第二夜・野狐

 こいさんは阿呆やなぁ。

 永遠子がくすくす笑いながら、そう言う。わたしはムッとしたまま黙っていた。

 なんでもこの学校の落研は——わたしが思っていたよりもずっと——伝統のある部活なのだそうで、部員がゼロになってもこれまでお取り潰しにされることはなかったのだという。以来幽霊部員ならぬ幽霊部活として、学校の中にひっそりと存在していたらしい。

 そんな中、新入生ながら永遠子が落研を復活させたいという意欲を見せたことで、例外中の例外という形ではあったが、顧問の先生未定、部員たった一人、という世にも奇妙な部活が誕生することになったのである。でも、……女子校に落研があるのがそもそもどうなのか、という問題はあると思う。

 そんなわけで、改めて永遠子から説明を聞いてみると、取り立てて別に怪しいところなどない……のだった。けれどわたしはあのとき、あれこれと勝手に変な想像を働かせて、一人で怖がっていた。永遠子が『鵺』という噺をかけているあいだ、ずっと震えていたというのだから……今思い出してもめちゃくちゃ恥ずかしい。

 六月になり梅雨が到来すると、お昼休みに藤棚の下で過ごす日も少なくなった。今日も今日とて雨である。

 惣菜パンを食べながら、軽く周囲を見回してみる。

 落研の部室でもあるここ礼法室は、しんと静まりかえり、畳の匂いに混ざって、かすかに雨の匂いが漂う。こんな場所を占領できるのなら、最初からここでお昼を食べるようにすればよかったのに。

 窓の外を見ると均一に曇った灰色の空から、しとしとと雨が降り続いている。昨日も一昨日も雨で、母親は洗濯物が乾かない、と愚痴をこぼしていたのをふと思い出す。

 わたしとしては、雨自体は特に好きでも嫌いでもないのだけれど、湿気で体がべたべたするのと、髪が広がってしまうのは嫌だった。

 ちらりと永遠子の様子を窺う。

 楚々としてお弁当を食べている仕草はあいも変わらず可愛らしい。

 それに、あの黒髪の艶やかなことと言ったら。長い髪はまるで擦りたての墨に濡れた絹糸のようで、正直、とてもうらやましかった。

「なに見てはるん?」

「永遠子の髪。綺麗だなぁ、と思って」

 わたしが素直にそう言うと、永遠子は少し照れて、口元を隠しながら鈴のように笑った。

「嫌やわぁ。こいさんかてきちんと手入れしてあげれば、あんじょうようなりますえ。トリートメント、なに使ぉてはんの?」

 わたしは市販の整髪剤の名前を上げた。ただ、どちらかというと……生まれつきの髪質の問題だと思うんだけど。というか綺麗って言われたのは否定しないんだ。

「そういう永遠子は?」

「うちはこまい頃から椿油やねぇ」

「椿油? なんからしすぎて、逆に笑える」

「日本人の髪には一番ええんよ。ほら、匂いも……嗅いでみてな」

 そっと頭に鼻を寄せると、不思議な、甘い匂いがした。でもそれは椿油の匂いじゃなくて、きっと、永遠子の匂いだ。

 そう思ったら、なぜか顔が熱くなってしまった。

「ええ匂いやろ」

 それは、甘い蜜のような囁き。

 上目遣いで見つめる永遠子の顔が、とても近くて。

 わたしはハッとして、慌てて視線を逸らした。


 体育の授業は苦手だ。

 特に球技となると、なおさらである。

 左目が見えないから距離感がつかめなくて、いつもボールを取り損ねてしまう。もっとも、わたしが運動音痴なせいもあるんだろうけど。

 その日は最悪で、バスケットの試合中ボールをファンブルして、顔に当ててしまった。

 それも、左目に。

 目の奥が痛くて、涙が止まらなくなった。しまったと思った。義眼は頑丈に出来ているのだけれど、その奥の萎んでしまった眼球は、とても脆いのだ。わたしは先生に一声かけ、顔を押さえながら、体育館をあとにした。ちょっと大丈夫? でもあれくらいで大袈裟なんじゃない? あの子いつもとろいよね。そんなクラスメイトの声を、背中に受けつつ。

 何も言い返せなかった。悔しい気持ちと、情けない気持ちが、胸の中で複雑に絡み合っていた。

 痛みにどうしても保健室まで我慢できなくて、そして目の状態を一刻も早く知りたくて、わたしはそぼ降る雨の中、体育館の裏へ回り、いつかのあのひと気のないトイレに駆け込んだ。

 洗面台の電灯が切れかかっている。

 チカチカと瞬く煩わしい光の下で、わたしは義眼を外して、目の状態を確認してみた。

 ……特に何も変わらないように見える。

 落ち窪んだ眼窩から、涙が溢れてくる。

 よかった、と思う反面、どうしようもない怒りのような感情が込み上げてくる。

 どうして自分だけこんな目に合わなければならないんだろう。そう思うと、このやり場のない気持ちをどこに持っていったらいいのか、わからなくなる。

 ふと思うのは、ここで首を吊ったという、生徒のことだった。

 彼女は——女子校なのだから死んだ生徒はもちろん女の子だろう——何を思い、何に絶望して、自らの命を捨てたのだろうか。彼女にとっての死にたいくらい辛いことって、一体何だったのだろう。

 小学生の頃、いじめにあっていたときは、いつも死にたいと思っていた。

 でも、死ねなかった。

 けれどそれは、死ねない理由があったからではなく、わたしには最後まで行く勇気がなかった。ただ、それだけだったのだと思う。

 だからもしも、その勇気があったなら。わたしは、


「こいさんは阿呆やなぁ」


 不意に、永遠子の声が聞こえた気がした。先日礼法室で聞いた、あの声にそっくりだった。

 周囲を見渡してもトイレの中には誰もいないから。永遠子はいないのだから。

 もちろん、そんな言葉が聞こえてくるはずはないのだけれど。たぶん、空耳なのだけれど。

 わたしはそっと目を閉じて、どうせ阿呆ですよ、と。小さな声で呟いた。

 少しだけ軽い足取りでトイレから出ると、目の前に真っ赤な紫陽花が咲いていた。来るときには余裕がなくて気づかなかったのだろうが、それにしても見事な色だ。まるで血のような。

 ……血のような?

 あれ? 確か去年は、この紫陽花は……青い花をつけていたはずなのに。花の色がこうも違うのは、何か原因があるのだろうか。

 そんなことを思いながら足を止めると、

「……花菱さん?」

「榎田先生?」

 紫陽花の株のすぐそばに座っていた人物が、立ち上がりながら、わたしの名前を呼んだ。わたしもその人物が誰なのか、すぐにわかった。去年の担任である榎田瞳先生だった。

「どうしたの、こんなところで」

「先生こそ、どうされたんですか」

 さっきまではいなかったはずだ。さすがに誰かいたら、わたしだって気づいただろう。そこまで鈍感じゃないと思いたい。

「なんかね、イタチみたいな動物が入り込んで植木や花壇を荒らしているらしいって報告があって。それでちょっと見回りに来てみたんだけど……花菱さんは何か見た?」

 そう言った先生の目の端は、ほんのりと赤かった。わたしに見られているのに気づいたのか、先生は慌てて目尻をこすった。

「いいえ、見たことないです」

 わたしは視線を逸らしながら、小さく首を横に振った。

 小雨とはいえ傘もささずにしゃがみ込み、泣きながら紫陽花を見つめているなんて。どうかしている。

 でも、わたしは何も言わなかった。

 何も見なかったことにするのが正しいのだと、心のどこかでわかっていたのかもしれない。

「ねえ、去年も言ったと思うけれど……そこのトイレ、あんまり使わないほうがいいわよ」

 声に反応して顔を向けると、先生はぎこちない、寂しげな笑みを浮かべている。

「幽霊が出るって、もっぱらの噂だから」


 まだ授業中でしょう、早く戻りなさいね。そう言い置いて、榎田先生は去っていった。背を向けた先生のブラウスが、しっとりと濡れていた。雨が紫陽花をひときわ赤く染め上げている。

 わたしはぼんやりと、去っていく先生を見送っていた。

 その日はずっと左目の具合が悪くて、気づくと知らないあいだに涙が流れていた。

 永遠子がお昼ご飯にわたしを誘いに来たときも、タオルを顔に押し付けるようにしながら、わたしは泣いていた。

「こいさん?」

「……永遠子」

 わたしの姿に驚いて、駆け寄ってきた永遠子を見上げる。

 少し青ざめているように見えるのは、気のせいだろうか。

「どうして泣いてはるんですか」

 教室の中、周りは全員上級生なのに。永遠子の声には断罪するような響きが含まれていて、わたしの方が肝を冷やしてしまう。

「違うの」

「違わへん」

「違うって言ってるでしょ。人の話をちゃんと聞いて。……いいから、出ましょう」

 立ち上がりながら、永遠子の腕を掴む。

 クラスメイトは、誰もわたしを引きとめたりしない。それはきっとわたしの人間力のなさにあるのだろう、と思った。わたしがこのクラスでどういう存在なのかを、如実に物語っている。

 先に歩きつつ、ちらりと後ろを振り返ると、永遠子は口を真一文字に結んで、眉根にしわを寄せていた。明らかに、見るからに不機嫌そうだった。でも。

 この子は、笑い顔よりも、怒っている方が美しい。

 そう思ったら、思わず笑みがこぼれてしまった。

「なに笑うてはるんですか」

「ううん。別に」

「こいさんの阿呆」

 ……知ってる。ちゃんと知っているよ。

 永遠子の腕はとても細くて、なめらかだった。永遠子がわたしのために怒っている。それが理不尽なことなのだと、自分でもわかっているのだろうに。

 可愛いな、と思った。

 そう思うと、少し意地悪な気持ちになって、わたしからはことの顛末を説明しなかった。そして無言のまま、彼女を連れて歩いた。

 礼法室の扉を閉めると、永遠子はわたしの右腕を、両手で握りしめた。購買部に寄ったときもずっと黙したままだったから、詰問したくて、我慢できなくなったのだろう。

「こいさん、もしかしていじめられてはるん?」

 背の高い永遠子がわたしを見下ろしながら、見当違いなことを言う。やっぱり、そんなことを思っていたのか。

「違うってば。体育の授業で、ボールが左目に当たっちゃって、目の具合が悪いだけ。ただそれだけだから」

「ほんま?」

「ほんまです。だから、永遠子が怒るようことは……きゃっ」

 不意に永遠子に抱きつかれて、わたしは菓子パンと紙パックのジュースが入った袋を落としてしまった。

「な、なに」

「ずっと、なにも言うてくれへんし……心配したんやから」

 わたしを抱きしめる永遠子の腕が、震えている。

「ごめん」

 おずおずと彼女の背に両手を回すと、わたしを抱く力が、ひときわ強くなった。永遠子が泣いている。それに気づいたら、途端に胸が苦しくなった。

 永遠子の黒髪が、わたしの頬を撫でる。それはとても甘い匂いがして、また、わたしの左目に、涙があふれた。

「……ごめんなさい」


 ひとしきり二人で泣いて、なんとなく笑いあうと、途端に気まずくなった。

 そしてわたしは会話を継ごうとして、

「そういえば、永遠子は幽霊って信じる?」

 なんて、馬鹿なことを訊ねてしまっていた。

「幽霊? なんでまたそないな話題を出してきやしたん?」

「体育館裏のトイレ、あるじゃない?」

「……うちらが初めて会うたとこ?」

「うん。あそこにね、自殺した生徒の幽霊が出るって話があるんだけど……永遠子は知ってた?」

「ううん。よう知らん」

 そう言って、永遠子は首を振って見せた。

「そっか。わたしが知っているくらいだから、結構有名だと思ったんだけど」

「だってうち、友達おらへんし」

 またそんなことを言う。

「……今はわたしがいるでしょ」

 永遠子の頬がぽっと赤くなって、わたしは恥ずいことを言ってしまったと、ちょっとだけ後悔した。

「ふふっ。こいさんも友達少なそうやしねぇ。だからうちが友達になってあげてんよ?」

「うっさい。そうよ、わたしだって友達いないわよ」

 少しむくれて見せながら、でもぶっちゃけ、友達って何なのだろう、と思っていた。どうしたら、どんな関係なら、友達と呼んでいいんだろう。それこそ今までずっと友達らしい友達がいなかったわたしには、よくわからないのだった。

 二人で笑いながらお昼ご飯を食べている。先輩と後輩ではあるけれど、わたしと永遠子は友達、だと思う。だからこの関係がずっと続いていけばいいな、と思うのだ。

「その噂って、いつぐらいから広まってはんのやろ」

 永遠子がお弁当の包みを開きながら、ぽつりと言う。

「さあ。わたしが聞いたのは……去年の五月くらいだったかな。人目を避けて義眼を洗うのにあのトイレを使っていたら、当時の担任の榎田先生に、そこ、幽霊が出るわよ、って」

「……榎田せんせがそうお言いやしたん?」

「うん。そうだけど」

「それっておかしないですか?」

「どうして?」

 首を傾げている永遠子に、わたしは逆に訊ねてみた。

「だって、普通せんせってそないなこと、よう言いふらしたりせぇへんのと違います? それも、自殺した生徒の幽霊やなんて」

 確かに、そう言われてみれば変な話だ。

 わざわざ先生が幽霊の噂を吹聴してどうするんだろう。本来ならば、それを否定する側の人間であるはずなのに。

「人払いせなあかんことが、なんぞあるんやろか」

「さあ、どうだろ。でもそんなことする必要なくない?」

 お弁当を目の前にして、箸を握りしめたまま、永遠子が考え込んでしまっている。自分から振っておいて何なのだけど、そこまで拘泥するような話だろうか。

「あ、そういえば」

「どうしやしたん?」

「あのトイレの前の紫陽花。去年は青かったのに。今年は真っ赤な花を咲かせているの。不思議よね。それも幽霊の仕業なのかしら」

 わたしが冗談めかしてそう言うと、永遠子はぺろりと唇を舐め、

「あるいはそうかもしれへんよ」

 目を糸のように細めて、笑うのだった。


「桜の下には死体が埋まっている、なんて言わはるけど。美しく咲く花の下には、もれなく死体が埋まってはるんやもしれんね」

 可愛い顔をして、永遠子はきついことを平気で言う。わたしは先ほどの紫陽花の話を思い出しながら、

「死体?」

 と訊ねた。

「なぁな、こいさん。紫陽花がどうして花の色を変えるんか、知ってはる?」

「……知らないけど、それが?」

 永遠子はゆっくりと、食べ終えたお弁当の箱を布で包み直して、壁に掛けられた時計にちらりと目をやった。わたしもつられて視線を向ける。お昼休み終了まで、あと五分ほどだった。

「こいさんは放課後、空いてますやろか」

「急になに? 別に暇だけど」

「じゃあ、うちとデートしよ。迎えに行くし。教室で待っててな」

 デート?

 訝るわたしを尻目に、永遠子はただ静かに笑っているだけだった。それ以上はなにを訊ねてものらりくらりとかわされてしまって、結局お昼休み中には何を考えているのか聞き出せなかった。

 五限目、六限目の授業も身に入らず、わたしはぼんやりと外を眺めて過ごした。雨が静かに降っていた。

 ホームルームを終えて、クラスメイトが三々五々ばらばらになっていく中、永遠子がやってきて、教室の入り口からわたしに手招きする。

 珍しい。花菱さんの嫁が放課後まで来たよ。やだ、本当にそんな仲なんじゃないの。背中から嘲るような声が聞こえたけれど、わたしは無視した。永遠子にもそんな声は聞かせたくなくて、わたしは彼女の手を取ると、逃げるようにその場を離れた。

 ほんとね、困っちゃうわ。そんなふうに言って、彼女たちに合わせることだってできたはずだ。今まで、ずっとそうやって当たり障りなく、教室で目立たないように生きてきたのだから。

 でも、そんなのはもう、嫌だ。永遠子を笑い者にするような迎合や合いの手なんて、絶対に嫌だ。

「こいさん、手ぇ痛い」

「あ、ごめん」

 階段を下りるさなか、永遠子に言われて、わたしは慌てて手を離した。振り返ると永遠子は苦笑を浮かべながら、手をこすり合わせていた。

「ごめんね。痛かった?」

「ううん。平気や。……こいさんの方が痛かったみたいやし」

「わたしは痛くない」

「そうな?」

「そうよ」

 永遠子はそれ以上なにも言わない。

 なにも言わないでいてくれることが、わたしには嬉しかった。

「それで、どこに行くの?」

 そう訊ねると、永遠子は再びわたしの手を握り、

「体育館裏の、トイレまで」

 と言った。

「……デートにしてはずいぶん色気のない場所ね」

 わたしは揶揄するように言った。

 お昼休みのあいだの永遠子の態度から、本当にデートをするわけではないのだろうとは思っていたのだが、こうもあからさまだと、ちょっと悔しい。

「色はあるやないの。紫陽花は七色の花やって、言うえ?」

 二人で一本の傘に入り、裏庭を歩いていく。体育館の角を曲がるとそこは、一年中陽の光が射さぬ、影の世界だ。雨の放課後に見るトイレはいかにも陰鬱な雰囲気に包まれていた。

 コンクリート製のトイレの外壁は所々黒い染みが浮き出していて、見ようによっては、人の顔に見えなくもない。それがシミュラクラ現象だとわかっていても、気づいてしまった恐怖に目隠しすることはできないのだ。

 ごくりと唾を飲み込みながらトイレに近づいていくと、

「どこ行くん? 用事があるんはこっちやし」

 永遠子は傘を差しかけながら、わたしを紫陽花の下に誘導した。真っ赤な、血のように赤い、紫陽花の下に。

「この紫陽花がどうかしたの?」

「お昼休みに言うたこと、覚えたはる?」

「……紫陽花の花の色が変化する理由?」

「そう。なんで色が変わるんやと思う?」

「知らないって言ったと思うけど。興味ないし」

 わたしがぶっきらぼうに言うと、永遠子は目を糸のように細めてくすくすと笑う。

 まあ、そこがこいさんのええとこなんやけど。小声で、そんなふうに言いながら。

「まあええわ。あんな、紫陽花の種類にもよるんやけど、花の色が変わるんは、土ん中のアルミニウムが吸収されることでアントシアニン系の色素が働くからやよ。土が酸性やとアルミニウムは溶けやすいから、花の色が青ぅなる。けど、アルカリ性やとアルミニウムはあんまし溶けへんから、花の色が赤ぅなるんよ」

「それが?」

 トリビアとしては面白いし、感心してしまう。でも、だからいったいなんだというのだろう。花の色が変わったのが仮に土のpHのせいだとして、その原因はなんなのだろうか。

「さっきも言うたけど、綺麗な花の下には、死体が埋まってはるんや」

 一瞬、永遠子の瞳が黒く染まった気がして、わたしは息を飲んだ。

「冗談でもそういうこと、言わないで」

「冗談なんかやないわ。死体って、埋めて腐り始めると酸性になるんよ。まあ、元々の土の状態がどうやったのかわからへんけど。あるいは最初っから酸性の土だったんかもしれへんしね。ただ言えるんは、去年はまだ、埋められていただけやったんやろなってことだけやわ」

 埋められていただけ。埋められていただけ?

 なら、……今は?

 わたしの怯えの表情に気づいたのか、永遠子はそっと、わたしの頬を撫でた。

「こんな場所やし、誰も来んと思たんやろな。せやけど、誰も来んような場所やからこそ、こいさんは来てしもうたんやわ。こいさんがここを使ぉてるのを見て、肝を冷やしたんやないやろか。体育館裏のトイレに自殺した生徒の幽霊が出るなんて嘘の噂まで流して。それとも噂はもっと前から流してはったんやろか。こいさん、友達おらんから。直接言わなあかんかったんやろけど」

「……嘘? 幽霊の噂は、嘘なの?」

「そやよ。今はケータイでいろんなことが調べられるし。うちもちょちょっと検索してみたんやけどな。少なくてもここ十年で自殺した生徒なんて、この学校の中には一人もおらんかったよ。まあ、気色悪い場所やし、みんなが信じてしまうんもわからんくはないけど」

 自殺した生徒はいない。なら、紫陽花の下で眠っているのは。

 永遠子の指先が、冷たい。わたしの左の頬を、少しずつ、這い上がってくる。

「けれど、そんな噂を知っても、こいさんは人知れずここに来続けた。こいさんにとっては幽霊なんぞよりも左目のことの方が、よっぽど大事やったから。こいさんが来るんを止められんって知ったとき、いつかは見つかるかもしれん、露見するかもしれん、そう思ったとしても、不思議はないんやないかな」

「見つかる? 何を?」

 そう問い返したわたしの声は、情けないほど震えていた。

「……死体は腐っていくと酸性になる。なら、アルカリ性になるんはどんなときやろ」

 わたしは永遠子の質問に、ただ、首を横に振った。

「掘り起こして、焼いて、灰にしたんよ。そしてもう一度ここに埋め戻したんや。骨灰は、水に溶けると強いアルカリ性になるんやもの」

「やめて。お願い。もう、やめて」

「……ここに埋もれてはるんは、誰かの死体を焼いた灰や」

 そう告げた永遠子の顔を、わたしは涙を流しながら、キッと睨みつけていた。どれだけそうしていただろう。

「なんて。嘘やよ」

 永遠子がくすくす笑いながら、そう言った。

「全部、うちの作り話や。第一、人ひとりいなくなったらケーサツかて黙ってませんやろ。……人を殺すんはそんなに簡単やないし」

 わたしは呆気にとられて、呆然とした面持ちのまま、永遠子を見つめていた。

「あんたに友達がいない理由、今わかった気がした」

 正直、ぶん殴ってやりたいと思ったけれど、永遠子の顔を見ていたら、その気は失せてしまった。自分でも情けなくなるほど、胸が締め付けられる思いがしたから。

「……本気で脅すんなら、こんくらいせんとあかんのやわ」

 だって、どうして……。

 そんな悲しそうな顔をしているの?

 本当に、嘘だったの?

 わたしは自分の気持ちを言葉にできないまま、永遠子の顔を見つめ続けていた。


 風呂上がりにぼんやりとベッドに寝転がりながら、つけっぱなしにしていたラジオの音を、小さなボリュームで聞くとはなしに聞いていた。

 窓の外を見ると、細かな音のない雨が、ずっと降り続いている。

 いつから降り始めて、いつまで降り続くのだろう、この雨は。まるで水の牢獄に閉じ込められてしまったみたいに思えてくる。

 永遠子の話を聞いても、わからないことの方が多かった。

 どうして榎田先生はあの場所で泣いていたのか。

 永遠子の語ったことは、本当に全部作り話だったのか。

 そもそも、どうして初めて出会ったとき、

 ……永遠子はあんな場所へ来たのだろう。

 わざわざ体育館の裏にある、ひと気のない陰気なトイレに。

 何か、……彼女なりの目的が、あったのだろうか。

 あれこれ考えながら目をつぶっていると、眠気が波のようにやってきた。だから、多分わたしが聞いたのは、夢だと思うのだ。

 ラジオから永遠子の声が流れてくる。

 スピーカー越しのやわらかな永遠子の声を聞いているうちに、わたしは眠りの世界へと落ちていった。


 ——桜の下には死体が埋まっている、なんてぇのはよく聞く話でございますが、綺麗なものの裏にはそれ相応の何かがあるんだそうで。なんとも不思議なことでございます。まあ、半分以上はやっかみなんでございましょうが。

 昔はどこにでも長屋なんてものがございまして、そうかと言いましても、何もそこに住んでいる者が皆、仲が良いわけではございません。気が合わなくなってくるというと、自然と口をきかなくなるようなことになる。ここにも六軒ほど長屋がございますが、こっちの四軒は仲がよく、反対の二軒は隣同士で仲がいい。けれど四軒と二軒はまるでそりが合わない、ということがございます。この二軒の方はというと、片方が源兵衛と申しまして、これが大層な偏屈者でございます。人が暑いってぇと暑くないと言う。黒だと皆が言えばいいや白だと言い張るというので、どうしても付き合いがよろしくありません。その隣にいる安兵衛てぇ人は、のそのそのそのそしていて愚図安なんて呼ばれている次第で。けれどこの偏屈と愚図が大層仲がいいっていうんですから、不思議なもんです。

 何しろなんだなぁ、今日はみんな仕事が休みだろう。たまには人間、どっかウサを晴らしに行かなきゃいけねえよ。みんなで出かけようじゃねえか。四軒続きの長屋の一人が、そんなことを言い出した。四軒は四軒で仲がいいときているから、皆もそれに賛同いたします。そうだねぇ、そりゃあいいね。今日はどうだい、ちょっと亀戸あたりに行ってね、萩でも見てこようじゃねぇか。あー、丁度見ごろらしいね。じゃあ、行こうか。行こうはいいけどさ、この四軒だけで行って、向こうの愚図安と源兵衛にも声をかけねぇと、あとでうるさいんじゃねえか。そうだな、ちょっと誘ってみようや。いやいやおよしよ、こっちが言ったって行くような奴じゃないんだから。そうだとも、こないだだって朝おはようって声をかけたらね、早かねぇってこう言いやがんのさ。はぁ。愚図安にしたって、いい天気だねっていやぁ、日が当たってるからいい天気だってこう言いやがる始末だよ。そういう奴らを誘ったってダメだよ。だけどさ、今覗いてみたらね、安兵衛はいないけど源兵衛はいるんだよ。なあ、源兵衛だけにでもちょいと声をかけて行こうよ。ね、嫌なら行かなくたっていいんだから。……源兵衛さん、源兵衛さん、こんちはぁ。おう、皆さん今日は雁首そろえてどうしたの。あのね、これから亀戸へでも萩を見に行こうって算段でね。今日はみんな仕事が休みだから。どうだい一緒に萩を見に行くかい。萩? 萩なんざ見たってつまんねぇじゃねえか、猪なんか始終萩を見てらぁ。花札の話をしているんじゃないよ。だけどもさ、萩なんてものはいいよ。俺ぁやだね、萩なんぞ見に行くの。そうは言ってもさ、瓢箪に入ってるのは、そりゃ、酒だ。おまえさんだって何かを見に行く途中じゃなかったのかい。うん、そりゃあね。で、何を。あたしゃあ……墓を見に行くんだ。へ、墓? 墓なんか見てどうすんだい。どうするも何も、墓を見ながら酒を飲むのに決まっているじゃねえか。いいよ、墓ってのは。静かで、古い石塔なんかを見ていると趣がある。どうだい一つ、ここはみんなで墓見なんてのは。ちょ、冗談じゃねえや。そんなの一人で行っつくんな。などと悪態をつきながら、よったりは源兵衛を置いてさっさと花見に出かけてしまいます。当の源兵衛はと申しますと、あー、俺も一緒に萩を見に行けばよかったな。だけどもどういうわけだろうな、人が行きましょうなんて誘ってくると、どうも行きたくねぇなんてことを言っちまうんだよな。墓を見に行くったけど、墓なんぞ見たって本当はつまんねぇや。けれどもこちとら偏屈者の源兵衛だぁな。行かねえなんてのは悔しいから、ここは一つ墓見といこうじゃねえか。というわけでございまして、酒の入った瓢箪を片手に、天王寺の方へまいります。ただなんだな、どうせ墓を見て酒を飲むんだったら、こりゃ女の墓がいいな。野郎はいけねぇよ。お、ここに塔婆が立ってんな。安孟養空信女……ああ、これは女の墓だ。じゃあ、ここは一つ、ちょいとお借りしますかね。一杯飲みますからね、えー、悪く思わないでくださいよ。墓の前でちびちび飲んでおりますと、ばたーんと大きな音を立てて塔婆が倒れた。墓の後ろに回ってみるってぇとぽっかり穴が空いている。あー、こりゃ先だっての嵐でここが掘れちまったんだな。塔婆が曲がってるよ。よく立てといてやろう。と言いながら塔婆でぐっと突くってえとこつんと音がするから、ひょいと見ますと、骨があります。おや、これはなんだい。骨かい。銭を惜しんで浅く埋めるからこんなのが出てきたんだな。気の毒だねぇどうも。まあ、ここで一杯飲んだのもなんかの縁だ。残っている酒をね、こう、かけてあげますから。生きてるときに酒好きだったかどうかは知りませんがね。なんてことを言いながら、残っていた酒をとくとくとその骨にかけて、南無阿弥陀仏と回向をいたしまして、長屋に帰ります。その晩休んでおりますと、ちょうど丑三つ時のことでございます。ごめんくださいまし、あのぉ、ごめんくださいまし。はい、なんです、こんな時間に。ちょっと開けていただきたいんでございますが。なんだろうね、俺のところに女が訪ねてくる訳ぁねえんだが。へい、いま開けますよ。……おやおや驚いたね。いい女だよ。えー、なんでござんしょう。あの、わたしは天王寺からまいりました。天王寺? そんなとこに知り合いなんざいたっけかな。で、どういった御用で。昼間、わたしの骨にお酒をかけてくださいましたね。そして、わたしのために回向してくださった。それが嬉しくて、こうして出てきたんでございます。へっ? ちょ、ちょっと勘弁しとくれよ。なんだい、化けて出てきたっていうのかい。いいよいいよ、礼なんぞにきてくれなくったって。いやだなぁどうも。わたし、あなたのお側で色々と御用を足しますからどうかここにおいてくださいませんか。女房の代わりになりとうございます。女房の代わりったってあんた幽霊じゃねえか。……女房、ねぇ。おまえさん、わたしになんにもしないかい。ご恩を返しに来ただけですから。そうかぁ、じゃあ、お上がんなさいよ。と呑気な奴もあるもので、幽霊を女房にしてしまいました。ところがこの女のよく働くこと。でも朝が明けるとすうっといなくなる。で、また夜になると現れて、何から何までやってくれる。源兵衛の方もすっかりその気になって、自分の女房のようなつもりになっております。おう、源兵衛さん。どうした安さん。どうしたじゃないよ、え、隣り合わせだってぇのにこれこれこういう訳で女房をもらったと、一言言ってくれたっていいじゃないか。鰹節ぐらい祝うよ、本当に。いや、女房ってほどのものでもねえんだよ。ゆうべ前を通ったら女の酌でご機嫌に一杯やってたじゃねえか。実はあれはね、幽霊なんだよ。幽霊? という訳で、源兵衛は安兵衛に萩の花見の一件を語って聞かせます。それを聞いた安兵衛は、それはいいことを聞いた、なら自分も行って、骨に酒をかけてみようっていうので、瓢箪に酒を入れて、谷中の方へ出かけていきます。ところがそうそうそんな骨などあるわけがない。とぼとぼ帰ってきますと、途中、猟師が狐罠をかけているとこに出くわした次第でございます。おうおうおう、こっちにきちゃあいけねえよ。ほら、こっちきちゃいけねって、……向こうに行ってくれよ。何してるんです。何してるも何も、狐を獲ってるんだから、あっちに行けって。狐を獲るの? 獲れます? 獲れるんだよ、それが商売なんだから。へー、狐を獲ってどうすんの。どうすんのって、皮を剥ぐんだよ。えー、痛がるでしょう? そんなことぁ知らねえや。それより、なんだってこんなとこに来たんだよ。なんてやり取りをしておりますと、キャン、と声がする。見るってえと罠にかかった狐がおります。おお、かかりましたね。うるせえな、あっちいってろよ。随分ちっさい狐ですね。まだ子狐から大人になるとこなんだよ。で、どうするんです。どうするも何も皮を剥いで持って行くんだよ。そりゃ、かわいそうだ。あたしはそういうのを見ちゃいられねえんですよ。ね、どうでしょう、この狐をわたしに売ってくださいよ。じゃあ、いくらで買うんだい。一円でどうです。馬鹿言うなよ、三円はするよ。わたしは貧乏で、手持ちが一円しかないんですよ。貧乏安兵衛って言えばわたしってくらいなものでして、ね、お願いだから一円で……見逃してやってくださいよ。ああもう、うるせえな、なんかそんなことを言われるとこっちも皮を剥ぐのがやんなっちゃったから一円でいいよ。ほら、一円だしな。ってな具合で、狐を罠から外してやる。狐はつつつっと逃げていきながら、後ろを振り返り振り返り、安兵衛の顔を見ている。安兵衛はもう捕まんなよーと言いながら、長屋に帰ってくる。あー、なんだいこりゃ、骨を探しに行って、一円損して帰ってきちゃったよ。まあ、いいか、助けてやったんだからな。あのぉ、もし、そこにおいでは安兵衛さんじゃございませんか? ん、わたしは安兵衛ですが……あんた誰? わたしはお里の娘でございます。お里? ああ、あのお里さんの娘? はい、母があなたに色々とお世話になったと申しておりまして。お里さんはどうしたの、え? 亡くなった。で、おまえさんはどうしているの。今まである家のお世話になっていたのですが、そこにも居づらくなりまして、どっかに奉公しようと思って出てきたんですが、どういうところに上がればいいのかわからなくて。今晩泊まるところもないんです。どうか、あなたのところに泊めてもらえませんでしょうか。泊めてもらえませんでしょうか、ってこんな若い娘さんを泊めさせちゃ、女房と間違えられるから。あなたの女房にしていただけるのなら、こんなに嬉しいことはございません。へえ、そう? ならうちに来る? 女房になってくんねぇ。で、あんたお名前は? おコンと申します。とこちらも呑気でございまして、狐と夫婦になってしまいました。すると、四軒長屋の男衆たちが面白くありません。自分たちはやもめぐらしでございますから、やっかみもあろうというものでございます。源兵衛の女房は夜しかいない。朝になるとどっかにすうっと消えていってしまって、腰から下がぼんやりしている。安兵衛の女房も美人だけれども、目がつり上がっていて耳もピンとしていて、言葉尻にコン、とつく。ありゃ狐じゃねえか。なんてことを言い合います。そこにたまたま安兵衛の女房が通りかかりまして、ああ、どうもコンにちわ。コンにちわ、だってえの。えー、ちょいとお尋ねしたいんですがね。これはみんなが言っていることなんですが、あんたはいい女ですよ、いい女なんですが、こう、目がつり上がって耳がピンとしてて、本当は化生なんじゃないかと。女はそう言われますと、顔を覆って逃げて行ってしまいました。あ、逃げちゃったよ。おい、どうするんだよ、人のかみさんのことをあれこれ言って、どっかやっちまいやがって。俺は知らねぇからな。ありゃやっぱり狐だったのかな。知らないよ、そんなことは。それよりどうするんだよ。安兵衛が俺の嬶をどこにやったって言ってきたらさ。よくないよ。よくないったってしょうがねえやな。安兵衛の奴だって狐を嫁にしてたってんなら、あいつも狐かもしれねえ。どうだろうなぁ。とにかく安兵衛のおじさんてぇのが向こうの横丁にいるからよ。おじさんに聞いてみようじゃねえか。あ、いたいた。おじさーん、こんちはー。いいお天気ですねぇ。はい、あたしは最近夜眠れなくてね。何言ってやがんだい。お天気だよ、お天気。あたしかい? このごろは歯まで悪くなっちゃった。なんだよ、このおじさん、耳が遠いのか。そうそう、うどんじゃねえと食べられないんだよ。誰もそんなこと聞いちゃいないよ。やい、爺ぃっ……だめだ、笑ってるよ。お、じ、さーんっ。ああ、なんだい。安兵衛さんっ、来てませんかねっ。安兵衛? 安兵衛は来ん。あ、おじさんも狐だ。


 このあと安兵衛と狐のおコンがどうなったのかは、伝えられておりません。上方のお笑いでは葛の葉の子別れのサゲがつくようでございますが、まあ、わからぬものは、どうも最後まで判じないほうがよろしいようで。


 百合と妖怪の噺、第二夜・野狐。これにて幕でございます。

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