名もなき生活

砂田計々

名もなき生活

 赤い鉄塔が遠く向こう岸に見えている。

 放課後。わたしとニニは通学路を大きく外れて、堤防をあてどなく歩いていた。

 うつむいたままのわたしの心配事を知ってか知らずか、ニニは矢継ぎ早に、とりとめのない話題を振ってきた。


「自分は洗脳されてるのかもって考えたことある?」

「お風呂ってめんどくさいけど、入るとやっぱり気持ちいい」

「てりやきバーガーでその店のレベルがわかるよね」

「標識ってどれも命令口調でいやになる」


 わたしはどれもあいまいに相づちをうった。それどころではなかったから。ニニは何も悪くなかった。いつだってこの調子だった。


「さっき買ったばかりの服がもうすぐに気に入らないときってない?」


 ある。ついつい反応しそうになったけどわたしはそれも心の中で踏みとどまった。


 風が耳にぼうぼうと吹きつけて、わたしの髪は乱れていく。ニニはそうでもなくて、理不尽だった。ニニは最近かわいいボブになった。

 しばらくわたしが黙っていると、ついにニニも黙った。

 わたしはその隙に言った。


「名前知られた」

「いつ」


 ニニは打って変わって、これまでの話を全て投げうって、真剣な顔で聞いてくれた。


「きのうの夜」


 本当にうかつだった。今になって思えば、あんな古典式な方法に引っかかるなんて。わたしは昨晩、無我夢中で正しい判断ができなくなっていた。昨日の自分を思い出すと後悔してもしきれない。自然と漏れて出たわたしのため息に、ニニの方が不安顔になる。


「どうしたの」

「コハクとの相性を占った」

「占い?」

「姓名相性占い」

「そっ!そんなこと。危ないに決まってるのに!」

「うん」

「それにコハクは……、コハクは本名じゃないし。意味ないじゃん」


 ニニの言うとおりだ。当たり前だが、わたしはコハクの本名を知らない。だからコハクとの相性なんて占いようがないのだ。それでも、わたしはコハクの「コハク」以外の過去の仮名を思い出せる限り思い出して、順番に試していった。期待通りの結果が出なくて、何度も何度も占い直した。

 そうやって、しらみ潰しに試してみても、ついに納得のいく結果は得られなかった。

 でもよかった、とその時は思った。

 なぜならそれは、わたしとコハクの本当の相性ではないからだ。

 仮の名前で占った結果など、二人の運命が限りなく薄まった偽りの、嘘の、事実無根の相性なのだ。これとは別に、本当の相性が存在するということなのだ。

 ――本当の相性。

 わたしは母を問い詰めた。

 木べらで火にかけた鍋をかき混ぜる母は振り返りもせずに、まったく相手にしてくれなかった。小さい頃から何度聞いても答えてくれなかったのだから当然だ。

 わたしはそれでも懇願してしまった。本当の名前なんて聞かなければ、間違いは起こらなかったのに。その時はどうしても抑えられなかった。母は何度もはぐらかして、子供のころから繰り返した「言えない理由」をそのときもまた説明した。それでもわたしは我慢できなかった。どうしても知りたいと言った。最後に母が折れたのは、一度でいいから母も本当の名前でわたしを呼びたいと思ったからなのかもしれない。


「それで?」

 ニニが冷たく凍るような風に思わず目を細めて聞く。

 堤防にはわたしたち以外、誰の姿も見当たらなかった。


「本名で占ってしまった。そしたら、占いサイトの半分は名前を抜き取るための詐欺なんだって……、入力したデータはすべてアーカイブに残るんだって、ネットに書いてて」


 とるにたらない些細な個人情報であっても蓄積すると体系的に分析することができてしまうらしい。一部の悪意を持った個人情報抜き取りサイトなどが精査もせずにせっせとデータを収集し、データベース管理しているということだった。データベースに残るとどうなってしまうのか。その危険性については小さい頃から母からも、学校でもよく聞かされた。


「それで?」

 ニニは問い詰めるように言った。

「それで、占いの結果はどうだったの?」

「え? それはまあ、うん」


 わたしは占い結果に並んでいた言葉を思い出して少し照れた。

 コハクが本名じゃないことを差し引いても、相性は抜群に良いと出ていた。わたしとコハクは奇跡的、神業的相性で結びついていて、一度結びついてしまうと今世は離れることができないそうだ。占いサイトの裏側を知ったあとでも、この好結果だけは疑わず、捨てきれずにいた。


「じゃあよかったんじゃん」

 ニニは名前のことなど全然問題ないみたいな笑顔で言った。

「大丈夫だよ。全然気にすることないよ」

 わたしはニニの笑顔を見ていると本当に大丈夫なような気がしてきて、泣きそうになった。


「ねえねえ、それより」

 ニニは言った。

「生クリームとあんこどっちが好き?」

「完璧なカレーの具考えよ」

「わたしのおばあちゃん迷信好きでさ。迷信漬けと言ってもいいくらい。縛りが多すぎて夜になにもできないんだよ」


「なにそれ面白い」

「だからすごく早く寝るよ」


 話しながら、ニニはわたしの手を引いて、走って赤い鉄塔から遠ざかった。

 わたしたちは小さい頃からずっと、赤い鉄塔が名前を狙っていると信じていた。

 もう月が替わる。


「明日からはヘル」

 ニニは言った。

「ヘル?」

「ヘル。髪切ったらヘルメットみたいだから」


 わたしは遠慮せずに笑った。ニニもそのヘルメットみたいなかわいいボブを揺らして笑ってみせた。


「地獄かと思った」

「それもある」


 明日からヘルになるニニはその前はコブチャで、もっと前のいつだったかはノリオだった。安全性を保つためとはいえ、仮名の使用期限が一か月間となるとネーミングも雑になってくる。わたしたちはよく花の名前とか星の名前から持ってきて、自分に新しい仮名を付けていたけど、たまにふざけたりもした。なかでも、ニニは特別変な名前で自分を呼ばせるのが好きだった。周りの人間はいつもそれで戸惑った。けど驚いたことに、どんな変わった名前でも、一か月もするとちゃんと定着するから不思議だ。ニニもコブチャもノリオも、最後はちゃんと馴染んでいた。最初の違和感はすっかり消えてなくなり、もうずっとニニだった気がする。

 でもそれはたぶん変わらないからだ。名前がなんであっても、相変わらず一貫してトマトはトマトだったから(トマトは一年の最初にニニが名乗った名前)。

 だから、わたしは安心してヘルを受け入れられる。


「わたしは綾香だよ」


 ニニは一瞬で、ふざけてないときの美少女のままの顔にもどって、聞いた。


「本当の名前?」


 わたしは小さくうなずいた。


「――あやか。すごい。すごいね」


 ニニは何回もわたしの名前を褒めた。本当の名前。すごい。すごい。と本当の名前を現実に耳にしたことについても感動しているようだった。


 赤い鉄塔はどこからでもこちらを見ている。

 ニニは「もうちょっとだけ見ていく」と言ってそこを離れなかった(ニニはよく赤い鉄塔を監視している)。

 わたしはその背中をニニと呼ぼうか、それとももうヘルと呼んだ方がよいのか迷いながら、やっぱりなにも呼ばずに、バイバイを言ってひとり帰った。



 帰り道。この辺りは街灯の間隔が広く、灯りから次の灯りまでに一度、不安な気持ちにさせられる。今日は一層、不安な気持ちが押し寄せてきて帰りを急いだ。

 家の前に人が立っていた。母が外でわたしの帰りを待っていた。


「おそい」

「ただいま」

「おかえり」


 母はわたしを門の中に押しやった。


「お母さんごめん。ごめんなさい」


 母はわたしが何も言わなくても、すべてわかっているようだった。


「名前……」

「いいから、入りなさい」


 わたしはニニと遅くなってしまったこと、占いのことをすべて話した。母はそれを最後まで静かに聞いていた。母が席を立って、わたしと自分用にコーヒーを淹れて戻ってくる。何を考えているのか、怒っているのかどうかもわからないけど、母は普段よりも淡々として見えた。


「綾香が生まれるとき」

 母はコーヒーに口をつけてから、ゆっくりと話し始めた。

「名前はどうしようかって、お父さんとずっと、もうずっと考えた。二十歳になってこの子が初めて自分の名前を知ったとき、どんな名前だと嬉しいかなって。おなかの中にいる間、毎日そればっかり。いざ、生まれたときには100も200も名前があって、でも本当の名前はこれだ、ってお父さんと示し合わせて。絶対に呼ばないぞって決めて。神様にも誓った」


 母はカップをゆっくりと口に近づけて、コーヒーをもう一口飲んだ。

 父と母がわたしの名前を決めるのにどれほど悩んだのか、わたしは初めて知った。

 わたしは二人の想いを嬉しく思ったけど、その分、犯した過ちを思っていたたまれなかった。

 母の顔が厳しくなる。


「名前は不用意に人に知られちゃいけないことはわかるでしょ? せめて大人になるまでは親が責任をもって管理する。一生にかかわることだから。そういう風に、ずっとお母さんも言ってきたし、学校でも指導されているはずでしょ。それはわかるでしょ? だから、子供は、まぁ知りたいと思う気持ちはわかるけど、もっと大切にしてほしい。名前はそういうものなの」


 わたしは黙ってうなずいた。

 時計の針の音が聞こえるほど夜は静まり返っていて、いつもの食卓なのに張りつめた空気が重く感じた。母と意気消沈したわたしはしばらく黙ったまま静寂と向き合った。わたしはこれから先どうなってしまうのか考えると不安でたまらない。鼻をすすると、泣いてるみたいな音がして惨めだった。


「反省してるの?」


 わたしはいつもの声がうまく出せる気がしなくてしばらく黙ったまま考えて、ただ深くうなずいた。

 すると母の表情が一転して優しくなる。


「大丈夫よ、綾香」


 わたしは母の優しい顔に首を傾げた。


「大事な娘の名前を簡単に呼ぶはずがないじゃない」


 ちょっとの間考えてしまった。ようやくその言葉の意味に気づいて安堵していると、母が満足げに微笑んでいた。

 わたしは思い知った。母の覚悟はわたしの想像の一枚上をいくのだ。


「だから綾香も、二度と母から名前を聞き出そうなんてことしないと誓いなさい」


 空になったコーヒーカップを片付ける母の背中を何度か眺めて、遅い夕飯を食べた。わたしはその時が来るまでもう聞かないと誓って、皿に残るルーを丁寧に掬いとった。もう一杯くらい食べれそうだ。

 日付がもうすぐ替わる。


 湯上りの体に冷たい牛乳が通り抜けて、先ほどまでの不安がお腹のあたりにふっつりと消えた。

 布団にもぐり、わたしはヘルとの相性を占っていたらどうなっていただろうと考えてみた。

 わたしとヘル。わたしとニニ。わたしとコブチャ。わたしとノリオ。わたしとトマト。

 占わなくても、やっぱり大丈夫だと思いなおした。それに、彼女とならたとえどんな結果が出たとしても、笑って見過ごせるなと思った。

 今日のことは明日謝ろう。

 いっぱい話しかけてくれたのに適当に返事してごめん。

 買った服が気に入らないことわたしもあるよ。

 カレーは牛肉。

 生クリームもあんこもどっちも好き。

 おばあちゃんの話もっと聞かせて。


 そうだ一度、わたしが名前を付けてあげよう。彼女はどんな名前も似合うから、今まででいちばん居心地が悪い可愛らしい名前がいい。

 いくつか新しい名前を思い浮かべてみても、そのたびに似合ってしまう彼女が少し憎かった。

 わたしはふいに、本当の名前が知りたいと思ってしまう。彼女の本当の名前。

 それは世界で最も想像がつかないことのように思えた。

 だれも思いつかないのに一番彼女らしい名前。

 すごいな。

 天井の暗闇に彼女のたったひとつの名前を思い巡らせると、緩やかに、茫洋とした温かい眠りに落ちていった。

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