第四夜・一目連

 八月十五日は終戦記念日であり、それはとりもなおさず我が校の登校日でもあった。

 蒸し暑い講堂で校長の訓辞をうんざりした気持ちで聞いたあとは、お定まりのショートホームルームで、それが終われば下校である。

 ただ、その日は落研の誰もこない——榎田先生すら来なかった——定期発表会の日でもあったから、わたしはいつもの礼法室で、永遠子の噺を聞いていた。

 それはなんとも不気味な怪談噺だった。『妾の鈴』というらしいが……今まで聞いたことがない。もっともわたしにしたところで落語に詳しいわけでもないから、それが古典のものなのか、それとも比較的新しいものなのかさえ、わからなかったのだが。

 わたしとしては噺の内容よりも、永遠子の着物姿に目を奪われていた。

 黒い絽の着物に透けて見えるのは、青地に大小の白い雪輪模様で、それだけでも目に涼しい。そしてその黒い着物姿は、

 ……彼女の姉だというあの人物のことを、嫌でも思い起こさせた。

 彼女は自分自身をぬえと言った。

 それが芸名であることはわかっていたが、どこか薄気味悪い感じがした。それに、……鈴。

 髪に結わえたあの大きな鈴が奏でる、しゃらん、という音が、未だに耳に残っている。

 彼女と永遠子の関係を、わたしは知らない。異母姉妹ではあるのだろうが、あるいはあの夜、もう少し突っ込んで、訊いてみればよかったのかもしれない。けれどその機を逸してしまった今、もう、永遠子は何も語ってはくれないだろう。

 永遠子は秘密にしたいこと、喋りたくないことは決して口にしないから。何を訊いてもはぐらかしてしまうから。短い付き合いだけれど、わたしにはそれがわかる。

 ……これから佳境というところで、永遠子は噺をやめた。

 お時間がきましたので、そう言って。

 わたしは頭を下げた永遠子に小さな拍手を送る。一体自分が何をしているか、どうしてこの場所にいるのか、わからなくなる。でも。

「こいさん」

 頭を上げて、かすれるような声でそう囁いた永遠子の顔が、あまりにも美しくて。

 わたしはすべてのことが、どうでもよくなってしまった。


 目に違和感を感じたのは、いつからだっただろう。

 子供の頃のことで、もう、覚えてはいないのだけれど。ただ、左目が焼けるように熱くて、脳の奥まで燃えるようで、死んでしまうのではないかと思ったことだけは、ぼんやりと記憶している。

 多分、苛烈な痛みがあったはずなのに。

 今は何も感じない。

 義眼を外して鏡に映る左目は、空虚であり、虚無の塊だった。落ち窪んだ眼窩のその向こうに、役に立たなくなった眼球の残骸が、かすかに見える。涙腺は生きているから涙は流れるのに。もう、左目が像を結ぶことはないのだ。

 だから、右目だけは大切にしなければならないのだと、改めて思う。

 もしも右目まで失ってしまったら。

 どうやって生きていったらいいのか、わからない。

 制服に着替え終えた永遠子に向かって、わたしはそんな話をした。永遠子は黙ってわたしの話を聞いていた。

 わたしは畳の上に横たわり、目をつぶった。こんなことを誰かに話したのは、初めてだった。

 瞼を通して、青白い泡が闇の中で踊っている。それはゆらゆらと揺れながら、どこか遠いところに消えていく。

 そのままじっとしていると、衣擦れの音がした。そして、

 永遠子がわたしに覆いかぶさってきた。

「……なに?」

 重いんだけど。そう言ってみるが、永遠子からの返事はない。

「永遠子?」

「うちが」

 再び黙ってしまう。

「……こいさんの目ぇになる」

 永遠子の体を抱きしめると、甘い吐息が耳朶をくすぐる。それはなぜか心地よくて、わたしは彼女の体を、強く抱きしめ直した。

「ありがと」

 でも、違うよ。違うんだよ。

「……こいさんのことが好き」

「わたしも永遠子のことが好きだよ」

「違う」

「なにが違うの?」

「……こいさんの好きと、うちの好きは……違う」

 わたしは永遠子を抱きしめたまま、どう違うの、と問うた。

 永遠子はするりとわたしの手を抜け出て、わたしを真上から見下ろした。

 黒い、絹のような永遠子の髪が、まるで天蓋のように。わたしの顔を覆っている。

「一緒だと思うよ」

「……なにがです」

「永遠子の好きと、わたしの好き」

 温かな雫を受けながら。

 わたしは、それが春の雨に似ていると思う。

 永遠子はわたしを見つめて、

 いつまでも泣き続けていた。


 右目の奥が痛い。

 嫌な夢にうなされて起きて、慌てて脱衣所に駆け込み、髪を掻き揚げた。

 ……うまく焦点が合わない。

 けれど徐々に落ち着きを取り戻して見つめ続けていると、自分の顔の輪郭がしっかりとしてくる。

 右目は、……特に変わった様子はない。

 それでも、疼くような痛みを感じる。重く、だるい感じ。脳の奥が熱を持っているような、嫌な感じがする。

 心臓が、まるであのライブの夜のドラムのように、わたしの胸を叩き続けている。

 黒い何かがわたしの胸に居座って、いつまで経っても去らなかった。

 翌日、夏休み中だというのにわたしは学校に向かった。

 なにがわたしを駆り立てたのか、自分でもよくわからない。

 でも、どうしても。そこに行かなきゃいけないと思ったのだ。

 制服を着て、日なかの電車に乗る。電車の窓には全て遮光カーテンが降りていて、座席にいると外の風景が見えない。車内では並んだつり革が、規則的に揺れている。光と影がそれと同期するように、ゆらりゆらりと踊っている。

 まるで目眩を覚えそうなこの風景を、わたしはいつか懐かしく思い出すときがあるのだろうか。

 人の少ない電車のなかで、わたしはそんなことを思った。

 学校には休みのさなかでも結構な数の生徒がいた。運動部の子や、解放している図書館に来ている子もいるようだ。

 わたしはぼんやりと、ランニングをしている女生徒の甲高い声を聞きながら、校舎の裏手に回った。

 強い日差しと、蝉の声。

 開け放たれた体育館の入り口から、バレーボール部の練習が見えた。きゅ、きゅとシューズの擦れる音と、ボールを打ち付ける音が響いている。

 わたしはそれを横目に手の甲で首筋の汗をぬぐった。そして……夏休みだからって指の毛の処理をしてなかったな、と思った。

 しばらく来ていなかった体育館裏のトイレは、相変わらず陰気な雰囲気を漂わせていた。

 ちらりと花の枯れた紫陽花に目を向けると、株のすぐわきに、燃え残った線香が供えられたままになっていた。

 この紫陽花は、来年にはどんな花を咲かせるのだろう。

 わたしには、もう、関係のないことだけれど。興味もないのだけれど。

 トイレの中に入ると熱気がこもっていた。

 すでに洗面台の上に備え付けられた蛍光灯は完全に事切れていて、薄暗いことこの上ない。ひびの入った鏡の中に、青白い顔をしたわたしの顔が映っている。

 昨日はあれから眠れなくて。

 目の下には不健康そうなくまが浮かんでいる。

 わたしはそっと、左目を外した。

 そしてもう一度、鏡の中のわたしを見た。

 今、永遠子がここに来たらいいのに。

 そんなことを思いながら、わたしはじっと、鏡を見続けていた。


 トイレから出ると、制服に汗染みができていた。目の前には榎田先生が立っている。どうして、という思いは、けれどちっとも抱かなかった。そんなこともあるかな、と思っただけだった。

「先生って、学校に来てるんですね」

「夏休み中だからって、仕事がないわけじゃないから」

「そういうものですか」

 わたしがうべなうと、先生はくすくすと笑った。

「そこのトイレ、あんまり使わないほうがいいわよ」

「自殺した生徒の霊が出るから?」

「ええ」

「でも」

 わたしは髪を掻き揚げた。

「それ、嘘ですよね」

「嘘というか、噂よね」

 ……どちらも虚構という意味では変わりないんだけど。

「紫陽花のわきの線香は、先生が?」

「そうよ」

 榎田先生はあっさりとそう頷いて、花の枯れた紫陽花に目を向けた。

「燃え残ってしまったわね」

「みたいですね」

 わたしもそちらに目を向けた。茶色く変色した花。まだ青々と茂る葉。そこに何が埋まっているのかなんて、どうでもいい。

 わたしには関係ないし、暴くつもりなんて初めからないのだ。

「先生は、わたしにここに来てほしくない、……ですか」

「あなたに、というよりも、誰にも、かな」

「永遠子にも?」

「……あの子は別かしら」

「どうして?」

「手伝ってもらっちゃったから」

 何を、とは、訊かなかった。

「それで、ですか」

「なにが?」

「……落研の顧問」

 さあ、どうでしょうね。そう言い残して、先生は立ち去った。あとには言い知れない、空虚な気持ちだけが残った。

 紫陽花の根元に埋められたものになんて、興味はない。

 永遠子にいくら脅されようと、榎田先生に見張られていようと、そんなものはどうでもいい。

 ただ、許せないのは、

 ……永遠子がわたしを信じていないこと。

 わたしに本心を隠していることだ。

 二人は何を共謀したんだろう。どんな秘密を共有しているんだろう。

 話したくないならそれでもいいし、訊く気もない。

 でも、

 でも。

「……あいつ、本当にわたしのこと、好きなのかな」

 わたしのつぶやきは誰に聞かれることもなく、夏の空に消えた。


 違和感、ですか。

 もう、何年もの付き合いになる眼科医は、わたしの右目にライトを当てながら、そう言った。散瞳薬を使用しているせいで、ひどく眩しく、焦点が合わない。

「はい、ここのところずっと、目の奥に違和感があって」

「……左目のときと同じような感じ、ですか?」

「さあ、左目を失明したときは小さすぎて覚えていないから、……よくわかりません」

 ライトを逸らされても視界は光に包まれていて、先生の顔すらまともに見えない。右目を検査するのは随分と久しぶりのことなので、わたしはすべての輪郭が曖昧な世界に戸惑っていた。

 いつもの病院の、いつもの眼科。

 なのに、胸が苦しくて、たまらない。

 本当は不安で、頭がおかしくなりそうだった。

「先生。……わたしの右目」

「まだ、なんとも言えません。強い痛みはないですね」

「はい」

「眼脂は?」

「少し、多いかもしれません」

「眼が乾くようなことは」

「それはないです」

 先生がわたしにした問診をパソコンに打ち込んでいく音が、聞こえてくる。

 ……以前、先生が話してくれた説明では、わたしの眼は他の人のそれよりも脆弱にできているのだという。

 眼の構造自体が脆いのだと。

 そのせいで、左目は壊れてしまった。直接的な原因がなんであったのかは、わからない。失明したのは、まだ、小学校に上がる前だった。

 眼をつぶると、両目から涙があふれた。なんで泣いているのか、自分でもよくわからなかった。

「……少し眩しかったかな。薬の効果が切れるまでは、暗い部屋で過ごしたほうがいいでしょうね」

 そう言って先生は看護師に指示して、わたしの手を引かせ、薄暗い場所へと連れて行った。

 それがどんな場所なのかはわからなかったけれど。

 誰もこない、何の音もしないその場所で、わたしは小一時間ばかり泣き続けた。


 永遠子から電話があったのは、その日の夜のことだった。

「……こいさん」

 わたしを呼ぶその声も、なんだか久しぶりに思えた。

 時計を見ると、夜の十時を過ぎている。

「どうしたの? 電話なんかしてきて」

「理由がなかったら、電話したらいかんのやろか」

 少しムッとした声で、永遠子が言った。

「そんなことない、嬉しいよ」

「ほんまですかぁ?」

「ほんまです。永遠子の声、久しぶりだなって思った」

「……うちも。こいさんの声、だから聞きたくて」

 永遠子の声が、わたしの耳をくすぐる。それだけで、ずっと感じていた言い知れない不安が、小さくなっていく。

「なぁな、明日、うちの地元のほうで花火大会があるんやけど……。ご一緒してくれへん?」

「また急な話ね」

「……駄目ですやろか」

「駄目なんて言ってないじゃない。いいよ」

 やった。

 永遠子の小さな声が、わたしの耳に届く。

 その声に、素直に可愛いな、と思えればよかったのだけれど。

 わたしの瞼の裏にちらついたのは、昼間の……榎田先生の姿だった。

「そういえばね、今日、学校に行ったよ」

 わたしがそう言うと、永遠子は怪訝そうに、学校? なんぞ用事でもあったん? と、訊ねた。

「そういうわけでもないんだけど。ふらっと」

「学校ってふらっと行くもんやったですか?」

 くすくす、と。

 永遠子の声は、いつだって耳に優しい。

 それが、少しだけ、腹立たしいのだ。

「久しぶりに体育館裏のトイレに。……ちょっとね」

「ちょっと?」

「うん。どうしても確かめたいことがあって」

「それって、六月にうちが……話したこと?」

 わたしはそっと眼を閉じて、スマホを持ち替えた。そして、違うよ、と言った。

「紫陽花なんて、関係ないよ。どう言ったらいいんだろう。うまく言葉にできないんだけど……けじめ、じゃないな。うーん」

「……こいさん?」

「お別れ、かな」

 わたしがそう言うと、永遠子が小さく息を飲んだのが電話越しにもわかった。

「わたし、お別れをしに行ったんだと思う」

 鏡の中の自分に。

 ……片眼のわたしに。

 お別れを言いに行ったのだ。

 いつか来るかもしれないそのときのために。それは予行練習のようなものだった。

 わたしが確かめたかったのは、わたし自身の感情だった。鏡の中のわたしを見つめる、わたしの感情が知りたかったのだ。

 今はまだ、もしかしたらという懸念だけだけれど。いつか、本当にお別れを言わなきゃいけないときが、来るかもしれない。

 唐突に。

 わたしの見えている世界、全てが、

「……ねえ、永遠子」

 永遠子はじっと黙っている。返事をしない。

「永遠子、着付けできるよね。せっかくだからわたし、浴衣で行こうかと思うんだ。だからもしもはだけたら、そのときはお願いできる?」

「ええよ。でも、普通そない簡単にははだけたりせぇへんよ。よっぽど……」

「せっかくのデートだもの。何があるかわからないでしょ?」

 わたしが遮るようにそう言うと、電話の向こう側でガタンと小さな音がした。そして、唸るような、永遠子の呻き声も。

 あちら側で何があったのかは知らないが、永遠子を動揺させられたのならば、ちょっと嬉しい。

「じゃあ、そういうことだから。待ち合わせは永遠子の最寄り駅でいい?」

 ……どうか神様。全部、消えてしまうその前に。


 空色の地に紅い蝶の柄の浴衣を着て、わたしは家を出た。もっとも、わたしが持っているのなんて、これ一着だけなのだけれど。

 この浴衣は中学生の頃に買ってもらったものだが、その頃から身長が変わっていないせいで、今でも十分に着られる。

 ただ、裸足に下駄という出で立ちで外を歩く習慣がないせいか、ひどく足元がおぼつかない。転ばないように、そろりそろりと歩いていく。

 アスファルトにからん、からん、という、下駄の音が響く。

 盛夏を過ぎて蜩が鳴くようになり、その声は、幾分涼しげな気持ちにさせてくれる。

 駅の改札を出ると、永遠子はすでにわたしを待っていた。

 白地に大きなあやめの柄が紺色で染められていて、古典的な柄なのに、永遠子にはよく似合っていた。

 わたしよりも背が高く、大人びて見えるので、なんだか自分の着物姿が子供っぽく思えてしまい、少しだけ気後れした。

「こいさんっ」

 永遠子がわたしを見つけて、大きく手を振る。

 その様子に何事かと、周囲の人が振り返る。

 だからさ、そういうの恥ずいんだってば。どうしてわかんないんだろう。

 わたしはやれやれと思い、少々赤面しながら、小さく片手を上げた。

「こいさんの浴衣、綺麗やわ。よう似合うてるえ」

「永遠子に言われると、なんか嫌味みたいだけど」

「え? なんでです?」

「だって」

 わたしはそっぽを向きながら、

「……永遠子の方が綺麗だもん」

 と言った。

 永遠子はちょっとだけ頬を赤らめて、照れ隠しをするように、両手をぱたぱたと振った。

「ややわ、ほんまのこと言うたら恥ずいやないですか」

 ……永遠子。そういうとこだぞ、と思ったけれど、口にはしなかった。

 っていうか、わたしより綺麗だと思ってんだね、あんた。

 まあ、確かにわたしは永遠子ほど美人じゃないけど、さ。軽くショックなんだけど。

「ん? 神妙な顔をしてどないしたん? ほな、行こ?」

 永遠子がわたしの腕に指を絡ませる。結い上げた髪。そのほつれ毛が、目の前で小さく揺れる。

「そういえば、台風は逸れたって言ってたけど。明日から雨でしょう。花火大会、今日開催でよかったね」

 わたしがテレビの天気予報で知ったことをそのまま話すと、

「せやねぇ。少し風がでたはるみたいやけど、影響はないやろねぇ」

 永遠子もそう言って、小さな笑みを浮かべた。

 駅前通りに吊るされた幾つもの提灯が、ふらりふらりと揺れている。

 屋台のオレンジ色の明かり。焦げたソースの匂い。

 男、女、子供、お年寄り……。人の波が河川敷まで続いている。

 永遠子はその列からするりと抜け出ると、ひと気のない方へと歩いていった。いったいどこに向かっているんだろう、と思ったけれど、でも、わたしは何も問わなかった。

 からん、からん、と、二人の下駄の音が響いている。

 竹やぶの前で不意に立ち止まった永遠子は、鬱金色の巾着の中から虫除けの携帯スプレーを取り出して、

「ちょっと目ぇつぶっててな」

 などと言いながら、わたしに吹き付け始めた。

「この先、蚊が多いんよ」

 永遠子は自分にもスプレーしてわたしの手を再びとると、薄暗い藪の中に足を踏み入れた。


 鈴虫の声がする。

 笹の葉の擦れるざわざわとした音。

 遠くの街灯が、ちらちらと瞬いている。

 誰もいない場所で、肩を寄せ合っていると、葉擦れの音に混じって、永遠子の息遣いがはっきりとわかる。

 どのくらいそうしていただろう。

 不意に、

 どんっ、

 という音がした。

 慌てて夜空を見上げると、一面に赤い光の花が咲いていた。

 次々に花火が打ち上がり、夜の中に消えていく。

 鼓膜を震わせる破裂音も、消えていくときの切なさを含んだ音も、胸の奥にまで響いてくるようで、わたしは声もなく、ただ、見つめ続けた。

 花火を見るのは、いつ以来だろう。

 打ち上げ花火って、こんなに大きかっただろうか。

 そうか……こんなに綺麗だったんだ。

 河川敷からは少し距離があるけれど、そのせいか周囲には誰もいない。

 わたしと、永遠子だけ。

 ちらり、と隣を窺うと、永遠子が暗闇の中から、じっとわたしを見ていた。

「なに? ……わたしじゃなくて花火を見なさいよ」

「こいさんは、どうしてそないな顔をしてはるん?」

「え?」

「どうして、そないな悲しそうな顔をしてはるんですか」

 悲しそう? ……わたしが?

「泣きそうな顔で花火を見たはる人、初めてや」

 永遠子の指先が、わたしの頬に触れた。

 わたしは彼女の指先を握った。

 花火が、永遠子の顔を、半分だけ赤く照らしている。アシンメトリーなその顔は、とても綺麗で。

 ゆっくりと唇が、わたしに近づいてくるのが見えて。

「……こいさん」

 わたしは、永遠子の肩を、両手で押した。

 永遠子は少しよろけて、驚いた顔でわたしを見た。

「ねえ、永遠子」

「こい、さん?」

 わたしは小さく深呼吸をして、

「部室でわたしに言ったこと、覚えている?」

 と、訊ねた。

「うちが、……言うたこと?」

「わたしが右目まで失うことになったら、永遠子がわたしの目になってくれるって。あれ、……本当?」

「ほんまやよ。うちが、こいさんの……」

「わたしはそんなこと、望んでないっ」

 わたしが大声を出すと、永遠子の肩がびくっと震えた。

「そんなの、違う。絶対に違う。わたしは確かに友達もいないし、右目まで光を失ったら、きっと生きていけない。でも、だからって、あなたに、……同情されたくない」

 永遠子の目が、大きく見開かれた。

 その表面に浮かんだ涙が、頬を伝って、落ちていくのが見えた。

「わたしは永遠子のことが好き。大好きよ。でも、ううん、だからこそ、ずっと負い目を感じながら生きていくのは嫌なの。勘違いしないでね、だからあなたにも負い目を晒して欲しいって言っているわけじゃないの。あなたが榎田先生と何をしていたのかなんて、知らないし知りたくもない。あなたとあなたのお姉さんとの確執だって、わたしには関係ない。言いたかったら永遠子はわたしにちゃんと言うもの。そう信じているもの。だからそんなのどうだっていい。どうだっていいの。でも、許せないのは、わたしを理由にしようとするところ。ねえ、わたしだったら与し易いと思った? 可哀想だと思って同情してくれた?」

 永遠子は泣きながら首を横に振った。

 そんなつもりじゃない。そう言いながら、何度も首を横に振り続けていた。

 正面から彼女を抱きしめると、体が震えているのに気づいた。

「……ごめん、言いすぎた」

 わたしの肩に押し付けられた永遠子の唇から、熱い吐息が漏れた。

 涙が浴衣に染み込んで、肌を刺すようだった。

「もしかしたら、わたしは失明するかもしれない。しないかもしれない。それは誰にもわからない。左目だって何が原因でそうなったのか、わからないから。でも、後悔したくない。それまでに、見たいものがいっぱいあるの。……ねえ」

 顔をあげてよ。

 わたしがそう言うと、永遠子は恐る恐る、わたしの肩から顔を離した。

 永遠子の顔を見上げる。

 涙に濡れていて、眉がゆがんでいても、やっぱり彼女は綺麗だった。

「永遠子は綺麗だね」

 指先で、彼女の頬を拭う。

 どうしてわたしたちは出会ったんだろう。

 あの、誰もこないはずの場所で、どうしてわたしたちは。

 ……まあ、いいか。そんなこと。

 わたしは少し背伸びをして、永遠子の頬にキスをした。

 永遠子の顔が真っ赤に染まっていたのは、たぶん、花火のせいじゃないと思う。


 ——異常気象なんてことを昨今では言いますが、昔は八月にこんなに台風が来た覚えはございません。やはり地球の温暖化のせいなんでございましょうか。子供なんぞはいい気なもので、学校が休みになる、なんて言って喜んでおりますが、八月といえば夏休みの真っ盛りでございますから、その嬉しさも半減というもので。それどころか楽しみにしていた行楽が台風のせいで中止になるっていうので、嬉しいどころじゃありません。

 三重県桑名市には台風を神格化した神様が祀られているそうで、その御神体は龍、もしくは蛇体なのだとか。この神様は一つ目でございます。一つ目の神様といえば鍛治の神様と相場が決まっておりますが、これなんかは日本に限らず、世界各地に見られているというようなことを聞きました。ギリシャ神話に出てくる一つ目の巨人は、主神の雷霆を拵えましたし、えー、アイルランドの伝承に出てまいりますバロールという巨人も一つ目なのだそうです。鍛造に関わる神話上の登場人物がどれもこれも片眼というのも不思議な話でございます。

 わたしが高校生の時分ですが、一つ上級の先輩に、病気で片眼になってしまった方がおりました。学校ではクラスメイトにもそのことを内緒にしていたのですが、ひょんなことからわたしはそれを知ることになってしまいまして。というのも裏庭の紫陽花の下にある大事なものを埋めていたのですが、掘り返しているときに、手が汚れてしまったのに気づいて、水で洗おうと思ったのでございます。近くに幽霊が出る、なんて噂の立つ古いトイレがありまして、そこでさっさと指先だけでも洗ってしまおうなんて考えていたんですが、先客として入っていたのがその当の本人で。どんな理由があったのか存じませんが左目の義眼をこう、外していて、鏡を覗いていたところにバッタリと出くわしてしまいました。義眼と申しましても丸い球体みたいなものではなく、形としましては大きなコンタクトレンズのようなものを想像していただくとよろしいかと思います。それをぎゅっと握りしめているところに遭遇したんですから、驚いたのなんの。まず人がいるなんて思ってもみませんでしたし、その人……女子校でございましたから、当然女の子でございますが、片眼がない。一瞬本当に幽霊かと思いまして、泡を食ってそそくさと立ち去ってしまいました。それから何日か経ったあとでございます。その先輩がわたしを訪ねて、教室までやってきたのでございます。どうやらわたしが自分のことを言いふらしていないかどうか、心配だったようで。わたしとしましては彼女のことを当初は幽霊だと思っていましたから、言いふらしたりはいたしません。だって呪われたら嫌ですから。逆に、ああ、生身の人間なんだと思って、ほっとしてしまいました。それからその先輩とはお昼ご飯をご一緒する仲になりました。と言いますのも、わたしは彼女に輪をかけてぼっちだったので、同級には一緒にランチをする友達もいないという体たらくでございましたから、情けないとしか言いようがございません。彼女は美しく、気高い人でございました。孤高、というのでございましょうか。クラスの中で自分を押し殺していても、わたしにはそれがわかったのでございます。自分自身の価値観を、しっかりと持っていた。わたしはそんな彼女にいつしか憧憬の念を抱くようになっておりました。彼女を見ていると、自分の生い立ちやあれこれ悩んでいたことが皆、どうでもいいことなんだと思えるようになったのです。……結果的に程なくして彼女はもう片方の眼も悪くして、学校を去ることになってしまいましたが……わたしにはまるで、それまでの期間が嵐の季節だったように思います。わたしを巻き込み、わたしを……変えさせてくれたのですから。今でもその方とは懇意にさせていただいております。懇意、というと語弊があるかもしれません。実はわたしの現在のぱーとなーでございまして、ええ、だからこれは、惚気でございます。


 わたしは彼女と出会って、いろいろなことに気づかされました。そのことにつきましては、これからまた、お話しする機会もあるかもしれません。けれども今はそっと胸の中にしまっておいて、一人きりで眺めていたいと思います。


 百合と妖怪の噺、第四夜・一目連。これにて全て、幕でございます。

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百合と妖怪の噺。 月庭一花 @alice02AA

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