百合と妖怪の噺。

月庭一花

第一夜・鵺

「……見た?」

 わたしは恐る恐る訊ねた。

 彼女は曖昧に微笑みながら、小さく頷いた。

「見たけど、でも誰にも言わんよ?」

 そしてそう言うと、長い黒髪をさらりと流して、体育館裏のトイレから去っていった。

 わたしは呆然としたまま、扉が閉まるまで、その後ろ姿を見送っていた。

 右手に、つい今しがた取り外した、自分の目を握りしめたまま。


 ……まさか、こんな場所で、他の生徒に会うなんて。

 呆然としながら、わたしは鏡に映った自分の顔を見つめた。

 左の眼窩だけがひどく落ち窪んでいるのがわかる。義眼を洗浄しようとして、指先が小さく震えているのに気づいた。

 見られた。

 目を外しているところを、左目がない顔を見られた。

 心臓が早鐘を打っている。喉がヒリヒリして、息もできない。どうしよう。どうしたらいい。また、小学生の頃のようにみんなに気持ち悪がられたら、どうしよう。無視されるだろうか。それとも心無い言葉で傷つけられるのだろうか。

 ノートに大きく悪口を書かれ、上履きを隠され、誰もわたしに触れてくれないような毎日が……わたしはそこまで考えて大きく首を横に振った。全部、なかったことにしたくて。左目だけを隠すように伸ばした前髪が、頭の動きに合わせてぱさりと弧を描いた。

 やっぱり学校で義眼を外すんじゃなかった。

 違和感を感じても、我慢すればよかった。

 そうすれば。

 ……見られないで済んだのに。

 わたしは一度強く唇を噛んで、手早く義眼を洗浄した。眼球漏で萎んだ瞳の上に、震える手で、なんとか義眼を付け直す。

 たったそれだけのことなのに。

 脇の下には、冷たい、嫌な汗が滲んでいた。

 普段なら誰もくることのない、体育館裏のトイレから出ると、手入れもされていない紫陽花の葉が、薄日に当たっていた。五月も中旬に差し掛かるというのに、この場所はいつもひんやりとしていて気持ちが悪い。トイレで首を吊った生徒の霊が出る、とまことしやかな噂が流れているが、きっとデマだろう。ただ、そんな噂が流れるくらいには、ここは嫌な場所なのだ。

 体育館の陰になって、一年を通して陽があまり射さず、いつも湿気を含んだ瘴気じみた空気が淀んでいる。ロケーションだけなら、幽霊の一人や二人くらいは出てきそうな雰囲気がある。

 だから。

 生徒なんて誰もこないだろうと思っていたのに。

 わたしは辺りをぐるりと見回した。

 鳥の声もしない、ましてや人の声など聞こえてこない。体育館を使用しているときにも、なぜかここまでは音が響いてこないという。

 落ち着かない気持ちを胸ごと押さえて、あの娘はどこのクラスの所属だろう、と思う。

 二年生では見たことのない顔だった。なら、新入生だろうか。

 顔は覚えている。長い黒髪、切れ長の目。まるで日本人形みたいだった。

 あの子は誰にも喋らない、と言っていたけれど、それを素直に信用したわけじゃない。

 一度きちんと話をしないと。

 そう思いながら、わたしはそそくさとそこをあとにした。校庭に出る際にちらりと振り返ってみるが、暗がりの中に、陰鬱なトイレがあるだけだった。


 その子の名前は木ノ下永遠子といった。

 一年三組の所属で、落研の新入部員だった。それを知るまでにたいした時間はかからなかった。なにせ、彼女は何かと目立つ存在だったのだ。

 調べてみると彼女は有名人だった。曰く女子校という特殊な環境の中にあって、誰ともつるむこともなく、カーストの中に取り込まれもしない人。学年で十位に入る才媛でありながら、スポーツもそつなくこなし、それでいて入っている部活は落研ときている。背はモデルのように高く、眉目も人形のように麗しい。全てができすぎていて存在自体が嫌味のようだ。これでは目立たないはずがない。

 わたしがその日、昼休みに一年三組の教室を訪ねると、彼女は少し後ろ寄りの席で、一人でぽつんと座っていた。すでにグループがいくつか出来上がっていて、お弁当を広げたりしていたが、彼女に声をかける人はいないようだ。

 教室から出てきた生徒を捕まえてあそこに座っている木ノ下さんを呼んでほしい、と伝えると、彼女は一瞬きょとんとした顔をしたあと、わたしが一つ上の先輩だと気づいたのだろう、すぐに呼びに行ってくれた。

 彼女はクラスメイトに声をかけられて首を傾げてみせたが、それでもわたしのところに、ゆっくりとやってきた。

「ああ、先達ての。うちになんか用ですやろか」

 凛と響く京都弁が、耳に涼しい。わたしは一度つばを飲み込んで、少し話がしたいのだけど、と言った。

「ええですけど。ここじゃあれやし。何ぞ当てがあります?」

 そう言われて、わたしはどこで話をするかなど、何も考えていなかったことに気づいた。しどろもどろになったわたしを見て、彼女——永遠子は小さく笑った。

「このあいだのトイレ、言うんはちょっとなしやし。ええとお名前は……」

「ごめんなさい。わたしは二年四組の花菱。花菱小糸」

「へえ、こいさん言わはるんですか」

「こいではなくて、小糸です」

 わたしが訂正すると、

「ああ、すんません。うっとこのほうでは小糸ってこいさん言わはってね、お嬢さんって意味なんよ。それで、つい」

 永遠子は目の前で両手をぱたぱたと振って、苦笑を浮かべた。

「ええと、花菱先輩はお昼ご飯どないしはるんです? おべんと持ってきやしたん?」

「ううん。少し話ができたらって、思っただけだったから」

 わたしがそう言うと永遠子はぱんと手を叩いて、

「ほなら購買部でパンでも買うて、どっかで食べしません? うちも今日はおべんとさん持ってきてへんねん」

 そしてにっこり微笑んだかと思うと、自分の机に戻って鞄から財布を取り出し、再び教室の入り口まで戻ってきてわたしの手を取った。驚いているわたしを尻目に、彼女は肩を並べて歩き始めたのである。


 藤の花が頭上でさりさりとゆれている。

 甘い匂いに、少し胸が苦しくなる。

 木陰のベンチに座りながら、わたしはちらりと横目で、永遠子の様子を窺った。

 焼きそばパンを口いっぱいに頬張りながら、青海苔がついたら嫌やなぁと笑っている彼女を見ていると、噂なんてあてにならないものだな、と思う。

 もっと取っ付きにくい子かと思っていた。

「それで、あの、お話ってなんですやろか」

 口の中のものを飲み込んで、永遠子が訊ねた。

「このあいだのことなんだけどね」

 髪質の悪いわたしは、長く伸ばすとボサボサになってしまうのを知りながら、それでも左目が隠れるくらいまでは、前髪を確保している。極力、こちら側の目を見られたくないからだ。

 でも、今は、あえて髪をあげて、左目を彼女の方に向けている。

 どんなに精巧にできていても、この至近距離ならば、それが義眼だとわかるだろう。

「一度見られてしまっているから正直に言うけれど。わたしのこっちの目、子供の頃の病気で、萎んでしまって、機能していないの。あなたが見たのは、わたしが義眼を外していたところ。……でもね」

 不思議そうにわたしの顔を見ている永遠子に、わたしは苦笑した。別に笑いたくはなかったけれど、笑う以外に、何も思い浮かばなかったのだ。

「そのことを知っているのは、担任の先生と養護の先生だけ。誰にも……クラスメイトにも話していないの。だからお願い。あのとき見たこと、忘れてくれないかな」

「……そうやったんですね。大丈夫。うち、友達おらんし、誰にも喋らへんから」

 にっこりと笑いながら、永遠子は心が冷えるようなことを平気で言う。友達がいないなんて、どうして笑いながら言えるのだろう。

「あ、そや」

 永遠子はわたしの手を両手で掴み、きゅっと握った。

「ほならや、先輩。うちと友達になってくれへんな? 先輩かて忘れて、忘れる、はいそうですかってわけにいかんから、わざわざうっとこに来たんやろ? 一緒にいればうちのこと監視できるやろし」

 わたしがその言いように驚いていると、

「決まり。じゃあ、これからは先輩のこと、こいさん、て。呼ばわせてもろうてええかな?」

 そう言って、わたしの手をぶんぶんと大きく振るのだった。


 うちはつぎはぎなんよ。

 そう言って永遠子は笑った。

 最近では、藤棚の庇の下でお昼ご飯を食べるのが、わたしたちの日課になっていた。大概は彼女がわたしを呼びに来る。一年生にとっては先輩を訪ねるなど、相当勇気がいることだろうに、永遠子には二年生の教室を訪れているのだという、精神的な緊張感は皆無のようだった。

 最初は驚いていたクラスメイトたちも、今では今日もあんたの嫁が迎えに来たよ、とからかいの声をかけてくる始末である。……誰が嫁だ。

 わたしはつぎはぎ、という言葉の意味がわからなくて、小首を傾げていた。

 けれど永遠子はそれ以上何も語らず、静かにお弁当を口に運んでいる。

 自分で詰めてくるのだというそのお弁当は、竹のお重にぴっちりと、まるで料亭もかくやというくらい美事な出来栄えで、売り物でもなかなかこうはいかないだろう。一度お手製だという卵焼きを食べさせてもらったが、じゃこと山椒を炊いたものが入っていて、とても美味しかった。

「……つぎはぎって、どういうこと?」

 それ以上何も話してくれないので、結局わたしからそう訊ねた。

「イメージの話やわ」

「イメージ?」

 もぐもぐ。

 永遠子は鳥の唐揚げを頬張りながら、こくこくと頷いてみせる。

 喋るか食べるかどちらかにしないと駄目みたいなので、わたしも自分のコロッケパンに黙って噛り付いた。

 イメージというのなら、この子くらい最初の印象と真逆なのも珍しい。切れ長の目は初め見たときには怜悧で冷たそうに感じたのに、糸のように細くなると、ひどくやわらかな印象を与える。彼女自身ころころとよく笑い、表情豊かで人懐っこい。だからどうして永遠子に友達がいないのか、不思議でならなかった。

 まれにわたしの方から彼女を迎えに行くことがあるのだけれど、そんなとき、永遠子は教室の中でただ一人過ごしている。周りも無視しているわけではないのだろうが、まるでそこに永遠子が存在していないかのように、誰もかれもが永遠子を意識の外に追いやっている。

 永遠子が自分のことをつぎはぎのイメージの集合だと言うのなら。

 クラスメイトたちは永遠子に、いったいどんなイメージを持っているというのだろう。

「自分から喋りかけたりはしないの?」

 あらかたお弁当を食べ終えたのを見計らって、わたしは訊ねた。永遠子はポットに入れたほうじ茶を飲みながら、んー、と喉を鳴らした。

「それ、なんの話ですのん?」

「いや、だからイメージがどうのって、永遠子が言うから、周りからどう思われているのか気にならないのかな、って」

「ああ、それで。……そやねぇ。うちからはよう喋らへんかもしれんねぇ」

「どうして? きっとクラスの子たちも誤解しているんだと思うわ。あなたのこと」

「誤解? うち、誤解なんてされてるんかしらん?」

 どうにも話が噛み合わない。わたしはちょっと頭が痛くなりながら、それでも続けた。

「あなたがつぎはぎだとして、それが永遠子の印象の産物なのだとしたら、それを払拭させるには、自分から積極的に話さないと駄目なんじゃないのかしら。前にも友達がいないって言っていたけれど、多分そういうところなんじゃないの?」

「それ、こいさんも一緒なんやろね」

「え?」

 わたしはどきりとして、永遠子を見た。婉然と微笑んでいる、永遠子の顔を。

「幽霊の、正体見たり枯れ尾花、なんて言うけど。こいさんも正直に目のこと、級友に話したかてええんちゃうん? そしたらあないな場所のトイレになんぞ、行かんくて済むやないの」

 一瞬、頭に血が上りかけた。

 けれどもわたしは小さく息をついて、そうかもしれないね、と呟いた。

「でもね」

 そっと永遠子の手を取ると、彼女はきょとんとした表情で、わたしを見返した。

「わたし、小学生の頃、この目のせいでいじめられていたの。一時期は不登校にもなるくらい。だから」

 一瞬言葉に詰まったけれど、それでも、

「だから、最初から全部の人に受け入れてもらおうなんて、思っていないの。気持ち悪い、自分とは違う、そう思う人は少なからずいる。どんなに優しい顔をしていても、裏で悪口を言う人はいるわ。わたしはそれを、嫌というほど知ってしまった」

「うちのことは、どうです?」

 永遠子が繋いでいた指先を、きゅっと握った。

「うちにも、受け入れられんくて構わん、そう思うてはります?」

 正直に言うならば、よくわからなかった。

 永遠子とこうやって二人で話をする仲にはなったけれど、彼女が何を考えているのか、わたしをどう思っているのか、訊いたことがなかった。

 永遠子はどうして、わたしと友達になりたいだなんて、言ったのだろうか。

「……あなたは別、かな」

 わたしがそう言うと、永遠子は目を細めてにっこりと笑った。

 そこには同類を見て感応したような、甘く密やかな情が浮かんでいた。

「話を戻していい? どうしたらイメージがつぎはぎなんてことになるの?」

 再び訊ねてみた。なんて言うたらええんやろ。そう呟いて、永遠子はほうじ茶をすすった。

「そやねぇ、……あ、ほら、うちって美人やないですか」

「……は?」

「それに頭もいいし、スポーツもそこそこいけるし、おっぱいはあんま大きないけど背は高くてスタイルもいいし。非の打ち所がないと思わしません?」

 急に何を言い出すのだろう。

 わたしは二の句も継げられず、黙っていた。

「せやから、自分の面子を保つために、わざわざうちを貶めるように、勝手にあれこれと想像してしまうんやと思うんです。ツンとしてお高くとまっている、顔がいいのを鼻にかけている、頭がいいからって馬鹿にしてる、あれだけ運動できるんに落研なんてふざけてる……それって、うちのイメージの裏と表なんやわ。人いうんは、自分の見たいものしか見えへんようにできてるんよ」

「だから、それが誤解なんでしょう?」

 わたしは彼女のことをあれこれ調べたときのことを思い出していた。皆、永遠子を誉めそやしていても、その表情は歪み、眉根はどこか曇っていた。そういうことだったのか。

 けれど、永遠子はコップ代わりにしていたポットの蓋を傍らに置くと、静かにわたしを見返した。

「それが誤解言うんやったら、うちはそれでええ。……自分を知って欲しい人にしか、うちは正体を明かさへん」

 永遠子の瞳が濡れて、光っていた。

 まるで、叢雲の中の、月のように。

「人は自分の恐れを投影するときに、勝手に化け物の姿を思い描いてしまうもんやし。気持ちなんてもんは碁盤の目のように整理したはるつもりでも、それが斜めに傾いだだけで……妖を産むんやわ」


 土曜日の放課後に落研の定期発表会があるので、聴きに来て欲しい。

 永遠子にそう言われて、わたしは少し迷った。

 うちの学校は、土曜日は基本半日なので、居残っていたらせっかくの午後が無駄になってしまう。それに落語なんて今まで触れたこともないから、どう接したらいいのかもわからない。

 けれど、あの永遠子が部活の仲間に囲まれたときにどんなふうにしているのか、どんな噺をかけるのか、それを知れるのはちょっと楽しみだった。

 そんなわけで土曜日の放課後に発表会が行われるという礼法室に行ってみたのだけれど、そこはもぬけの殻だった。誰もいない。演者も、客も。しんと静まりかえる畳敷きの部屋の中で、わたしは途方にくれた。もしかしたら、担がれたのだろうか。そう思い始めたときだった。

「お待たせしてしもて、すいません」

 着物姿の永遠子が、すっと、礼法室の奥から出てきた。たしかあの向こうは水谷になっていたはずだ。

 艶やかな手毬の染付けもさることながら、結い上げた髪や、その後れ毛に少女とは思われぬ色香が漂っていて、わたしはどきりとした。唇のあの血のような赤さは、……紅をさしているのだろうか。

「おざぶ、ここに置きますんで、遠慮せんと座ってください」

「永遠子、他の部員やお客さんはどうしたの?」

 少し心配になってそう訊ねると、

「へ? うちとこいさんだけやよ?」

 永遠子は却って不思議そうに、わたしを見て首を傾げるだけだった。

「どういうこと?」

「どういうこと言われても。落研はうち一人だけやもの」

 一人だけ?

 そんな馬鹿な。たしかクラブ活動や同好会には規定人数が定められていたはずだ。それに達していなければ、活動は認められない。彼女一人だけの部活だなんて、ありえない。

 なら、これは一体なんなのだろう。

 いや。

 ……そもそもうちの高校に落研なんてあっただろうか。

 ふとそう思った瞬間、わたしは得体の知れない何かを感じて、背筋が冷たくなった。

 そして、二人きりの〝それ〟が始まった。


 ——平安も平清盛が存命だった頃だというのですから、これはまた古い話でございます。世は近衛院のころ、または二条天皇の御代ということでございまして、崇徳院の怨霊がまだ、京の都で恐れられていた時代の話でございます。いつからでございましょうか、御所の上に毎晩のように黒い叢雲が掻き出でまして、その中からひょう、ひょうという不気味な鳴き声が響いてまいります。昔より夜鳴く鳥の声は凶相と言われておりますが、当時もその考えでございましたそうで、帝はこれに恐怖なさいました。ついには病の身とおなりになってしまいましたが、有験の僧の加持や薬湯も効果がない。そこで公達や側近が一計を案じまして、かつて源義家が鳴弦にて怪事を止ませた例に習い、弓の上手である源三位頼政に下知が下されることとなりました。これに泡を食ったのが当の頼政でございます。成功するあてもないのに、失敗すれば末代までの笑い者。そのような任など受けたくはない。けれど勅命なので拒むこともできない。頭にきた頼政は焼けばちで、とがり矢を二本滋藤の弓に取り揃えまして、南殿にて祗候いたしました。なぜ矢が二本かと申しますと、一本目でしくじったときにはどうせ腹を切らねばならぬのだから、自分を推挙した源雅頼を射抜いて殺してしまおうと思っていたそうで。なんとも悲痛な覚悟でございます。さて、その夜のことでございました。丑三つ時になりますと、東三条の森の奥からどろどろーっと黒雲が立ってまいりまして、御殿の上にたなびいた。いやいや出たか、と思ってきっと空を見上げますと、何やら妖の気配がいたします。頼政は弓を引き絞り、南無八幡大菩薩、と念じて矢を放つ。するとこの世のものとは思えないような悲鳴とともに、何かを射た手応えがある。空から二条城の北にその妖が落ちてくる。だっと駆け出したのは家来の猪早太でございまして、これに九度刀を突き刺して、絶命させました。人々が明かりを持てまいりますと、その妖は異形でございまして、頭はましら、手足は虎、尾はくちなわのごとしであったと今に伝えられております。その鳴き声は鵺に似ていたということで、体の大きさは五尺ばかり。ただ別の説によりますと、死骸は竹筒に入るくらいというのですから、本当に鵺……今でいうトラツグミだったのかもしれません。この幾つもの獣をつぎはぎしたような妖の死骸は祟りを恐れて鴨川に流されたとも清水寺に葬られたとも言われております。未だこの妖の正体は不明でございますが、秦恒平の「能と平家物語」の中では崇徳院の怨霊ではなかったか、と書かれておりまして、また愛知県の上浮穴郡久万高原町には、鵺の正体は頼政の母親だった、なんて伝説も伝わっておりますが、さて、どうでしょう。とんと見当もつきません。

 時代は移りまして、ここに一人の僧がございます。熊野三社に詣でて十七日間の修行をし、西に向かう道すがらのことでございました。津の国蘆屋につきましたが、この里は禁制にて宿を取ることができません。お坊さま、本当に申し訳ねえこって。川岸に古いお堂があるんだが、そこでよければ一晩お泊まって頂くのは可能なんですがね。里の住人がそう言うので、僧はそれは良いことを聞いたと膝を打つ次第で。ただ、その先がありまして。実はそのお堂には空舟に乗って現れるという幽霊の噂がございましてね。なに、幽霊とな。へえ。それならば拙僧が供養してしんぜましょう。いや、逆に取り殺されちまうんじゃ。なにを申す、一仏成道観見法界草木国土悉皆成仏、人ならぬものに回向するのは本懐である、というので里の者が心配するのも聞かず、僧はそのお堂に入っていった。夜も更けてまいりますと、何せ明かりもなにもない川岸のことでございます。ちゃぷりちゃぷりと波打つ音がするばかりで、幽霊なんぞは出てきやしない。これは担がれたか、と思っていますと、ぎぃ、ぎぃ、と艪を使う音がする。こんこん、ごめんくださいまし、ごめんくださいまし。はい、なんでございましょう。お堂の扉を叩く音に僧が起き出してみると、岸に空舟がございまして、お堂の入り口には女が立っている。さては件の幽霊か、と思いますが、そこは僧籍に身を置く方でございますから、動じたりはなさいません。拙僧に何か用事でございますか。はい、実は、私を成仏させて欲しいのです。女が泣きながら語るところによると、自分は鵺の霊であり、猪早太に滅多刺しにされたあと、空舟に乗せられ流された、何度も何度も岩にぶつかり、ようよう漂着したのがこの岸辺であったということで。それはそれは無念もおありでしょうが、そのようなものは一切断ち切って、極楽浄土に参るがよろしかろう。僧が念仏を唱えますと、鵺と名乗った女はすうっと消えていきます。僧はああこれは良いことをしたと心得まして、眠りにつきます。明くる朝、もしかしてあの僧が霊に取り殺されてしまったのではないかと心配でたまらなかった昨日の里人が訪ねてまいりますと、僧はもう起き出して朝のお勤めを行っておいでです。ああ、お坊さま、大丈夫だったか。いやいや空舟に乗った霊は現れたが、拙僧の回向により成仏なさった。これであの女も極楽に行かれたことだろう。里の者はびっくりして。なにをおっしゃいますか、ここに現れる霊は男でございます。


 今でも得体の知れない人物を鵺のようだと評しますが、そのような言葉が未だ生きているのであれば、鵺はまだまだ成仏していないという、証左なのかもしれません。


 百合と妖怪の噺、第一夜・鵺。これにて幕でございます。

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