第三夜・鈴彦姫

 お行儀が悪いかな、と思いつつ、お昼ごはんを食べ終えたわたしはうつぶせになって、手足を大の字に伸ばし、畳の冷たさを全身に感じていた。

 七月を過ぎると途端に暑くなり、気の早い蝉が夏の到来を告げるように、耳障りな声で鳴いている。この陽気では、外で食事をするのはさすがに厳しい。きっと日に焼けてしまうだろう。ちらりと首だけ動かして見た窓の外の空の色は、湿気で少し霞んでいた。

「こいさん、それ女の子の格好とちゃうわ。もっとしっかりせんと。今からそない暑がってたら、八月になったらどないするん?」

 お弁当を食べ終えた永遠子が、呆れたようにわたしを見つめて、そう愚痴をこぼす。わたしは、だって畳が気持ちいいんだもん、と言いながら、そのままの格好で横たわっていた。

「永遠子もどう? 気持ちいいよ」

 礼法室は、他の教室よりも涼しい。

 冷房も入っていないのに、どこかひんやりとした空気で満たされている。風通しがいいわけでもないのだけれど。不思議なものだ。それとも、清涼感のある畳の匂いに、そう感じるだけなのか。

「うちはそんな格好ようしません。誰か来たらどないするんです」

「こんなとこ、誰もこないよ」

 わたしが笑いながら言った、矢先のことだった。

 礼法室の戸がからりと開いて、誰かが入ってきた。わたしは慌てて起き上がり、左目に前髪がかかるように、咄嗟に髪を直した。

「……木ノ下さん、文化祭のステージ使用の申請書、持ってきたわ」

「ありがとうございます」

 驚いたことにそれは榎田先生だった。

 どうして……先生が? そんな疑問をよそに、永遠子と先生はなにやらこまごまとした、事務的なやり取りをしている。わたしはそれをしばし呆然と眺めていた。

「じゃあ、そういうことで。ああ、それと花菱さん」

「は、はい」

「頬に畳の跡が付いているわ。一応、ここは礼法室なのだから。お行儀よくなさいね」

「……はい」

 榎田先生は自分の右の頬を撫でて、苦笑を浮かべると、静かに部屋から去っていった。そして。

 くすくす笑っている永遠子を睨むと、彼女はふいっと視線をそらすのだった。

「どういうことなの?」

「どういうことってなんな?」

「……先生がお昼休みに来るって知ってたんでしょう」

「さあ、うちはよう知りません」

 嘘つき。

 糸のように目を細めて笑っている永遠子の姿を見て、そう思った。

 けれど、どうして榎田先生が礼法室に来ることになったのだろう。それがよくわからなかった。文化祭の申請書がどうのと言っていたけれど……榎田先生は今年クラスの受け持ちをしていないし、永遠子とは関わりがないはずなのに。

 わたしがその疑問を口にすると、永遠子はしれっとした顔で、

「ああ、落研の顧問、榎田せんせにお願いしたんよ」

 と言った。

「顧問?」

「そやよ。うっとこは顧問のせんせがずっとおらへんかったやろ。それにせんせ、暇や言うてたし」

 わたしは右目だけで、じっと永遠子を見ていた。どこまでが本当で、どこからがごまかしなのだろう。嘘ではないのだろうが、真実のはどの程度含まれているのだろうか。わたしには推し量ることすらできなかった。

「本当に、それだけ?」

「それだけ、言うんは?」

「先月のこと、忘れたとは言わせないから」

 真っ赤な紫陽花のことを。

 今頃あの赤い花は、どうしているのだろう。本格的な夏が来る前に、すでに枯れてしまっているのだろうか。

 あれ以来あの場所には足を向けていないから、行く気もないから、もう、わたしに知り得ることではないのだけれど。

「だから、あれはうちの作り話やって何遍も言うたやないですか」

 そうだろうか。

 わたしにはそうは思えなかった。

「それより、もうお昼休み終わってまうよ。はよ片付けんと」

 永遠子は申請用紙に目を通しながら、わたしを見ずに、歌うようにそう言った。


 七月も期末テストを終えてしまうと、あとはもう夏休みまで両手の指を折って数えるくらいの日数しか残っていない。テスト用紙の返却で忙しなく、授業が午前中しかないこともあって、礼法室には足が遠のいていた。

 お昼ご飯がないのだから、永遠子がわたしを迎えに来ることもない。

 そういえばお互いに連絡先を交換していなかったことを、わたしは二ヶ月近くも経って、改めて気づいた。どうして今まで失念していたのだろうか。もっとも、彼女と連絡を取り合ってどうこうするようなことがあるのかどうか、甚だ疑問ではあったが。

 ……でも。

 ふと思う。

 わたしは彼女の……永遠子のことを、どれだけ知っているのだろう。以前永遠子は、自分をつぎはぎのイメージの集合だと嘯いていた。永遠子を取り巻くイメージの集積のその中に、わたしの印象も含まれているのだとしたら……わたしはすでに彼女に取り込まれている。

 ならば彼女の正体を、わたしは本当の意味で知ることができるのだろうか。

 特に先月のあの一件以来、わたしは彼女が何を考えているのか、よくわからなくなっていた。もっともそれまでだって永遠子はわたしの理解の範疇を軽く超えてはいたのだけれど。

 永遠子のことは友達だと思っているし、いい子だと思う。

 けれどもっと深く知りたいと思うと、彼女はするりと逃げて行ってしまう。……そんな気がして、どこまで近づいていいのか、わからない。

 放課後。苦手な英語がなんとか赤点を免れたのでホッとしていると、不意に肩を叩かれた。見ると挨拶を交わす程度の親しさしかないクラスメイトで、わたしに何か用事があるのかと、少し身構えてしまう。

「えと、何か用?」

「今日金曜日で明日も祝日じゃない? だからこれからみんなでカラオケ行こうかって話が出たんだけど、どうかな」

 わたしはちょっと唖然として、彼女の顔をまじまじと見てしまった。

 カラオケ? ええと、わたしを誘っている、の?

 何がどうして、そういう流れになったのだろう。

 わたしが何も言えずにいると、

「あんまり花菱さんと放課後遊んだことないしさ、たまにはどうかなって」

 にっこりと笑いながら、そう言ってくれる。そこに他意はないように思えた。

 気持ちは嬉しいけど、でも。

「ごめんね、今日はちょっと、病院に行かなくちゃいけなくて」

「そうなんだ。どっか悪いの?」

「……うん。小さい頃から持病があって」

「そっか。じゃあ、仕方ないね。また今度ね」

 わたしはばいばい、と手を振る彼女の後ろ姿を、黙って見ていた。

 心が寒々として、何も考えられなかった。

 ゆっくりと荷物を整理して鞄の中に押し込むと、わたしは足早に教室を出た。そのまま校舎を出る。夏の日差しがじりじりとわたしを焼く。それは焦燥にも似て、ひどく心をかき乱す。

 どうして、

 どうして。

 その言葉だけがわたしの頭の中で、破れ鐘のように響いている。

 どうしてわたしは、彼女の申し出を断ってしまったのだろう。どうして彼女は、彼女たちは、わたしなんかを誘ったんだろう。どうして、どうして。

 ……これまでも、わたしはこんな風に誰かの手を振りほどいて生きてきたのだろうか。今、自分を取り巻くこの状況は、わたしが周囲を遠ざけてきただけなのか。違う。今日病院に行かなきゃいけないのは嘘なんかじゃない。でも、違う。根本的な原因はそんなところにあるんじゃない。善意と悪意は一人の人間の中に表裏一体で存在している。そうでなければ、小学校の頃、あんな理不尽な目に遭うことなんてなかった。それまでずっと友達だと思っていたのに。誰も助けてくれなかった。みんな、わたしを見て素知らぬふりをしていた。ううん。いじめに加担さえした。……違う。今回のことはもっとずっと単純なことで、ただ単に遊びに誘ってくれただけだ。そう思いたいのに、なのにどうして。……どうして。

 どうしてこんなにも気持ちがささくれ立つのだ。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、駅までの道を足元だけを見つめて歩いていると、不意に、

「こいさん」

 と、声をかけられた。

 そんなふうにわたしを呼ぶ人間は、一人しかいない。

 振り返るとそこに立っていたのは、やはり永遠子だった。

「……こいさん?」

 足を止めた永遠子は、怪訝そうにわたしを見ている。わたしは何も言葉にできずに、ただ、永遠子を見つめ返していた。


 誰もいない公園で、わたしたちは木陰のベンチに座っていた。駅の反対側にある小さな公園だから、うちの学校の生徒もここまでは来ないだろう。

 そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。

「こいさん、うち以外にも友達を作ったほうがええよ」

 わたしがことのあらましを話すと、苦笑しながら永遠子がそう言った。表面上仲良くしてるだけやない、本当の友達を、と。

「永遠子に言われたくない」

 俯いたまま、永遠子の顔を見ずに、わたしは言った。いつも友達なんていないと嘯いている永遠子に、そんなことを言われたくはないと思った。

 公園の中央に植えられた百日紅の木に、ピンク色の花が咲いている。どこか遠くで、トラックのクラクションの音がした。それは空気を割るようにして、わたしと永遠子のあいだに、そっと滑り込んできた。

「……うちは、こいさんのこと、好きやよ」

 それがどういう意味を含んだものだったのかわからなかったけれど、わたしは小さく頷いた。

「病院に行く言うんはほんとなんやろ?」

「うん。左目の定期検査があって」

「じゃあ、うちもついてったげる。……行こ?」

 先に立ち上がり、わたしに向かって手を差し伸べる。

 どうして。

 ここでもまた、その言葉が心の中から沸いた。そしてその言葉を、わたしは永遠子に投げつけていた。

「どうして、永遠子はわたしと仲良くしたいと思うの」

「さっき言うたやないですか」

 永遠子は目を細めて苦笑している。

「うち、こいさんのこと、好きやもん。好きって気持ちに理由なんているん?」

 いると思う。

 だって、何かきっかけがなければ、人は人を好きになったりしないもの。でも、ならば。

 ……わたしはいつ、永遠子を好きになったんだろう。

 差し出された手を握り締めたとき、わたしは自分の気持ちに気づいてしまった。けれど夏の始まりだというのに永遠子の指先があまりにも冷たくて、言いようのない不安を感じるのだった。

 検査を終え、二人で病院を出ると、夕日が空を赤く染めていた。

「結構時間かかってしもたねぇ」

 大きく伸びをしてみせる永遠子に、わたしは、ごめんね、と小さな声で謝った。結局三時間近く、つき合わせることになってしまった。

「明日が祝日で病院もお休みだから、混んでたみたい。本当にごめんなさい。再診の予約は入れてあったんだけど」

「ううん。こいさんのせいやないし。なら、そやね、今度うちんときにもつきおうてくれはります?」

「いいけど、どこに?」

 病院のロータリーを渡りながら訊ねると、

「明後日の日曜なんやけど……うちのお姉ちゃんのライブがあるんよ。一緒に行ってくれへん?」

「ライブ?」

「うん。バンドのベース? をやってるらしいんやけど。うちよう知らんし。ライブハウスみたいなそないな場所、一人で行くんはなんや気ぃ引けてもうて」

 純和風な永遠子の口からライブなんて言葉が出るなんて思ってもみなかったので、少し驚いた。

 それに。

 永遠子に姉がいるだなんて。

 今まで一度も聞いたことがなかった。

 改めて自分は永遠子のことを何も知らないのだと思うと、なんだか胸の奥に黒い塊ができたようで、切なくなった。

 けれど。

「うちら、外でデートするん初めてやね」

 そう言って、はにかんだように笑う永遠子の頬が赤く染まっていたのは、夕日のせい……だけじゃない、と思う。

 永遠子の笑顔を見たら、わたしの中の黒い塊の輪郭が、わずかに滲んだ気がした。

「……わたしでいいの?」

「こいさんと行きたいんよ」

 永遠子は目を細めて、いつまでもわたしを見ていた。

 その日の夜、わたしはベッドで横になりながら、ぼんやりとスマホを眺めていた。正確には、そこに登録してある永遠子のアドレスを。

 我ながら気持ち悪い奴だな、とは思うのだけれど、どうしても口元がにやけてしまう。

 一歩近づけた。

 それがただ、単純に嬉しかった。

 そんなふうにニヤニヤしていると、不意に手にしたスマホが震えだしたので、わたしは慌ててそれを取り落としそうになった。

 着信を見るとまさに永遠子からだった。

「……もしもし」

 そう言ったわたしの声は、少し裏返っていた。

「あれ、声変やけど、風邪でもひきやしたん?」

「う、ううん。そんなことない」

「今お電話しても大丈夫ですやろか」

「うん。大丈夫だけど、どうしたの」

 今日はずっと一緒だった。

 あれほど長い時間一緒にいたことなんてなかった。たくさんお喋りもした。だから、もう、今日はしゃべることなんてないと思ったのに。

「……あんな、えーと」

「ん?」

「こいさんとアドレス交換したんやな、って思うたら、なんだか嬉しなってしもて。思わず電話してしもたんやけど、迷惑やったやろか」

「迷惑なんかじゃないよ」

「……ほんまです?」

「ほんま。嬉しいよ」

 薄い電子板の向こう側で、くすくすと笑う永遠子の声が聞こえる。

 わたしはぎゅっと目をつぶって、その声に耳をすませていた。


 ステージ上でベースを弾くその女性は、永遠子に似て、とても美しい人だった。細い面差しも、糸のような吊り目も、永遠子にそっくりだ。そんな彼女が黒い着物を着崩して、血を吐くような声で激しくシャウトしている。

 髪飾りなのか、髪に大きな鈴を結わえていて、彼女が頭を振るたびに、しゃらん、という音がした。

 それがまた不思議と楽曲に混ざり合い、調和していた。

 大きなスピーカーから、爆音が響き渡っている。

 客は押し合いながら、大きく頭を振っている。

 もはや歌詞なんてちっともわからない。大きなうねりの中にいるように、ただ翻弄されるばかりだった。

 わたしはなんだか少し怖くて、ぎゅっと永遠子の背中に摑まり、ステージを見ていた。ギターの痩せた男を、ドラムの赤いシャツの男を、そして一人和装をしている、彼女のことを。

 ただ、見上げるばかりだった。

 空調は利いているはずなのに、人の熱気がすご過ぎるせいで、わたしも永遠子も全身汗水漬くだった。こんな経験、生まれて初めてで、わたしはどうしたらいいのかわからず、きっと惚けたような顔をしていただろう。

 ライブが終わったあともずっと耳鳴りが続いていた。

 永遠子が帰ろうとするので、挨拶しなくていいの、と訊ねると、

「まあ、義理は済んだし、ええんちゃいます?」

 などと言う。

「だって、実の姉なんでしょう?」

「半分だけや。うちら母親が違うんよ」

 素知らぬ顔で永遠子はそう言った。

 わたしは驚いて言葉にならず、ただ、永遠子の顔を見ていた。永遠子はわたしから、そっと視線を外していた。

 どうして永遠子は、そういう言いにくいことを平気で言うのだろう。

 わたしが戸惑っていると、きゃーっという黄色い声が上がった。

「……あんた、挨拶もしないで帰るつもりじゃないでしょうね」

 そしてそう声をかけられて、慌てて振り返る。そこに立っていたのは先ほどまでステージに立っていた、あの女性だった。もう着物は脱いでいたが、髪の毛が汗で張り付いている。遠巻きにファンの子が彼女に熱い視線を送っている。

 彼女は、ちらりとわたしを見た。

「あれ、こっちの子は誰? あんた友達いたんだ?」

 その言葉にカチンときて、思わず強い口調で言った。

「わたしは永遠子の友達の、花菱小糸と言います。今日は永遠子に誘ってもらって来ました」

「……こいさん」

 隣に立つ永遠子の手をぎゅっと握り締めると、永遠子はなぜか、少しだけ泣きそうな顔をした。

 わたしたちの姿を見て、彼女はどんな解釈をしたのだろうか。ぽりぽりと頭を掻いて見せた。括り付けたままの鈴が、しゃらん、と鳴った。

「ああ、気を悪くさせたならごめん。あたし口が悪くってさ。ええと、自己紹介させてもらっていいかな、あたしはぬえ。春桜亭ぬえって芸名で落語家をやってるの」

「ぬえ……落語家さん?」

「そう。今日のフライヤーにもその名前で出てるんだけど、……見てないか。この前ラジオにも出てさ、『安兵衛狐』って噺をかけたんだけど。それも……知らないよね」

 永遠子そっくりの顔、そっくりの声で、彼女……ぬえさんが笑う。

 ラジオに出るくらいなのだから、わたしは知らないが、そこそこ有名な噺家さんなのだろう。でも、なぜ落語家がベースを弾いてライブに出ているんだろうか。わたしにはそれが不思議でならなかった。

 隣を見ると、夜の街灯のせいだろうか、永遠子の顔が青白く見えた。

「もう、ええやろ。うちら帰るわ。明日も学校やし」

「そっか。まだ夏休みになんないのか。じゃあいいや、気をつけて帰れよ。ああ、そういえば」

 ぬえさんは本当に何気ない風に、

「……高校で落研立ち上げたんだって? 親父が喜んでたよ」

「別に、父さんには関係あらへんし。ほな、こいさん、行こ」

 永遠子がわたしの手を引きながら、夜の中へと歩いていく。背中で手を振るぬえさんを、振り返ることもなく。

「永遠子」

 そう問いかけたわたしの声は、少しかすれていた。

「……今は何も訊かんといて。お願いやから」

「うん」

 永遠子のそんな弱々しい声を聞いたのは、初めてだった。


 ——武州のとある寺に伝わる鈴には、さる謂れがあるそうでございまして。大きさは五寸ほどというのですから、これは大きな鈴でございます。鈴緒を付ければ本坪鈴としても使えそうなもの。しかしこの鈴、祟るのだそうです。元々この鈴があったのはとある娼家でございまして、つまりはお妾さんでございました。鈴は女が家にいるときには軒の下にこう、ぶら下げてあって、都合が悪いとき、いないときには家の中に引っ込めてある。なぜこんなことをしているかというと、今日はお泊りに来てもよろしいという合図なのだそうで。普通娼家というものはただ待つ家でございますから、このようなことはなさいません。お妾さんというのは旦那が来るのをいつかいつかと待っているわけでございます。この女性、よほど剛毅な性格だったのでございましょう。ただ、かこわれへふいに來るのはじやすい也、なんてことも申します通り、旦那が前触れもなく妾宅にやってくるのは浮気を邪推しているから、なんてこともございます。しかし女の身には何かとこう、支度がございますので、これが案外うまくいっていたそうです。

 この妾、名前を玉と申します。江戸の当時は武家社会でございましたから、世継ぎには男の嫡子が必要でございます。しかし種が悪いのか何なのか、このお武家様の子供は皆女ばかり。致し方ないというので、家の外に妾を作ります。これは武家に限っては許されていたようでございまして、僧侶、大店の旦那のお妾さんとはわけが違います。妾と言いましても今のような日陰者ではございません。武家のお世継ぎを生んだとなれば、それはもう、上に下にの大騒ぎ。妾の家族にもそれ相応の報奨があったということでございますから、家の者も総出で応援しようというもの。この玉という女も、さる石高の高いお武家の妾でございまして、正妻よりも先に、どうしても男のややこが欲しい。信心なんぞはこれっぽっちもなかったが、あちらこちらの社寺仏閣にお参りに行っておりました。すると、とあるお寺の山門付近に、辻占が出ている。いつもなら素通りするところではございますが、ふと思い立って、足を止めてみた次第です。易者は玉の顔を見て、酷く嫌な顔をしたそうでございます。お前さんの言いたいことは、もうすでにわかっている。男のややこが欲しいということだろう。はい、そうです、その通りでございます。顔を見ただけでずばり悩みを的中させて見せた易者に、玉は大層驚いた。易者はくつくつと笑いながら、この寺の奥の院に一人の老僧が住んでいる。老僧は三年後に亡くなるのだが、その老僧の生まれ変わりとして、おまえに男のややこができる。それを聞いた玉は喜ぶと同時に、えも言われぬ不安にさいなまれたそうで。なぜなら三年も経てば、正妻に嫡子が生まれるかもしれない。それどころか、自分が三年後には捨てられているかもしれない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなってしまい、ある夜、玉は月のないのをいいことに、山に入っていきます。そして、その老僧を殺してしまいました。老僧は今際の際にあな口惜しいぞ、確かに儂はおまえの子供として生まれ変わるだろうが、きっとおまえもろとも父親までもを殺してやろう。そう言って、こと切れた。こうして生まれたのが阿南でございます。母親となった玉は邸に召し抱えられますが、赤子の顔があのときの老僧に見えてしまって、とても愛することができない。観音様に詣でたときなどは、にやりと笑うその顔のなんと恐ろしく見えたこと。思わず赤子を取り落としてしまったということでございます。そのときに阿南は小指を骨折いたしまして、玉はああなんて可哀想なことをしてしまった。これからはあの僧を懇ろに弔い、この子にも愛情をかけよう。そう誓ったそうでございますが、しかし阿南の指は曲がったままでして、指折れ阿南と言われるようになりました。それでも玉は愛情深く接したということでございます。長じて立派な青年になりました阿南は、道場稽古の帰り道に、とある寺の山門近くに辻占が出ているのに出くわした。そのようなものには全く興味のない阿南でございましたが、そのときばかりはなぜか立ち去り難く、足を止めてみたのでございます。これ易者、そちはよく当たるのか。当たるも八卦当たらぬも八卦と申しますが、さてどうでしょう。そう言うと易者はじゃらりと筮竹をかき回せてみせます。では、一つ占ってもらえるか。えー、あなた様はさる徳の高い老僧の生まれ変わりでございます。しかし本来ならば寿命を全うしてからお生まれになるところを、あなた様のご母堂が世継ぎを得んがために老僧を殺し、お生まれになったのがあなた様で。なに、それは誠なのか。さあ。占いにそう出ておりますので。まさか、そんな。事実を知った阿南はそれまでよき母だと思っていた玉を恨むようになったという次第でございます。失望し、幻滅した挙句、玉に殺意を抱くようにすらなっておりました。ところがそうした殺意のせいでございましょうか阿南は流注という病にかかってしまいます。これは悪腫でございまして、全身から汚らしい膿がじくじくと湧いてできます。悪臭を放つ阿南には誰も近寄らないが、ただ唯一看病するのが母親の玉でございます。ここで仏教説話でございましたら、阿南は玉の信心で回復、親子の情を確かめ合い、めでたしめでたしとなるところでございますが、怪談噺でございますから、そううまくはいかない。結局のところ、阿南は苦しみ抜いて死んでしまいます。その死に顔がまた、あのときの老僧と瓜二つでございまして。ああまだ恨んでいたのか、許してもらえぬのか。玉は気が狂った挙句に、井戸に飛び込んでしまった。そのときに重石にしていたのが、あの、鈴だそうで。玉は引き上げられ、懇ろに弔われましたが、あの鈴が夜な夜なしゃらん、しゃらん、と音を立てる。いつしかこの鈴は、妾の鈴と呼ばれるようになりました。


 この鈴がどのように人に祟るのかは、お時間になりましたので、またの機会にお話ししたく存じます。


 百合と妖怪の噺、第三夜・鈴彦姫。これにて幕でございます。

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