた。下から見上げていてもよく見えないし、何をやっているかもわからない。でも、その胸元に、わたしのチョコレートを格納したのだけは、わかった。

 わたしが買ったチョコレートは、超巨大杉田玄白の心臓になるらしい。


 駆け下りるような足取りで降りてきたカナ兄は、興奮のままにパソコンに向かってすごい勢いでタイピングを始めた。


「さあ、いよいよだ。超巨大杉田玄白が起動するぞ!」


 そして、高らかに、エンターキーを打鍵する。その音とともに、地下室の天井が開き始める。ごおお、と音とともに、空気が外に流れ出す。

 超巨大杉田玄白は、チョコレートではあるけど、意外としなやかに動くみたいだった。昔のロボットアニメのように、両腕を持ち上げたかと思うと、そのまま上昇する。どうやって飛んでいるのかは、さっぱりわからない。

 カナ兄は操作の手を止めて、その光景をきらきらとした瞳で見上げている。


「すごい! 起動した! 杉田玄白が蘇った!!」


 杉田玄白も、まさかチョコレートとして蘇るとは思っていなかっただろうな、と思った。






 飛び立った杉田玄白をぼんやりと見送っていたのだけれど、突然警告音のようなものが鳴り響いた。研究室の天井になぜか取り付けられている回転灯が赤く光っている。


「え、カナ兄、これ何!?」


 混乱するわたしに、カナ兄は緊張を漂わせた顔を向けた。


「これは……ゴゾーロップの襲来だ」

「は? ゴゾー……?」


 研究室の壁が巨大モニタとなって、何かを映し出した。

 そこには……黒っぽい人型の何かが映っていた。人の形をしていることはわかるけど、その輪郭はもやもやとしている。黒く見えたけれどよく見ればそれは、様々な色を飲み込んだ、禍々しい紫色。

 隣のビルと比べると、随分と大きい。


「何、あれ……」

「あれはゴゾーロップ……人類を恐怖に陥れる存在。あれの襲来に備えて、俺は超巨大杉田玄白を作っていたんだ!」

「どういうこと?」


 ゴゾーロップと呼ばれる紫色の人型の巨大なそれが歩くと、近くの地面に止まっていた車が跳ね上がるのが見えた。近くのビルが崩れ落ちるのも見えた。

 これは、本当の出来事なの? もしそうなら、あの車には、あのビルには、人がいたんじゃないの?

 そんなふうに想像を巡らせて、ぞっとする。なんだあれ。何が起こってるの?


 カナ兄が、わたしの肩に手を置いた。それで、わたしは自分の体が震えていることに気付いた。


「安心しろ、超巨大杉田玄白が……あれを止めて見せる!」


 カナ兄のその言葉とともに、ゴゾーロップの前に降り立つチョコレートいろのおじさん。超巨大杉田玄白。超巨大杉田玄白を最初に見た時は、大きいと思って見上げたけど、こうやって並ぶとゴゾーロップよりも一回り小さい。

 あれで本当に大丈夫なんだろうか。だいたいチョコレートがどうやって戦うの。


「いくぞ! 超巨大杉田玄白、蘭学事始らんがくことはじめ!」


 カナ兄がタイピングをしながら、高らかに叫ぶ。その声とともに、モニターの向こうで、超巨大杉田玄白のチョコレートの手の先に、何か、ナイフのようなものが現れた。それも、チョコレート色だったけど。


「あれは、特殊チョコレート合金でできた杉田玄白専用メス! 対ゴゾーロップ用の武器だ!」


 ナイフじゃなくてメスだったらしい。それでも、一回り大きなゴゾーロップに対峙するには、心許ない武器に見える。

 わたしは、知らず胸元で祈るように両手を組んでいた。


 超巨大杉田玄白は、その巨大な体躯に見合わず、意外な素早さでゴゾーロップに迫った。そして、両手のメスを閃かせる。ゴゾーロップはその両腕を持ち上げて、メスの切っ先を受けた。切り裂かれたゴゾーロップの腕から、血しぶきのように、紫色の何かが溢れ出す。

 溢れ出したそれをかわしきれずに、杉田玄白は右足の先にその飛沫を浴びてしまった。そして、その箇所がじゅわっとした煙をあげて、溶けてしまったように少し抉れたのが見えた。チョコレートだから実際に溶けてしまったのかもしれない。


「くっ、チョコレート細胞はやはり強度が少し足りないか。だが、特殊チョコレート合金は有効だ! 甘く見るなよ! 解体すればこっちの勝ちだ!!」


 超巨大杉田玄白は、その両手のメスでゴゾーロップを解体しようと迫る。一回り大きい巨体の懐に潜り込んで、切りつける。その度に、あの紫色の飛沫を体のあちこちに浴びて、じゅうじゅうと煙をあげながら、体が熔け崩れて抉れてゆく。なかなか決着が付かないまま、両者の戦いは続いた。

 崩れ落ちるビルや建物。飛び散る破片。その中に、人の姿を見た気がして、わたしは思わず目を閉じる。

 バレンタインの日曜日、こんなはずじゃなかったのに。


「ハルカ、俺は今から、超巨大杉田玄白のリミッターを解除する」


 カナ兄の静かな声に、わたしは閉じていた目を開ける。カナ兄は、静かに、けれど強い決意をたたえた眼差しで、わたしを見ていた。


「リミッターを解除すると、どうなるの?」

「チョコレート細胞が秘めている力を全開放することで、ターヘル・アナトミアが使えるようになる。それで、あのゴゾーロップには勝てるはずだ。でも……」

「でも?」

「暴走するかもしれない。いや、するだろう。そうなったら、ゴゾーロップ以上の惨劇が起こるかもしれない」


 カナ兄は、キーボードの上で拳を握った。


「いや、暴走しても、俺が止める。止めてみせる。今は、ゴゾーロップを倒すことを優先しなければ」

「わたしはよくわからないけど、カナ兄がそうした方が良いって思ったんなら、それが良いと思う」


 わたしの言葉に、カナ兄は少しほっとしたように笑った。そして、その左手をわたしの方に向けた。


「ハルカ、手を握っていてくれないか」


 わたしは両手で、カナ兄の左手を握る。それで、カナ兄が少し震えているのがわかった。


「今ここに、お前がいてくれて良かったよ」


 その言葉になんて応えたら良いのかわからない。でも、ぎゅっと、カナ兄の手を握り締めた。カナ兄は、右手だけで華麗にキーボードを操作する。そして、高らかな打鍵音とともに、叫んだ。


「リミッター解除! いくぞ! ターヘル……アナトミアァァぁぁっ!」


 超巨大杉田玄白が、メスを持ったその両手をぐるりと回した。円を描くように。

 それに合わせて、ゴゾーロップの巨大な体が宙に浮く。はりつけにされたような、その姿。両腕をまっすぐ両脇に、両足は軽く開いて。そして、その周囲に茶色い円が現れて、ゴゾーロップの姿を取り囲む。

 紫色の何かを傷口から吹き出しながら宙に磔にされたゴゾーロップに、全身が溶け爛れてぼろぼろになった超巨大杉田玄白が跳び上がって迫る。そして、すれ違うその刹那に、無数のメスの軌跡が煌めいた。

 超巨大杉田玄白が着地するのと、ゴゾーロップの体がばらばらに崩れ落ちるのとは同時だった。


 ほっと、手の力を抜く。

 カナ兄は、また両手でキーボードを叩き始めた。


「計算よりも、進行が早い! まずい、このままだと爆発は免れない」

「暴走というのが起きてるの?」

「今、内部の接続を無理矢理切り離して防いでいる。でも、外から干渉し続けてぎりぎりの状態だ」


 巨大モニターの向こうの杉田玄白は、その表面がどろどろと崩れ始めていた。なんとか人としての姿は留めているけど、もうその顔を見て杉田玄白だと判別はできないだろう。

 といっても、わたしは別にその顔が杉田玄白だとわからなかったから、あまり変わりはないのだけれど。


「爆発すると、まずいんだよね?」

「かなりの広範囲に渡って、全てチョコレート細胞に覆われて、侵食されて……何百年かは人の暮らせない土地になるだろう」

「止める方法はないの?」


 カナ兄はキーボードを叩く手を止めず、視線も動かさないまま、答えてくれた。


「心臓部を取り出せば、この暴走は止まる」

「心臓部?」

「最後に組み込んだ……ハルカからもらったあのチョコレート、あれがエネルギー源なんだ。あれを切り離して取り出すことができれば」


 カナ兄は悔しそうに顔を歪めながらも、手を止めない。

 方法がわかっているのだから、自分でできるならとっくに試みているはずだ。それができないのは、今はカナ兄がここで何かを防いでいて、それで手一杯だから。

 わたしは、巨大モニターの向こうの超巨大杉田玄白を睨んで、それから頷いた。


「わかった。じゃあ、わたしが行ってくる」

「はぁ!?」


 カナ兄は一瞬手を止めてわたしを見て、それから慌ててまたキーボードの操作に戻る。


「駄目だ! 危険なんだぞ! ハルカにそんなことさせられるか!」

「だって、カナ兄は手が離せないんでしょ。それに、わたしだってさっき、カナ兄に暴走するかもって言われて、よくわかんないけどそれで良いと思うって答えちゃったし。それにそれに、元々はわたしがあげたチョコレートなわけだし。うん、わたしが責任持って、自分で取り戻してくるよ」


 そしてわたしは、カナ兄の制止を聞かずに飛び出した。






 街並みはひどい有様だった。紫色と茶色が飛び散って、建物が壊れている。その中で、救助活動をしている人たち。泣き声。叫び声。

 わたしは大きく首を振って、溶けかけの超巨大杉田玄白に向かって走った。

 この惨状は、カナ兄のせいじゃない。あの、ゴゾーロップという巨大な何かが、これを引き起こした。カナ兄は、それを救おうとしただけだ。

 だけど、あの超巨大杉田玄白が爆発をしてしまったら、カナ兄のせいになってしまう。わたしは、それを止めたい。カナ兄が、世界を救おうとしたその気持ちを、わたしは救いたいんだ。






 甘くて香ばしいにおいが漂っていた。溶けかけの杉田玄白の足元に立って、見上げる。人としての輪郭がだいぶ曖昧になっているので、もう杉田玄白と呼んでいいのかわからないけど。

 そっと波打つ表面に触れると、少しだけ手にチョコレートがついたけど、意外と硬い。ただの溶けかけのチョコレートではないみたいだ。

 わたしが買ったあのチョコレートは、胸元に入っているはず。でも、どうやってあそこまで行けば良いだろう。よじのぼったりできるだろうか。


 そんなことを考えて、目の前の巨大な足を軽く叩いたところで、スマホが鳴り出した。カナ兄からの通話だった。


「カナ兄! 大丈夫なの!?」

「それはこっちのセリフだ!」

「わたしは大丈夫。今、足元にいるよ。でも、どうやってあのチョコレートを取り出せば良いのかわからなくて」


 溜息が聞こえた。


「左足の後ろ側に取っ手がある。人間で言うところのかかとの部分だ。その取っ手は、梯子になって上まで続いている。腰まで登れば、そこにハッチがあって、中に入れる。中に入ったら、あとは上を目指せ」

「左足の後ろ」


 スマホを耳に当てながら、ぐるりと回ってペタペタと足に触る。チョコレート色の表面に、確かにコの字型の取っ手のような出っ張りがあった。それが一定の間隔で、上まで並んでいる。わたしは、片手でそれを掴んだ。

 うん、大丈夫、きっと登れる。


「見付けた。じゃあ、ちょっと登ってくるね」

「ハルカ……やっぱり、戻ってこい。あとは俺がなんとかするから」

「嫌だよ。わたしは行くから」

「……チョコレート細胞の活動を抑えている。でも、もうそろそろ限界だ。時間がない」

「わかった。急ぐよ」

「やっぱり俺がそっちに向かうから」

「わたしは大丈夫だから、カナ兄はカナ兄がやらないといけないことをやって」


 わたしはそう言うと、通話を切った。電源も切って、ポケットに入れて、そして両手で取っ手を掴む。手にチョコレートがついて滑るけど、登るくらいは大丈夫そうだった。

 一番下の出っ張りに足をかけて、目一杯手を伸ばして、わたしは自分の体を持ち上げた。


 そうやって、一段一段登ってゆく。今、どのくらいの高さだろう。下を見ると、すくみそうになるから、わたしはひたすらに上を見て登った。

 焦ると、チョコレートと汗で手が滑る。落ちたら、死んでしまうかもしれない。

 嫌な想像が頭を過ぎる度に、わたしは目を閉じて、カナ兄のことを思い出す。そしてまた、目を開けて上を目指した。


 ももくらいまで登ったとき、頭上から溶けたチョコレートの塊が落ちてきた。咄嗟に顔を伏せたけど、避けられるわけもなく、わたしはどろりとした甘いにおいのそれを頭から被ってしまう。その勢いで、ずるり、と取っ手から左手が離れて、右手だけはと頑張って握り締める。右足も滑り落ちて、肩がきしむ。

 ぼたぼたと、茶色い雫がわたしの髪から落ちる。チョコレートを吸った服が重い。左手でもう一度取っ手を掴んで、体勢を整えて、また登り始める。

 もう、登るしかないんだ。


 チョコレート塗れになりながら、わたしはようやく腰に辿り着く。学校の屋上くらいの高さだろうか。

 わたしの目の前で、腰の一部がぱかりと開いた。これが、カナ兄の言っていたハッチなのかな。もしかしたら今のは、カナ兄がどこかから見ていて、開けてくれたのかもしれない。

 わたしは、その空間に手を伸ばして、よじ登るように中に入り込んだ。


 カカオの甘いにおいに充ちたその空間は、一面がチョコレート色だった。

 チョコレート色のコードでびっしりと埋め尽くされていて、そしてそのコードが血管のように波打っている。生き物めいたその動きが、少し怖かった。

 その空間は、ずっと上まで続いていた。目の前の壁に、また取っ手が上に向かって等間隔に並んでいる。

 カナ兄も上を目指せって言っていた。登るしかない。登るだけだ。






 ずっと持ち上げている腕が限界を訴えてきた頃になって、ようやく辿り着いたみたいだった。

 梯子を上がったところの、細い壁のようなところに立って、目の前の空間を眺める。


 液体のチョコレートが、目の前で渦を巻いている。腕を伸ばすと、さらりとした柔らかなチョコレートは、抵抗なくわたしの手を迎え入れた。

 この向こうなんだろうか。自信がないまま、しばらくぼんやりとその渦巻くチョコレートを眺めていた。

 その動き続けるチョコレート色の渦の向こう、その隙間に、一瞬ちらりと赤い色が見えた。


 あの、綺麗な赤い色。わたしが買ったハートのチョコレートの。


 その瞬間、わたしは後のことを考えずに、そのチョコレートの渦の中に飛び込んでいた。




 チョコレートが、口の中に入り込んできて、甘い。息ができなくなるほどの甘さだ。

 渦巻くチョコレートに翻弄されて、行き先を見失いかける。その度に、あの赤い色を探して手を伸ばす。

 赤いハート型のチョコレートは、不思議なことに、その渦の中で光っているように見えた。その赤い光を目指して、わたしはもがくように進み続ける。


 あの、赤いハート型のチョコレートは、わたしがカナ兄に食べてもらいたくて買ったものだ。だから、取り戻して、もう一度、きちんとカナ兄にあげるんだ。


 手を伸ばす。その指先が、赤い光に触れる。

 息が苦しい。


 ようやく捕まえたその赤いハート型のチョコレートを、わたしは両腕で抱え込んだ。






 わたしを取り囲んでいるチョコレートが、さらりと溶け落ちて崩れてゆくのが見えた。そのまま、わたしはチョコレートと共に地面に落ちてゆく。

 地面に流れ落ちる大量のチョコレート。その中を落ちてゆくわたし。

 柔らかなチョコレートの層があったからか、落ちた衝撃はほとんどなかった。ただ、わたしはそのまま、どぷりと、チョコレートの中に沈んでしまった。






「ハルカ! ハルカ!」


 カナ兄がわたしを呼ぶ声を聞いた。チョコレートを掻き分けて、中に沈んだわたしを助けてくれたカナ兄。

 息が苦しい。背中を叩かれて、げほげほと口の中のものを吐き出す。甘いチョコレートが、口から出てゆく。


 咳き込むのが落ち着いてもまだ、喉にチョコレートが絡まっている気がして、何度も呼吸を繰り返す。


「ハルカ! 良かった!」


 カナ兄がわたしを抱き締めた。わたしもカナ兄も、チョコレート塗れだった。


「カナ兄、どうなったの……? 爆発は……?」

「大丈夫だった。間に合った」


 わたしの肩口に顔を押し付けるカナ兄は、少し泣いているのかもしれなかった。


「無事で良かった」


 周囲には、大量のチョコレート。そのチョコレートの真ん中に、わたしとカナ兄はいた。

 このチョコレートはきっと、あの超巨大杉田玄白の成れの果てだ。


「カナ兄は、大丈夫?」

「俺は……俺より、お前が……」


 カナ兄がわたしの体を離して、わたしの顔を両手で拭って覗き込んでくる。そのチョコレートと涙でぐちゃぐちゃの顔を見上げる。本当に無事みたいで、ほっとした。


 そして、自分が大事に抱えているものに気付く。

 わたしは、その赤いハート型のチョコレートをカナ兄に向かって差し出した。


「これ、貰ってくれる?」


 カナ兄はきょとんとした顔で、わたしが差し出すチョコレートを見ていた。


「バレンタインだから、カナ兄に食べてほしくて用意したんだよね」


 わたしの言葉にカナ兄はくしゃくしゃっと笑うと、それからわたしが差し出すチョコレートに口を付けて、一口かじりとってくれたのだった。

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超決戦バレンタイン 超巨大杉田玄白チョコと散れ くれは @kurehaa

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