THEM-正体不明-
柏木祥子
パラライザー(麻痺)
1
夏子は自分がはじめて人を殴ったのは、八つの頃だったと記憶していた。確か金魚鉢が関係していたのだが、どちらが勝ったのかは憶えていない。誰と殴り合いをしたのかも。そしてそれは、間違いである。殴り合いというのも違うし、夏子はもっとずっと前から誰かを殴っていたのだが、それも忘れている。
川瀬夏子にはその才覚があった。夏子の暴力は他の、なんらかの行動や言動に起因するものではなく、はじめに情動ありき、そしてその次に、行動や言動があった。夏子の暴力は純粋な暴力だった。だからこそ強力で、そして無比なのであった。
「どういうこと?」
「どういうことだろうね。どう思う?」
これはまったく関係がない、ただの無駄話。
他愛のない教師とこまっしゃくれた生徒の会話。
夏だった。彼らは教室棟の隅にある理科室に集まって実験をやっていた。
教師のほうは、ただリトマス試験紙にアルカリを垂らしただけである。科目に理科があって、何年か前に事故が起きていないのならどこででもやるであろう簡単な実験である。それだけにこの反応がうっとうしくて仕方ない。どうして? という疑問は、教師からしてみれば簡単な問いであるけれども、リトマス試験紙に含まれている色素の分子がアルカリに反応するからだと説明しても、この生徒がわかるかは疑問だったし、そもそも正しい答えなど初めから求められていないということを、教師は知っていた。この子はこちらを困らせたいだけで、なにかこちらがすべき解説をしたとしても、それはなに、だとかそれだとどうしてそうなるの、だとかそういうことを被せて質問してくるに決まっていて、ひねくれた考えだとは教師自身が自覚していることだが、一方でそう思わせるそちらが悪いのだと内心で居直ってもいた。
「どう思う?」と訊かれた生徒は、少しも考えるそぶりを見せず、わかりません、と言った。教師はリトマス試験紙に含まれている色素の分子がアルカリに反応するからだと言ったが、生徒のほうはまた色素ってなに? と返した。
教師にはわからなかった。それが本当に自分を持っているつもりでいるのかと。その答えが本当に稀有で優遇されるべきものだと考えられているものなのだろうか。こっちにしてみればうんざりするほどチープで代わり映えのしない答えなのだ。
「そうなるからそうなるんだよ」と教師は言った。「科学ではね、それはそう、と決まってるんだよ。アルカリをリトマス試験紙に垂らすと赤くなるの。わかった? これ、試験に出るからね」
教師はそういって質問をばっさり打ち切った。そういった効果を期待してのことではないが、理科室の机に向き直ってノートに鉛筆を走らせる音が増えた。中学一年生なんてこんなもんよね、と教師は考えた。教師はもう少し上の学年の生徒を見たい、と思った。
――やっぱりちょっと幼すぎるわ。中学生って。
そんななか、一人の生徒がノートの一枚をわしづかみにして投げ捨てた。力強く投げられたノートの切れ端は、放物線を描いて落ちたあと理科室の床に転がり、しかし込められたイメージに比べると、滑稽なほど軽かった。教師は驚いた。否、驚いたのは教師だけではなかった。同じ机にいた生徒がみんな少し彼女から離れ、不安そうな顔で教師のほうを見た。それも無理はない。なにしろ彼女はノートの切れ端を投げ捨てた、とは言うけれど、それは後ろにぽいと投げたというではなく、投擲と言ってもいいほどの勢いと攻撃性を孕んでいたのだから。
「なにを……」
それをしたのは日に焼けたような褐色の肌を持ち、同年代の子と比べ、高い背の目立つ少女だった。顔立ちはやや彫りが深く、頬骨が奇麗なカーブを描いていた。黒目がやや大きく、顔貌の大人びた風と合わせて全体としてどこか異国の血を思わせた。しかしなにより頬の下から耳元までうっすらと伸びる傷跡が目についた。
――この子は……。
教師はひときわ目立つこの少女の名前を思い出そうとした。それは以前、このクラスの授業をまかせられることになったとき、問題児として挙げられた少女の名前だった。
「川瀬、夏子さん」
教師はその生徒に歩み寄り、声をかけた。声をかけるまでに彼女は、ノートを両手で乱暴に掴み、びりびりに破いて表の型紙を中のページごとへし折っていた。周りにいた生徒は完全に怯えきり、隣に座っていた生徒などは席から立ち上がってのけ反り、教師に強くぶつかってきたので、教師は優しく押しのけて「大丈夫だから」と言った。
「ちょっと。川瀬さん」
教師に声をかけられても夏子はノートをいたぶるのをやめなかった。夏子は顔を歪め、歯をむき出しにしてノートを机に叩きつけた。全身全霊の怒りを込めていた。教師は今までにこうも苛烈に怒りを表現する人間を見たことがなかった。そうしたおかげで夏子は、ド派手なコーダを奏で終えた奏者のように、すっと落ち着いた顔に戻り、教師のほうを向いた。
教師は瞳を捉えられ、思わずどきりとした。それは深い海のようだった。そのまま見ていれば深海まで引きづり込まれてしまいそうな。夏子はなにも言わなかった。なにも言わず、肩で息をし、ノートの破片を集めはじめた。教師はその姿を見送った。彼女が立ち上がると椅子ががたがたと動く音が響き、彼女が近づけば息をのむ音がどこかから聞こえた。
夏子は周りのすべての破片を集め終わると、それをゴミ箱に捨てた。外からばたばたと走る音が聞こえてきた。夏子はゴミ箱を持ち上げた。驚いた様子の教頭が理科室に飛び込んでくるのと入れ替えに夏子は音もなく教室から姿を消した。
「いったい何事ですか? すごい音がした」
「いえ、なんでもないんです」教師は反射的にそう返した。「ただ、生徒の一人がなにか……騒ぎだしてしまって」
「はあ。そうか……そうですか。それでその生徒は?」
「外にでていってしまいました」
教師はしまったと思った。それを言えば教頭が怒りを覚えることはわかっていたのに、ついそう返してしまった。案の定教頭はそれが教員の態度かと教師を叱りつけ、あなたには教師としての自覚が足りないと言い放つと、然るべき時に然るべき場を設けて話をさせてもらうと会話を締め、恐らくは川瀬夏子を探しに出ていった。「なんだよ……」同級生の発狂と教師が叱られるという事態と、二つの出来事のせいで、理科室には微妙な空気がただよっていた。教師は最悪の気分だった。
けれども教師はそうした雰囲気には中てられたままでいるわけにはいかなかった。さすがに授業の続きをはじめるその瞬間は、言葉を詰まらせてしまったが、それは教師本人の感覚というよりは、そうせざるを得ない、物事を自然な方へ動かす超自然的ななにかによるもので、授業時間の残りを静かに、気まずい雰囲気のまま終えた。
川瀬夏子の話は、以前から聞いていた。
一年三組、出席番号八番。夏枯西小学校出身。根っからの武闘派で、小学校時代に起こした問題は数知れず。見かけはいいが、頭の方は……。中学に入ってからもすでに喧嘩騒ぎや、ああやって突然暴れたりだとか、問題を起こしてばかりいる。
職員室に戻った教師は、椅子に腰を下ろすなり盛大なに息を吐いた。座った職員室の椅子のギアがぎぃとなり、教師のため息を増幅させた。教頭からのお叱りがどんなものだか想像した。教頭は若い女が嫌いだった。自分のような、だ。思えば初めから気に入られていなかったし、非常勤の自分なら簡単に首を切られる可能性もある。
教師は背もたれに体重をかけて天を仰いだ。
ただでさえ今は教師が有り余っているのか、希望してもなかなか教鞭をとることはできないのだ。この学校に赴任してまだ三か月しか経っていない。これを逆に幸運であると捉えることもできるのかもしれない、と教師は思い、次いで自分が少し前まで働いていた学習塾は、もう次の講師を見つけているだろうかと考えた。見つけているだろう。
やはり憂鬱にならざるを得ないな。教師はつい机の下に押し込んでいたカバンから煙草をとりだし、一本抜いていた。それを近くを通った隣の英語教師が軽い調子で咎めた。
「そりゃ不味いでしょう」
「え? あっ」教師は自分がなにをしているのかに気づき、煙草をポケットに仕舞った。
「気持ちはわかりますけどね」と彼は言った。「川瀬夏子でしょう? あれは見かけはちゃんとしてますが、頭は」彼は側頭部のあたりで指をくるくるとさせた。「これですからね」
教師は英語教師の顔を見た。その教師は三田という教師よりずっと前に赴任してきた英語の常勤講師で、ちょっとかっこいい若手の先生、ぐらいの立ち位置で生徒たちから人気のある人物だった。そんな人物でさえ、こういうことを言うのだ、と教師は思った。
教師は肯定も否定もしなかった。軽くうなずくような真似もしなかった。同じに思われるのが嫌だった。
そうした空気を感じ取ったのか、彼は少しばつの悪そうな顔になって、「いえね」と言った。
「いえね? これが初めてじゃないわけじゃないですか。あの子が授業中に騒ぎだすのは。前は日本史の、阿刀田先生のところだったんですけどね。ほらあの人、いかにも気の弱そうな女性でしょう? どうしていいかわからなくなって泣き出してしまって。今体調不良で休んでるのはそのせいなんです」
「そうだったんですか?」
「元もと問題の多い子なんですよ。地元じゃちょっと有名で。加減を知らないというか……行動も、行為もね。すごく喧嘩っぱやいんです。自分からなにかするわけではないんですが、周りの子にバカにされたらすぐ手が出る。でも女の子ですし、あの見た目でしょう? 見逃されてきたんですね。それになにより――ボクから聞いたって言わないでくださいよ? あの子自身、体が痣だらけらしいんですよ」
「虐待があるということですか?」
「さあ。さあ。どうなんでしょうね。私はあの子の親に会ったことはありませんけれど、担任の綾小路先生によると温厚そうな方らしいですが……娘も見目があれですからね、わかったものじゃない」
彼は一度呼吸を入れた。
「ところで先生、攻撃性指数って知ってます?」
教師は思い出そうとした。大学時代に、心理学科の講義をとったときに聞いたことのある言葉だった。
「いえ。詳しくは」
「これはボクから聞いた話だってことは言わないでほしいんですけど」彼は言った。「中学校に上がる前に、川瀬夏子は大きな喧嘩をしたんです。頬の、そうそのあたりに傷が走っているでしょう、あれはその時にできたものなんですが……。そのあとに、精神科の診断を受けたんです。顔の傷を見た親御さんがね、どうしてこんなに攻撃的なのか知りたくなって。つまり攻撃性指数っていうのは、まあようは怒りっぽさを図る数値ですね。ストレスに対する免疫なんかを測定するらしいんですが、この攻撃性指数は100が最高で、ふつうはまあ30だか40だかにまとまるものらしいんですね。それが川瀬夏子の場合はなんと」三田先生は芝居がかった動きをした。「99.8。ほぼ100だったらしいですわ。本来なら薬なりなんなり飲ませて治療するよりも、施設に閉じ込めるべき子供なんですよ。だからつまり」三田先生はまた側頭部で指をくるくると動かした。「ま、こういうことですよね」
教師は大量に降りかかってきた情報を少しずつかみ砕いていった。それが終わると、静かに顔を上げ、「それ、本当なんですか?」と言った。
「まあ、全部が全部ほんとうということもないのかもしれませんがね。あの子が喧嘩っぱやくて自分の怒りをコントロールできない子供なのは事実だと思いますよ」彼は媚びるようなしぐさで教師に同意を求めた。それで、教師は「そう……かもしれないですね」と言い、釈然としない顔で唸った。
すぐには捕まえられなかったのか、教頭が戻ってきた。教師はたちあがり、教頭と相対した。
「相澤先生」
教頭は教師の名前を呼んだ。
「手のかかる生徒なのはわかっています。ですが、指導を放棄しないでいただきたい」
「はい」はいとはなんだはいとはと教師は自分で思った。「申し訳ありません」
「今回は大目に見ますが、次はありませんからね」
そういうと教頭はまた教室を出て言った。
教頭は生徒指導の教諭と授業の邪魔にならないよう校内を探していたようだが、昼頃になると、学内のスピーカーが夏子を呼び出す放送を流した。
放送に呼び出された生徒は、たいていしおらしくして現れるか、完全に無視するかどちらかだが、夏子が後者であろうことは、ほとんどかかわりのない教師にもわかった。むしろ今までわかっていなかったのが不思議であった。教師は今までの川瀬夏子を思い出そうとしたが、そうするとなぜか、脳に霞がかかったように夏子の印象が薄れ、完全に人型さえ失った。
教師は、自分はそういうところがあるよな、と考えた。
他人に興味がないわけではない。それが間違っているわけではない、けれど、印象のない相手はとことん覚えていない。担任を任されるぐらいになれば生活も今より楽になるんだろうけど、自分にはまだ無理だろう。
うしろでは夏子の担任が親御さんに電話をかけて、電話口で謝っていた。たかだか三か月の指導でなにができるだろう。ただでさえ彼は30人近くの生徒を抱えているというのに。教師はさきほど夏子の担任が謝ってきたときの様子を思い出した。昼食を食べようとしていたのを遮って、うちの川瀬が申し訳ありませんと言ったのだった。
教師は印刷したプリントの箱を持って理科室へ向かった。
2
夏枯市立夏枯中学校は、北関東の奥地に建てられた。夏枯自体が北関東の奥地なのだから、どこであろうと建てられれば北関東の奥地ということになるのだが。標高の低い山が点在し、低いところには大して高くない建物と、田んぼ……のかわりに太陽電池が敷き詰められる予定だった敷地がいくつもある。この町を開拓しようとして、とりあえずやめた形跡が残っている。窓の外にはそんな風景があった。夏枯中学校は四限のあと一時間の昼休憩を挟み、五六限があって終わりだった。
五限まではまだ時間があった。プリントの箱を教卓に乗せると、教師はうろうろと理科室の中を歩いた。
教師は床を見下ろした。
紙の塊が落ちていた。
教師はそれを片手で拾った。
それはくしゃくしゃに丸められた、先ほど夏子が放り投げたノートの欠片だった。広げてみるとノート一枚の半分だった。
教師はそれをまじまじと見た。
「先生」
驚いて教師は思わずノートの紙片を隠してしまった。
「川瀬さん」
川瀬夏子がゴミ箱を片手に理科室の扉の前に立っていた。夏子はゴミ箱をもとあった位置に置くと、教師の顔を今度はじっと見た。授業中にそうしたようにではなく、なにごとかを考えているようだった。教師がなにか話しかけようとしたとき、夏子はすっと、まるでそれまでの時間などなかったかのように、「これここでいいですか」と言った。「持ってっちゃってすいません」
夏子はぺこりと頭を下げた。
過度に申し訳なさそうではなかった。しかし思ってないで言っているわけでもなさそうだった。教師はそのずれた謝罪を受け入れた。夏子は扉の向こうに姿を消した。
やはり音はなかった。なので、教師は今のは幻覚かと少し疑った。拾ったノートの紙片を開くと、それは奇妙なほど丁寧にとられたノートだった。紙に盛大なしわが寄って、必要のない陰影がついていたが、それでも一つ一つの文字がゆっくりと時間をかけて形作ったかのように、きれいなノートだった。色分けや付箋こそ使われてはいないものの、黒板に書いたことから、自分が口にして説明したことまで、細かくとってあった。
やや中学生離れしたノートだったが、川瀬夏子という少女のイメージとそのノートはぴったりあった。ただしそれは、発狂していないときの、という但し書きつきではあったが。
しかしそれでも、発狂する、頭がおかしい、問題児、それだけのレッテルに、ノートの奇麗なと形容詞が付けば、それだけでずいぶん見栄えが良くなるなと教師は考えた。
かといってもちろん、夏子がおかしくないということにはならない。夏子はその翌々日に、同じクラスの悪ガキと喧嘩になった。悪ガキとかわいらしい書き方をしたが、地元の高校生と繋がっている上級生経由で、もう立派に暴走行為を繰り返す不良予備軍で、行動は少しもかわいげがない。夏子は見目がよく、体の発達も早いので、からかったり手を出そうとしたりする生徒もいないわけではなく、諍いになったのはちょうどそんな男子だった。
はじめは廊下で突然肩に触れたりする程度だった。廊下ですれ違いざまにさっと肩に触れ、げらげら笑いながら逃げていく。彼は前からそんなことをよくやっている生徒で、廊下を歩いている女子を見つけてはどこかに触れて逃げる。夏子は後ろからやってきた彼に気が付いて、さっと横によけた。男子生徒は夏子に触れようと手を伸ばしたが、そこを通りがかった教員に咎められ、嫌な顔をしながら逃げていった。
教員が「大丈夫?」と訊くと、夏子は無視して黙って男子生徒の背中を見送った。
「からかっているだけだからね」と言った。
その教員は上級生の担当で夏子を名前でしか知らなかった。
その次の時、四限が終わってすぐのときに、男子生徒は仲間に夏子に触ると宣言した。仲間たちは男子生徒を囃し立て、みんなで夏子のいる1年3組に行った。夏子はいなかった。夏子はいつも動いていなければ気が済まない性分で、継続してその場でおとなしくしていられなかった。そのため授業終わりでいらついていた。
1年3組の教室からそう離れていない廊下で夏子を見つけた男子生徒は一旦立ち止まって仲間の方を見た。
「行けよ」と仲間の一人が言った。男子生徒は夏子の背後から近づいて、そろりと彼女の様子を窺った。
夏子は目的もなく徘徊しているらしかった。そのまま歩いていけば非常口があるところまで行きそうだった。教室はもうなく、社会科準備室や理科準備室などの用途のよくわからない教室ばかりがあるあたりで、彼らのほかには人通りがなかった。
「こんなとこでやっても面白くないな」
そう思ったのでそのまま観察していると、夏子は校舎の一番奥の階段を使って二階に上がった。そちらには人がそれなりにいた。職員室や生徒指導室のあるあたりだった。
男子は音をたてないように上履きに気を使って歩いた。笑い声が漏れそうだったので我慢すると、我ながら意地の悪い顔になっているなと窓を見て思った。
夏子が職員室の奥側の扉の前を通り過ぎた。そのあたりで、男子生徒は夏子に一気に距離を詰めた。もしあの死ぬほど機嫌の悪そうな顔を見たら、やめていたかもしれない。でも男子生徒は背中しか見ていなかった。
夏子はこんども男子生徒が近づいてくる直前に彼の存在に気づいたが、今度は避けられなかった。左側に避けようとすると、そこに大荷物を抱えた眼鏡の教員がいるのを見て、いっしゅん動くのを躊躇してしまった。それで男子生徒は夏子の頭の右側に触れて、ぐしゃぐしゃと乾く前の墨汁のようにつややかな黒い髪をかき乱した。夏子は押し出される形で教員にぶつかって転んでしまった。教員が軽い悲鳴をあげた。ばさばさばさと持っていた教科書の山が落ち、反対側になったりして散乱してしまった。
「ああ、もう」教員が言って教科書を拾い集めた。夏子は両の膝を床につけたまま俯いていた。「お前が悪いんだ。お前がやったんだ」
男子生徒が囃し立てた。彼は夏子から70㎝ほど離れた位置に立っていた。夏子が立って、襲い掛かってくるようならすぐ逃げられるようにだ。夏子の背後からも彼の仲間が囃し立てる声がした。
「あなたたちなにやってるの」教員がやっと状況に気づいたのか、男子生徒とその仲間たちを叱責した。男子生徒が一瞬だけ教員の方に目をそらした。
「僕じゃありません。そこの子がぶつかったんです」
「お前がぶつかったんだ」
「謝れよ」
男子生徒は再び夏子のほうに目を戻した。彼女のつむじが見えた。男子生徒は夏子が泣き出しそうなのだと思った。だとすると愉快だった。からかってやろうと声を出そうとしたが、これはうまくいかなかった。
夏子は落ちていた教科書の一つを手に取り、丸めると、それで男子生徒の脛を突こうとした。男子生徒は愉悦を滲ませた声とともにこれを後ろにジャンプして避けた。これがいけなかった。これが意識の差だった。
夏子はこのとき、教科書を左手で持っていた。にもかかわらず、重心にしたのは右足ではなく、左足だった。いうまでもなく、座っている状態で、左側に障害物のある今は、教科書を左手に持っているならば右足で踏み込むのが正しい。右足でふんばって体を前に出す方が、体をひねることができる分遠い距離を攻撃でき、バランスもとりやすくより素早い動作ができるからだ。つまり右手の教科書はフェイクだった。夏子は自分が教科書でつくために全身を使ったと見せかけて、じっさいには腕だけ振るっていた。彼が教科書を避けたとき、夏子から見て彼は右斜めから正面に移動していた。夏子の正面に立ってしまっていたのだ。
夏子は素早く左足に力をこめ、フェンシングのような動きで男子生徒の懐に入り込むと、襟首をつかんで持ち上げた。男子生徒はバランスを崩していたので、夏子の勢いに負け、窓際まで追い詰められた。なにすんだ、と言おうとしたその口めがけ、夏子は振り乱された髪を勢いよく振り下ろした。頭蓋骨よりも歯よりもとうぜん唇と口の中の方が柔らかかった。
「ううぅ~!」
男子生徒が口元を抑えて窓沿いに半歩下がった。口元を抑えた手の隙間から血があふれだしていた。「うぁぁぁ」じっさいには血と唾液だったが、見ているものにはすべて血に見えた。「うぅぅぅ……」呻く男子生徒のこめかみへ夏子は右の拳を叩きつけた。男子生徒はその場に崩れ落ちた。
男子生徒の呻きはいつのまにか泣き声に変わっていた。うめき声に増進させられたのか、限界に達していたのかはわからなかったが、その泣き声には恥も外聞もなく、ただ痛みに対するどうしようもない無力さがあらわれていた。
夏子はまだやめようとしなかった。膝裏に上から蹴りを入れようとして、教員に止められた。「やめろ!」夏子は叫んだ。「離せよ!」夏子は教員の腕の中で暴れた。完全に床へ寝ころぶ男子生徒のすねや足を蹴り、教員の腕を引きはがそうともがいた。
男子生徒の仲間たちは我に返り、夏子に飛びついた。夏子の身体を教員の腕におさめたまま、やたらめったら殴る蹴るを繰り返し、やられた仲間の敵討ちのようなことを言った。
「やめなさい!」教員は夏子を腕の中に持ったまま体の向きを変えて彼女をその暴力から逃がそうとした。職員室から異常を感じた教員たちが次々と飛び出してきて、生徒たちを抑え込んだ。夏子が自分を抑えている教員の手を引っ掻いた。金切り声を上げて自分を殴った生徒たちに襲い掛かった。
あとで聞いた話になるが、このときの職員室前は、暴力映画顔負けの世界だったらしい。この中学に昔からいる狸のような恰幅の歴史教師が、「昔の、松田優作がでてた映画知ってます? 暴力教室っていうそのままのタイトル。あれみたいでしたよ」と言って説明してくれた。
幸いにして、大きなけがを負ったものはいなかった。頭突きを喰らった、ことの発端となった男子生徒も、派手な流血こそしていたものの、傷口を何針か縫うだけであとはぴんぴんしていた。夏子は指の骨を骨折していた。あとは擦り傷や痣が何日間か残っただけだった。
後処理もこうした事件にしては穏便に済まされた。もともと原因を作ったのが向こうであるうえ、評判の悪い生徒だったので、むしろ彼のほうに謹慎処分が下されそうなぐらいだった。クラスが違ったので、別教室で授業を受けさせるのもあまり効果はなく、それぞれの親御が話し合った結果、互いに謝ればいいということになった。
ただここでまたひと悶着あったらしい。
夏子も男子生徒も謝るのは嫌だと言ったのだ。男子生徒は自分は悪くない、謝られるならともかく謝る理由なんてないと主張した。夏子は主張すらせずただ謝らないと言った。
教員たちはこれ以上事態が混迷を極めるのを避けたいと考えなぜ謝りたくないのかとしつこく問いただした。夏子は最後の最後まで口を閉ざしていたが、まわりがあんまりにもうるさいので、ぼそっと不機嫌そうに、「謝ってまで直したいものが私にはない」と言ったという。
教師はそれを、同席していた担任の綾小路先生から聞いた。彼は疲れた顔をしていた。金曜日の飲み会で、教師は綾小路先生と机の隅で一緒になって話していた。
お疲れ様です、とか大変だったでしょう、とか教師は月並みなことしか言えなかった。綾小路先生は梅チューハイを飲みながら、頷いたりしていたが、ふと、零すように、「でも、かわいそうだと思います」と言った。
居酒屋の喧騒の中で、それはひどく不自然だった。雨の降る日の池がいくつもの丸い波をつくりながら、なぜか一か所だけ穏やかでいるようだった。
「怖がられて、からかわれて、暴力をふるって、それでみんなの輪にはいれないことがですか?」教師は訊いた。
綾小路先生は首を振った。
「暴力をふるえなくなることがです」綾小路先生は言った。「あの子は中学生です。小学生なら、まだ女子と男子の体格差もない。でも中学生になれば、そうもいかなくなる。どうしても成長の差はでてくるものです。じっさい、あの子はすでに戦い方を変えています。それでもあの子はもうすぐ勝てなくなる。暴力しかないあの子から、暴力が取り上げられることが宿命づけられている。それがかわいそうでならないのです」
教師はそれが分かる気がした。教師は綾小路先生の背中をさすりながら、あの美しい黒い髪や、大人びた褐色の横顔を頭に浮かべた。あの子は自分の破滅が近いことを理解しているのだろうか。
それでも抑えられない衝動があるんだろう。その気持ちはわかってやれないこともない。
教師はことの顛末をきちんとは知らなかった。夏子と男子生徒とがどのようなやりとりをして互いに矛を収めたのか知らなかった。ただいつの間にか、夏子も彼らも元の場所に残っていた。それは決して元の関係などではなかったけれども。
2
「昔、似ている子がいたね。私とあなたが同じ高校に通っていた時」
教師の友人が言った。
教師は肯定して、ミルクティーを一口飲んだ。
あの少しあと、教師は夏枯の駅前で友人と待ち合わせた。
彼女は中高と同じ学校に通っていた、何年来かの知り合いだった。高校時代、それほど仲が良かったわけでもなく、また社会人になってからも連絡を取り合っていたわけではない。むしろ教師としては彼女は、北関東に来てからの付き合いと言ったほうがずっとしっくりくる。彼女は育ちがよく、こっちではお花の先生をやっていた。
つり合いがとれているわけではない。明確に優劣がつけられていると言っていいし、それほど好きでもない。しかしそれでも、教師にとって彼女はこちらでの唯一の友人だった。
駅前で会って、美術館に行き、軽食をした。高校生の修学旅行のような道程だった。教師も彼女も仕事に本を使うことがあったので、本屋にも寄った。夏枯のアーケード街には古本屋がたくさんあった。いくつか回ったが結局欲しいものは見つからず、駅前に戻って紀伊国屋で適当なものを見繕って、改札隣の喫茶店に二人で入った。
会ってすぐ近況報告はしあったので、なにか話すことがあるわけではなかった。毎度そうだった。教師はミルクティーとベーグルを頼み、友人はコーヒーを頼んだ。それも待っている間、教師は外の人込みを意味もなく見つめていた。友人はメモ帳を開いてなにかを書き込んでいた。
この時間を不毛だというのであれば、反論する気はなかった。関係自体が不毛だったから。こうして二人で無意味に時間を費やすのは、あるのかどうかわからない友情をあると錯覚するためだった。
教師はそれを自覚するのが嫌だった。だから教師は夏子の話をした。友人はそれをはじめ話半分に聞いていた。教師も感情をこめないように滔々と話した。川瀬夏子という少女が、どれだけ正気なのかという点について。
「そんな子がまだいるんだね……」
友人は教師の話を聞き終えると、なぜだか悲し気にそう零した。
「私たちが高校生だったころ、学校はすごく荒れてた。世間もひどい事件ばかりだったのを覚えてる。コンクリートに埋められた女子高生とか、名古屋のカップルが殺された事件だとか。うちの学校にもシンナー吸って頭のイカれたやつがいた。肩がぶつかっただけで相手を病院送りにするようなやつも。一人で世界中の人間を殺してやるって息巻いてるような子も」
教師はハッとした。今の今まで忘れていた。
それとも忘れようとしていたのか。
夏子によく似た人間を教師は知っている。
「昔、似ている子がいたね。私とあなたが同じ高校に通っていた時」
教師は肯定して、運ばれてきたミルクティーを一口飲んだ。
「狛江渚。今どこでなにをしてるのかは知らないけど、知りたいとも思わないけど、昔そんな子がいたよね」
狛江渚のことはもちろん憶えている。高校三年間を通して、教師と親交があったし、校内の有名人だった。
友人が話し出した。
「ちょっと頭の弱い子だった。なにかっていうとすぐ手が出て、じっと座ってることもできなかった。勉強がからっきしで、教師からも生徒からもバカにされてた。
いいとこもあったかな。一回心を許したらとことん懐いてくれるの。かわいいって思えることもあった。きゃんきゃん鳴いてすぐうんざりするんだけど。でもまあ、悪い子ではなかったよね。
だから不幸もいいとこ。あの子に起こったことは。自業自得だって言ってた人もいたけど、そうじゃないって言ってる人もいた。私は……半々。
運動もすごくできたってわけじゃない。けどでも、喧嘩は強かった。なんでだと思う? まあ、あのころでさえ人を思い切り殴れる人はそんなにいなかったってこと。そういうことだろうね。あの子は私やあなたを守るって息巻いてた。電車で痴漢するようなやつの手首をひねり上げて。
私たちは知らないふりをしてた。知ってて何も言わなかった。あの子が、いやがらせを受けてるってこと。いやがらせのたびにあの子がキレて、誰かを殴ってたってこと。
三年の時、あの子は不良どもに目をつけられた。あの子は少しずんぐりとした見た目だったけど、そこがいいって。そう言ってた気がする。どうだったかな。
あの子は学校の倉庫に連れ込まれて、抵抗して、抵抗して、抵抗して、抵抗して、抵抗して、抵抗して…………」
友人は言葉を切った。
「なにがあったかは、ご想像通り」
友人は言葉をつづけた。
「あの後はもうほんとひどいもんで、あの子は目も当てられない姿になってた。たましいがぶっ壊れてるのが一目見ればわかった。私もあなたも楽しいことを考えなくちゃいけなかった。映画館でシザーハンズを見に行ったの憶えてるでしょう? あれはすごくいい映画だった。シザーハンズはキモかったけど、ウィノナ・ライダーがイケてた。憧れたな。髪型を真似して色もブロンドに染めたもの」
「想像する必要なんてなかった」
「それはその通り」
違う。あなたの思っている意味じゃなくて。
教師はそうは言わなかった。教師には想像する必要などこれっぽっちもなかった。そんなことをしなくても、教師はその光景を目に焼きつけられていた。
体育館裏の桜の木のしたで渚が引っ張られているのを見た。渚は抵抗して、引っ張っている男は地面をずりずりと言わせて渚を引きずっていた。体育倉庫はあのとき体育館の外にあって、教師はたまたまそのなかが見える位置にいた。
「なにを買ったの? 本」
教師は友人に聞いた。
友人は教師にブックカバーを外して表紙を見せた。村上春樹の新作だった。
「海辺のカフカ? どんな話?」
「パンとナイフとランプを持って旅立つ話?」
「そうなの?」
「ううん。知らない。まだ3ページ目だから」
友人は本を閉じた。
目を伏せ、少し考え事をしているようだった。どうしたの、と訊くと、失態を覆い隠すように素早く、なんでもない、と返した。
「そっちは? ニュートン? ネイチャー? 熱心だよね、昔から。教師になったって聞いたときは驚いたもの。てっきり科学者の道に進むんだと思ってたから」
「まあ思うようにはいかないってことかも」
教師は友人に科学雑誌の表紙を見せた。その号には世界の構造についての論説がのっていた。その論説によれば、世界には一元的な世界とそうでない世界の二種類があるとのことだった。一元的な世界というのは、宇宙そのものであり、周りにあるものはすべて幻覚であり、結局のところひとつのもので、私たちは宇宙の
気を紛らわせるために教師はそれについて考えた。物事に正しいことなどない。その正しさは十人十色だから。そう言ってやれればいい。そう川瀬夏子に言ってやれて、彼女がその世界で生きられればいいと思う。でも同時に、そうなれば彼女は影の獣に食べられてしまうだろう。
教師にはあの子が、一匹の狼に見えた。群れを好まず一人で行動する狼。いずれ淘汰され、いなくなってしまう獣。
二人は夜のアーケード街を歩いていてそれぞれ帰途につく。その時、車道を大型トラックが通ったのでよく聞こえなかったのか、友人は耳に手をあてて「えー?」と声を出した。これもまた車に邪魔をされてよく聞き取れなかった。教師が苦笑いして同じ言葉を繰り返そうとしたそのとき、耳元でささやく声がした。
「もし、そこのあなた。もし……」
「え?」
教師は周囲を見渡した。夜になってアーケード街はほとんどの店が閉まっていた。寂れた人のいない通りを車ばかりがびゅんびゅん通り過ぎて行って、置いていかれているようだった。
「ちょっと、そこのあなた」
今度は耳元ではっきりと聞こえた。
それは中華屋と中古ゲーム屋に挟まれた裏路地にあった。
パイプ椅子と古いビーチテーブルの前に座った、アラビア風のベールをかぶった女がいて、こちらに向かって手招きしていた。
「あなたですよ」
教師が自分のことを指さすと、易者は肯定した。
「あなたによくないものが近づいています。よかったらわたしに見てもらっていきませんか?」
「え? いきなりそんなこと言われても……」
教師はもともと、占星術や風水と言ったものをあまり信用していなかった。なので易者がなにを言おうと、これを受けるつもりはなかった。教師は「私はいい」と伝えようとして手を振った――その手を易者に捕まえられた。
「あれ?」
教師はいつの間にか易者の前に座って、易者に掌を見せていた。
「お手を拝借……と言っても、わたしは手相占い師ではないのですが」
言いながら易者は教師から手を離した。
自分の手が重力に従って机に落ちそうになるのを、教師は力を入れて止めた。
「ちょ、ちょっと。私、占いをしてもらうなんて言ってない。それにすぐそこに友達を待たせてる。そんな時間ないんですよ」
「それは大丈夫です。時間は相対的なので」占い師は構わず地面に置いていたカバンから水の入った器を取り出した。
「こんどこそお手を拝借……。この水に浸してくださる?」
器はガラス製で、底に安っちい花柄のテーブルクロスが見えた。教師は言われるがままに手を水に浸した。七月のしけった夕方とはいえ、水に浸すと汗の引くおもいがした。しばらく……まだまだ……というので、教師はそのまま水の中に手を入れていた。易者は水の表面をじっと見ていた。ちゃんと洗えていなかったのか、今日過ごしているうちに剥がれて来たのか、水に垢が浮いてきていた。
数十秒ほどすると、易者がもういいですよと言った。教師が手を振って水気を飛ばしていると、易者は鞄から白いハンカチをとりだして教師に渡してきた。
「あ、どうも」
教師がハンカチで水を拭っていると、視界の端で易者がおかしなことをしだした。垢の浮いた水をコップに移すと、口をつけてごくごくと飲み始めたのである。
教師はぞっとして、全身が総毛だつのを感じた。そのすきまから夜風が吹き込み、全身から体温を奪われたかのように、脳幹が冷え、泡立ち、神経質な部分に触れ、かゆみを引き起こさせた。
呆気にとられた教師をしり目に、易者はぐいぐい水を飲み、一杯分を飲み干すとそれがさも当たり前のことであったかのように右上を向き、思案顔で頷いた。
「だいたいわかりました」
「な、なにが……?」
「あなたの過去の宇宙についてです。あなたは学校のようなところで働いてますね。それで、なにか不満を感じてらっしゃる。不景気、税金、家族、友人、恋人……悩みはいろいろありますが、大元は学校にあるように思われます」
教師は守るようにして水を入れていた手を胸に抱き、椅子を少し引いて易者を窺った。
「わたしはあなたの過去の宇宙を知っています。ですが
自分の常識や感覚に合わせるのであれば、ここで教師は帰るはずだった。こんなところでやっているにはやっているなりの理由があるのだと納得して、引っかかった自分を笑うぐらいできるはずだった。
にもかかわらず教師は帰らなかった。それは、またしても気づかないうちに座っていたわけではない。易者があまりに説得的な態度だったために、騙されてしまったのだ。
そう、騙されたという感覚を教師は自覚していた。抗いになるほどのものではなかったが、教師は易者を心底では少しも信じていなかった。
易者もそれに気づいていた。易者は口元を隠しておかしそうにした。
「うふふ。いいんですよ別に。呪いはいつも一方通行のものです。怪しげな薬じゃあるまいし、気持ちの問題なんかではありゃしません。あなたはあなたのことを教えてくれればよろしい」
教師は自分のことを話していた。自分でも驚くほどスムーズに、かつ臆病になりながら、教師自身の心底が見えないように。
易者はそれをじっと聞いていた。時折合の手を入れる以外は口を開かなかった。相変わらず、真面目なのかそうでないのかよくわからない態度で、一言一句聞き逃さないように努めているのが分かった。
――この人、こんな態度なのにやけに聞き上手だな。
それがプロというものなのか? 教師にはわからなかった。
やがてすべて話し終えると、教師が話を打ち切る言葉を発する前に、易者は「なるほど」と言った。「あなたの悩みはわかりました。ですが悩みというのは曖昧なもの、その消失点はたえずうつろいゆくものです。あなたがわたしに話したことで、わたしがあたなに話したことで、悩みの大元を含有するよう要素から、悩みがすっぽりと抜け落ちてしまうかもしれません。ですのでわたしから具体的な指南はできないのですが」
易者は言った。
「それを総合してあなたがやることは」易者は言った。
「ゼムに気を付けることですね」
「ゼム?」
THEM?
教師は易者の姿をとらえ損ねそうになった。
易者は続けて言った。
「ゼムはあなたの幸せを奪う悪い存在です。ゼムを見たら、もしくはゼムを見たと思ったら、すぐそこから逃げることをお勧めします」
「ゼム?」と教師はもう一度易者に言った。困惑に眉根を顰めながら。「それは…‥つまりそれは、私のストレスになるものや嫌いなものを見たら逃げてもいい、そういうこと? 仕事からも?」
「いいえぇ」易者が口元に手を添えて言った。「ゼムはなにかの具現化ではありません。まして象徴などでは全く……」易者は笑みを押し殺した。「ええ、はい。ゼムはゼムです。それ以上でもなければ、それ以下でもない」
「それじゃあ」教師は戸惑いを隠さず言った。「ゼムは一体なんなんですか」
易者は急に半月型になっていた口をきゅっと一文字に結び、ベールの下からでもわかるほどはっきりと、教師の目を見据えた。
「それはね。言えないんですよ。ゼムに見つかってしまう」
「信じろっていうんですか、そんな話。占ってくれるというからここにいるんです。 そうじゃないなら帰らせてもらいます」
「信じていないなら信じていないと言えばいいんですよ。でも信じざるを得ない時がくるんです。ゼムは来ますよ。遠からずあなたの前に。そして、みんなの前にも」
易者は教師に笑いかけた。教師は、なぜだか椅子から立ち上がれなかった。易者から目を離すこともできなかった。
「ゼムは一体何なんですか」
「教えられません」
「ゼムに対して私は何をすればいいんですか」
「ただ逃げればいい」
「ゼムは一体、何を起こすんですか」
「とても悪いこと」
「なぜ私なんですか」
この質問をした後、易者は初めて少しだけ言葉に詰まった。それはあいまいだからというだけの理由ではなかった。易者は慎重に言葉を選んでいた。
「ううん、そうですね。それは、世界精神によるところです。それは仮定の中でしか理解されません。それをちゃんと理解することは、神が動かせない石をつくるはなしと同じ、あなたのすべてを崩壊へと導きます。それが自浄作用というものだからです。ここでこう話している、それだけでも世界精神はこちらへ過度に侵入していると言ってもいいかもしれません。だからただ言えることは、ゼムからは逃げる、という、それだけのことです」
易者がそう言い、教師を心配そうな目で見る。
すると、空間がぐにゃりと曲がって、自分がどこにいるのだかわからなくなった。それでも易者だけは来た時と同じ姿を保っていた。”不思議じゃないですか”教師は音や言語がわからなくなっていく自分を感じた。それは心中で声を潜めることに似ていた。”なぜ、あなたは雑踏の中でわたしの声をみわけたんでしょうね””なぜ、あなたは私の話を最後まで聞いたんでしょうね””仮定を促すというのであれば、この辺りが限界です。それではさようなら”
友人に声をかけられ、教師は辺りを見回した。教師はまだ、夏枯の汚いアーケード街に立っていた。路地裏には、中華屋の裏口と、室外機があるだけだった。ゴミ袋が三つ四つ積まれ、その間をゴキブリが通っていた。易者の影は跡形もなくなっていた。教師は友人にここになにかなかったかとは聞かなかった。なにもなかったことはあきらかだったからだ。教師は易者の言ったことを考えてみた。
――でもこれもたぶん、意味はない。納得という以上の意味はおそらく出てこない。そしてそれを知っている私は、納得できないのだ。
教師はしかしそれでも考えそうになった。しばらくのあいだ、ふとしたときにゼムがいるのではという気分になった。それはさながらゴキブリを殺したあとのようだった。ここにはいない、しかしどこかにいることを確信している。
とはいえしかし、教師は忙しかった。非常勤で、常勤の教師に比べれば部活などがない分まだやること少ないとはいえ、それでも期末の前になると、期末試験の準備に授業の遅れた分進みすぎた分を帳尻合わせしなければならないので、自然に余計なことを考える時間は少なくなっていった。そして七月も半ばになり、学校が夏休みに入ろうというころ、決定的な出来事が起きた。
猫が殺されたのだ。
3
猫が殺されたのは、のちのちの新聞の見解によれば、四月半ばから七月、つまり今月にかけてのことだった。
猫たちは森林のアカマツのなかでもひときわ大きい一本の根元に、取り込んだ洗濯物のように無造作に積まれていた。アカマツはフェンスからはやや奥まった斜面に生えていたので、ふつうには見つけることはできなかった。
猫は全部で十三匹いた。すべてが毛皮を逆立たせていて、すべてが背骨から爆発したように体が裏返っていた。暗いうえに損壊が激しかったので、はじめそれが猫であることもわからなかった。しかし、一番上に積まれた死骸が、目玉を飛び出させながらも、特徴的な耳の形がまだ残っていたので、それが猫であるとわかった。
猫殺しは、一つの説によれば、監視者を殺すことを意味している。猫はひそやかにこちらを見ている。人が来れば隠れ、死ぬときはどこかへふらりと姿を消す。自意識過剰で人の目を気にする手合いの人間は、じっさいにこちらを見ているわけではない人の目に対し、真実こちらを窺う目として、猫にその役割を転嫁するのである。猫を殺すものは秘密を持っている。その秘密は、猫を殺しさえすれば内側にとどめておくことができるのである。
殺された猫は全部で十三匹確認された。積み上げられた死体は、下へ行くほど腐敗が進んでおり、判別が難しかったが、頭蓋骨の数で十三匹だとわかった。
彼らの死因については、電撃を流されたということだけわかった。猫は内側から破裂していた。骨や肉に焼き目のようなものがあり、外側にはあまり見られなかったので、電撃で殺したのだろうというところで警察の見解は一致した。
不思議なのは、彼らが呼吸麻痺や心室細動で死んだわけではないことだった。電撃が過度に脳幹や心臓を刺激して、その動きを止めさせたのではなかった。その電撃は一瞬で猫の身体を沸騰させ、爆発させたのだった。それほどの電撃は、市販のスタンガンではどれだけ改造しても不可能だった。たとえ車のバッテリーを直接つないだとしても実現しないだろう。これは一種の不可能犯罪だった。
だが、警察にとっても、地域住民にとっても、その点はそれほどの問題ではなかった。警察からしてみれば、手段が何であれ捕まえて訊くのが一番手っ取り早く正確だということが分かっていたし、地域住民からしてみても、手段などというのは犯人が捕まらない一因に過ぎず、本当に重要なのはネコ殺しがいるというその事実だったのだ。ただでさえ世間はまだ、数年前の神戸の連続殺人を引きずっていたし、同じ北関東では栃木のリンチ殺人からまだ数か月しか経っていなかったのだから。
全校集会の前に、教員だけで集会が行われた。
”——ですから、生徒たちに不安を与えないように、細心の注意を払って——”校長の話で、教師たちは絶対に猫殺しの話には触れず、聞かれてもはぐらかすようにということになった。
”幸いにして、学校はもうすぐ夏期休業にはいります。よって明日の全校集会を終業式替わりとし、それ以降は登校しないようにできます。”
”夏期講習はどうしますか?”
”一般の補習については、中止します。榊原先生、内藤先生、申し訳ありません”
榊原先生がとんでもない、とつぶやくように早口で言い、内藤先生も頭を下げた。
”ただ、成績優秀者向けの高校対策の補習と、成績が不振の生徒に対する補習は、他行の校舎を借りる形でやろうと考えています。候補としては――”
その後、時間をかけて教師たちによって日程の調整がなされ、夏期講習の一部は開催する運びとなった。教師もまた、理科の補習授業を受け持つことになり、対象生徒の名前が挙げられた紙を渡された。いつか自分に色素のことをしつこく聞いてきた生徒の名前もあった。
”不安にならないようにって、言ったってねえ”
と、隣の席の先生が言った。特にどこかを向いて話していたわけではないが、自分に向けてだとわかった。
”もうみんな不安だと思うんですけどね。気を付けたって。ねえ、そう思いませんか?”
”そうかもしれませんね”
”逆に図太いやつはずっと図太いですよ。つまり、なんだ、僕たちは犯人を捜すべきなんじゃないかってことなんですよ。こんな対症療法的な手段でなく、ね”
教師には彼がどこまで本気かはわからなかった。実は本当にそう言っているのかもしれないし、すべて冗談なのかもしれなかった。ただ一つ言えることは、その意見自体はわからないでもない、ということだった。こんな風に手をこまねいて、話さないで蓋をしてしまうのが正解というのは、ひどく不自然に思えてならないだろうから。
けれどもこれは、そこのところも含めた冗談であるには違いなく、彼も本当に犯人探しなどやる気はない。”と、いうのは冗談ですけれどね。でも相澤先生、誰が犯人かなんとなく見当は付きませんか?”
それは確かにそうだ。そうだ……そういってしまうことも、おそらく問題なのかもしれない。教師は考えもしなかったが、犯人らしい人間というのがいるのは、確かに事実だった。
校長はあえて言わなかったが、猫殺しがこの学校の人間であることはほぼ間違いない。
なぜなら裏山は普通に上るには急斜面が多く、学校側を除けば、真反対にある小さな祠への道以外、入り口のないフェンスでぐるりと囲まれている。祠の道は、山に入ってすぐ終わり、そこから猫の死骸まで辿り着くには、多大な労力がいる。それに、そこまで行くのに、もっといい場所はいくらでもあるのだ。反対に校舎側の入り口は、南京錠がつけられているが、男子生徒二人が簡単に入れたように、すでに壊れていて、有名無実と化している。フェンス際は焼却炉と避難口ぐらいしかないところだが、校門からも裏門からも少し遠いところにあるので、十数回外の人間が通うのは無理という話なのだ。
なので猫殺しは学校にいた。それに候補もいた。そういうことは、校長も理解していただろう。翌日の全校集会では、「警察の方もいま全力で捜査しています。ご心配はいりません」という話をした後、「くれぐれも犯人探しなどしないよう。誰がやったとか、だれだれさんがあやしいだとか、そういう話もいけない」と付け加えたほどだった。
候補の話はそれでも密やかに行われた。全校集会の中でさえ、生徒たちはひそひそと互いに話し合っていた。三年の不良――彼らはこの集会には現れなかった。もっとも、両親が外出させないために全校集会を欠席した生徒もいたのだが。不良たち、奇妙な言動をする子、特に川瀬夏子の名前があちこちであがるのを教師は聞いた。
とうの夏子は、生徒たちのちょうど真ん中あたりにいた。周りより一回り背が高く、妙に座る姿勢がよかった。きょろきょろと辺りを見回していたが、特定の誰かに目を合わせることはない。気にしているのかいないのか、その身振りからはいまいちわからない。
とはいえ、だからといって、夏子が疑われているとはいえ、彼女が糾弾されるなどという事態にはならず、全校集会のあと、警察が裏山のフェンスの方へ歩いていくのを横目に、全員が帰宅した。
”川瀬夏子なんじゃないですかね”
教師の隣の席の先生は、帰り道を歩きながらそう教師に話した。
”私はそう思うんですよ。だって彼女、よく教室から消えるでしょう。お弁当を持って、あのフェンスのあたりで食べてることもよくあるらしいですよ。それに不良っていうのは、確かに猫を殺したっておかしくないような連中もいますけどね。あんな妙な殺し方はしないですよ。あれは……そう、魔術的。魔術的な殺し方じゃないですか”
”じゃあ川瀬夏子は魔法使いですかって? いや、僕だってそんなことをいうつもりはありません。ただ、そういうものに興味がありそうなのは、どちらかと言えば彼女の方じゃありませんか?”
”わかりません”と教師はいった。”でも尋常でないことが起きたなら、あとはもうなんだってありえるんじゃないんですか”
教師はそれを本当に思っていったわけじゃなかった。ただこの話を打ち切りたいだけだった。犯人が誰かは教師にとって気にすべきことじゃなかった。問題はこれから起こることなのだから。
4
七月三十日になった。この日はこの時期としてもあり得ないほど日が照っていて、八月の真っ盛りとそう変わらないという話だった。路上から蒸発した水によってそこらじゅうに靄がかかり、まるで悪夢を歩くようだった。その日教師は、補習授業のために、朝早くから隣町の高校へ足を運んでいた。中学校周辺はどうにも安心して授業を受けてもらえる環境がつくれそうにないので、どこかなるべく近く安心できそうなところで授業ができるよう探した結果だった。
――私の生徒にはもったいない気もするけれど
その学校は当時としては最新設備を投入した、有名私立高校だった。床は全面リノリウムで、廊下にはモニタが張り出してあった。モニタを見れば、いつでも誰かが特別授業をやっているのがわかった。下駄箱から正面に、かつてミッションスクールだった名残りのマリア像が置かれていた。裏にチェーンのかかった階段があったので、どこに続いているのか聞いてみると、時計塔につながっているということだった。
明らかにつりあってないな、というのは、プラスティックでつくられた、椅子と机が一緒になった席を見ただけでそう思った。生徒たちはみんな品があって、廊下を歩いているだけで声をかけられ、励ましの言葉までもらってしまった。受け持ちの生徒たちは、物珍しさにはしゃいでるぐらいの感じで、席をわざわざしゃがんで確かめたりしていた。リノリウムの床が珍しいのか、廊下を走り回り、悪戯しようとするのをとめなければならなかった。
惨めな気分になって、教師はもしかすると、自分はこの高校が嫌いかもしれない、と考えた。こんなもの自分が働いてる立場じゃなければ意味がないんだ。
教師の授業は、成績が不振だったもの向けで、生徒は十五人ほどだった。自分が教えたことのない生徒も混じっていたが、進行は同じぐらいだったのでそこは問題なかった。問題は全員が成績不振であることぐらいだった。真面目に聞いているのは三分の一もいない。あとは全員、私語をしたりノートになにか書いていたり寝ていたりするだけだ。
わざわざ一番前に座って、目の前でどうどうと私語をする生徒がいた。
彼らは都市伝説やなにかについてのトンデモ系雑誌を片手に持って、猫殺しの話をしていた。教師もその号を持っていた。猫殺しの殺しの手段について書いていた。
『どうやって殺すにせよ、それが電撃によってであることは明らかだ。体は内部 から破裂している。体内に爆弾をいれて爆破したという説は、そこに火薬の痕跡が見られなかったことからあり得ないと推測される。また中で頑丈な風船を膨らませたというのも、やけどの跡などから否定される。』
『ではどうやって殺したのかとすれば、やはり電撃なのである。強烈な電気は熱を生み、体内の水分を蒸発させる。コンクリートの柱が熱せられると、なかの気泡が膨らんで破裂するのと同じ原理だ。しかし、コンクリートが”破裂”すると言っているように、それは爆発ではない。特にあの猫の死体は背中を垂直に爆裂している。この現象は、そんじょそこらの電撃では不可能だ。雷よりも強い威力の電気を数秒間継続して流す必要がある。』
『そんなことがどうやって可能だろうか? 筆者はじっさいにその犯人が出入りしたという裏山のフェンスを遠くから捉えて見たが、フェンスの入り口は人一人分の大きさしかない。仮に猫を一瞬で爆裂させられるほどの電気を発生させられるとしても、それはかなりのサイズになるはずだ。だがそのような装置を発見したという情報はない。裏山には電柱どころか電波塔の一本もないから、それを利用することもできない。アカマツに血が飛び散っていることから、外から死体を持ってきた可能性も薄い。』
『あり得るとすれば、電撃を発生させた装置はまだ山の中にあり、それは隠されている。もう一つは、犯人は毎回装置を持ち帰っている。後者の説を採用するとすると、一つの犯人像が浮かび上がる。』
その後その記事のライターは犯人について、なんらかの電気装置を開発している業者に勤める人物なのではとし、あのフェンスの入り口を通せるほど小型の電力装置を発明し、その試運転をしているのではないかと書いていた。他にも何人かのライターがこれに続く形でいくつかの説を出していたが、やれ美術学部の学生がふざけてやっただとか、地元の不良がトラックのバッテリーにつないだだとか、くだらないことばかり書いてあったのを憶えている。
興味深いことも書いてあった。
その雑誌は動機の考察も行っていて、こちらもいろいろな記者が思い思いの考察をしていた。そのほとんどがやはり他愛もない、誰でも想像のつくようなことばかりだったが、こちらのほうが教師の目を引いた。特に一つ、最後の一つの説が。
『猫殺しは監視者を殺すことを意味している。猫はひそやかにこちらを見ている。人が来れば隠れ、死ぬときはどこかへふらりと姿を消す。自意識過剰で人の目を気にする手合いの人間は、じっさいにこちらを見ているわけではない人の目に対し、真実こちらを窺う目として、猫にその役割を転嫁するのである。猫を殺すものは秘密を持っている。その秘密は、猫を殺しさえすれば内側にとどめておくことができるのである。あれは猫の廃棄場であると同時に、秘密の墓場なのだ。』
「存在しない誰かの目を猫に転嫁する……ね」
しかし生徒たちはその説……というより、動機自体にさほどの興味がないのか、そのあたりのことよりも、猫を殺した方法について話していた。
話は飛び飛びで、なぜなら教師自身ちゃんと聞こうとしていたわけではないからだが、生徒たちは、おおむね記事の中の説を反復することで会話していた。電気を生み出す装置はどうやってあそこまで運んだのか、電気はどうやって作られたのか、フェンスを越えて運ぶことは可能か、そもそも電撃で本当に猫を爆裂させられるのか。
「科学的にあり得ない」と一人の生徒が言ったのが、教師に強い印象を与えた。科学的、に? 科学的に、だって? 教師はその発言になぜだかひどくいらだった。科学なんて、どうせほとんど興味ないくせに、理科の補習に来ているくせに。こういうときにだけ将来科学者になりたいんですみたいな顔して話しているのだ。教師は今、あの日理科室で紙を投げ、ノートを引きちぎった夏子も気持ちがよくわかる気がした。自分の居場所はここじゃないという、強烈な違和感。狭い箱に押し込められる窮屈さ。肥溜めに漬かる肌の痛痒。
それはシンパシーだけの問題ではなかった。高校の校門に、肩掛けの鞄を持った私服の夏子が、実際に立っていた。
夏子は普段はそのまま流している黒い髪を、後ろで一まとめにしていた。流石に少し幼顔ではあるものの、校門を出入りする高校生たちのなかにあって、違和感がない存在。夏子はローリングストーンズのTシャツに、ミント色の夏用パーカーを羽織っていた。ダボッとしたベージュのカーゴパンツを履いていても、足が長さがわかった。
でも、なんというか、その……。
――びっくりするぐらい、中学生っぽいな……。
とはいっても、本当に中学生なのだが、しかし、好きなものだけを着ているような、着られているようなあの感じは、同級生の中にあって大人びたあの少女の風貌としては、特異なほど中学生だった。
――あの子、本当に中学生なんだな……。
教師は漠然とそう考えた。教師が教科書の説明をしているうちに、夏子はこちらに向かって歩き、校舎の死角に入ってしまった。教師は微生物の説明をどうやってするか考えながら、自分の中にあるもやの一部が晴れていくような感覚に襲われた。が、それはふと入ってきた強い日光によって、元に戻されてしまった。それでも教師の中にはその記憶が残った。
――それにしても、なぜあの子はあそこにいたのかしらん?
教師の記憶によれば、川瀬夏子は特に補習を受けなければいけないような点数は取っていなかった。それどころか、英語や国語と言った語学系は学年でも屈指の成績で、彼女の担任や担当教員が驚いていたのを憶えている。ならよりうえのクラスの授業を受けに来たのだろうか。午後からの講習はあのときまだだったし、中学校は夏期講習中は私服での通学を認めている。
いや、違うかな。教師は考えた。もしそうなら、話題に出ているのではないかな。
教師は教材を片付け、講習の終わり際に再び窓の外を見た。教室に最後まで残っていた生徒からプリントを受け取ると、また明日ねと声をかけ、生徒に続いて教室を出た。教室の鍵を返却し、昇降口の前に来ると、パーカーの前を閉めた川瀬夏子に遭遇した。
教師はなにか話しかけようとして、言葉に詰まった。夏子もまたなにか思うところがあるのか、黙って教師を見ていた。
「夏期講習、受けに来たの?」
「違います」と夏子はいった。「講習はまだなかでやってます。私はここの図書館に来ました」
「図書館?」
夏子はこの高校の図書館は一般開放されていて、申請すればだれでも入れるのだと説明した。
「ふうん」教師は気持ちなく言った。「地区センターでは駄目だったの?」
「本がなかったので」夏子はなぜか俯いきがちになって言った。「ここにはありました」
照れてる? もしかして? 教師は思わず、彼女が借りた本が入っているであろう肩掛けの鞄を注視した。その視線に気づいてか、夏子は鞄を肩にかけなおした。「別に、隠しているわけではありませんけど」夏子は言った。「ごめんなさい。さようなら」
夏子はやや早足になって校門へかけていった。教師はその背中を見送りながら、今度は本のタイトルを聞いてみよう、と考えた。
5
しかし彼女のほほえましい態度とは裏腹に、彼女と不良生徒たちの対立は深刻なレベルに達していた。件の事件の後、彼らの関係はこじれにこじれていた。元々学年で幅を利かせてきた連中である。女子にぶちのめされていい気分がしているわけがない。早く夏子を襲ってもとの地位を手に入れたいというのが本音だった。それが叶わなかったのは、皮肉なことに猫殺しのおかげだった。
猫殺しの凶行が発覚したのは、彼らの事件があってすぐのことだった。不良たちはすぐに夏子をなんとかしたかったが、状況がそれを許さなかった。PTAの発案で、有志の人間が集まって見廻り隊が結成されていたためだった。通学路から歓楽街まではっきりとでもそれとなくでも学生を気にする人が増加し、これによって生徒たちは遅くまでの外出などができなくなり、襲撃などはまったく自殺行為になっていた。
学校が夏季休業でなければ暴力行為まではいかなくとも、恫喝ぐらいはできて、それがガス抜きになっていたのかもしれない。しかし学校はやっていない。夏子の家を知っている者もいなかったから、そちらへ行くこともできない。
八月八日。ようやく彼らは夏期講習に出向いていた仲間の一人を迎えに行ったさいに夏子を見つけ、今日の午後に近くの公園に来いと言った。そこは誰も来ない公園だった。近くに団地があったが、団地のすぐ近くに大きな公園があったため、平日も休日も散歩する老人ぐらいしか見かけなかった。
夏子もよせばいいのにのこのこと公園まで出向き、殴り合いになった。多対一の殴り合いだったが、結果が出る前に、近くを通りがかった警察官に止められてしまった。
優勢劣勢もわからなかったが、彼らはこれに手ごたえを感じたらしい。しばらくするとまた夏子を呼び出した。今度は邪魔の入らない場所で。
警察は二十日ほど裏山に滞在していたが、それ以降は警察署に帰って、時折新しい発見がないか見に来るだけになっていた。裏山のフェンスの前には進入禁止のテープが張られていたが、あちらへ行ってはいけないようにしているというよりも、向こう側からなにかがこないようせき止めているようにも見えた。
教師はたまたまその様子を見た。裏山から下山した教師はフェンス際まで来たところで人影を認め、藪に隠れて様子を窺った。
「これだけいればなんとかなんべ」
彼らの一人が言った。
「あいつ遅えな。来ないつもりじゃないだろうな」
と、別の一人が言った。
「くるだろ。前だってきたんだから」
とまた別の一人が返した。
彼らは六人ほどいた。三人は教師の知っている顔だった。夏子と諍いになったグループの子たちだ。しかし残りの三人は知らなかった。学ラン姿で、明らかに他の子たちよりも大きく、顔も大人びていた。
と、言うよりも、実際に大人なのだ。彼らは地元の高校生だった。彼らは中学生たちのうしろで三人で固まっていた。一人はロングヘア―でガタイがよく、なにか格闘技でもやっているようだった。一人は細身で、卑屈そうな顔をしていて、最後の一人はソフトモヒカンの強面だが、背は低かった。
地元では札付きの不良として名の通っている三人組だった。夏枯にいる貧相なやくざとも親交があって、三人とも下っ端になることがあらかじめ決まっていた。三人はやくざが半グレをうまくつかっているのと同じで、中学生どもを従えて、とりかえしのつかない悪さをさせるのが好きだった。彼らは夏子のことを知っていた。中学生たちから聞いて、味を見てもいいと考えていた。
「まじで美人なんだろうな」
高校生のうち一人が言った。
「えっと、はい」一方で彼らは高校生たちを喧嘩を助けてくれるお兄さんぐらいにしか思っていなかった。重大な齟齬だったが、中学生たちは気づいていなかった。
「美人て言っても12だか13だかのガキだろ? やべえ、俺らロリコンじゃね?」
ひょろい不良が言った。
「発育がよけりゃ関係ねーよ芳光。だってお前、タッパの低い女子大生なら興奮してもロリコンじゃねーかっていったら、そりゃ違うだろ」
強面の不良が言って、不良たち三にんはくつくつと笑った。
――こいつら、あの子を襲うつもりだ。喧嘩だなんて考えちゃいないんだ。
教師は思った。どうしよう、ここから出て、あの子たちを止めないといけない。教師は迷っていた。すべきこともやりかたもわかっていたが、そうできなかった。その勇気がなかった。タガが外れていることの羨ましさを思った。
川瀬夏子は、校門のほうから歩いてやってきた。手に金属バットを持ち、不機嫌そうな顔をしていた。服装は前に見たときと似ていて、薄緑色のパーカーを羽織って、幾何学模様の柄のはいったシャツを中に着ていた。うごきやすいように下はナイキのジャージだった。
中学生たちは遠くから彼女の姿を確認して、高校生たちに、「来ました」「じゃあそこに隠れててください」と言った。金属バットを持って登場した川瀬夏子に、少し不安な気持ちを持っている様子だった。
喧嘩に作法などというものはない。開始の合図も、なにもない。然るべきときに、然るべき場所にいるのならそれですべては整っている。今回もそうだった。三人と相対して、夏子は逆手に持っていたバットを持ち替えた。
夏子も、はじめのうちは頑張っていた。
ロン毛の不良が後ろからバットを奪おうとするのを、夏子は体を捻って避けた。これだってそうそうできることじゃない。けれど次の蹴りは避けられなかった。夏子は腰の上の辺りに蹴りをいれられ、地面に倒れた。もともと夏子は体格こそ大きかったが、体が成長についていけておらず、体自体は虚弱な方だったのだ。近寄ってきたロン毛のあげた足へ、攻撃と悟られないよう足を出した。「おっと……ぉ」足の表が夏子の足に引っかかり、ロン毛の動きが止めた。そこを夏子は金属バットを振り回した。これは、腿の裏で受け止められ、少しも効かなかった。ロン毛は笑っていた。夏子はロン毛にくるぶしを踏みにじられた。ジャージの布ぐらいじゃまったく防げない衝撃が足に伝わってきて夏子は顔をしかめた。前から近づいてきていた中学生たちが夏子につかみかかった。夏子は中学生たちにも対処しないといけなかった。
複数人を相手にするときは、絶対に囲まれてはいけない。人数差を覆すのが難しいのは誰だってわかっていることだし、手や足を背中の方向に動かすのがどんなに不可能かも誰だって知っている。
夏子もはじめのうちは頑張っていた。服や手首をつかもうとしてくるのを、指を捻り上げたりひっかいたりして防ぎ、短いストロークで骨の出っ張った部分をたたき、できるだけダメージを与えようとした。でもダメだった。力の差のあるせいで無理やり手をほどいたりするのが難しいので、一度抑え込まれればそこから逃れることはできず、そう何本もの手や足を相手にすることはできなかった。
まずバットが奪われた。グリップに布が貼られているため持ち手の方が圧倒的に力で有利なのであるが、それでも奪われた。ロン毛は夏子からバットを奪うと、一歩下がってあとは仲間たちにやらせた。夏子はこのときは掴まれていた腕をねじり、脱出して中学生の一人を殴りつけた。しかしがむしゃらで動作に勢いが足りず、あまり効果はなかった。
夏子は今度は高校生に腕をつかまれ、がら空きになった腹や肩をなんども殴られた。唾を吐きかけると、目の上を殴られた。目の上を殴られたとき、眉の下の皮膚が破れ、夏子の頭の中に星が舞った。「おい!」とロン毛が言った。「顔はやめろよ……萎えるだろ」はじめは遠慮がちで、夏子に恐れのようなものを抱いていた中学生たちも、夏子が高校生にまったく歯が立たないとみるや、喜々として暴力に参加し始めた。
高校生たちにとって、これは喧嘩などではなかった。ただ弱い動物を狩っている……そんな風にさえいえないような、ただの娯楽だった。
掌を蹴りに差し出したとき、人差し指が蹴りぬかれ、手の甲まで無理やり曲げられた。「ぐ……」と夏子が呻いた。これはチャンスだった。夏子はこういうチャンスを逃すほど愚かではなかった。相手は思わぬ成果に驚き、重心が傾いていた。夏子は中指を突き出した拳で相手の脛を打った。相手は痛がった。痛がってはいたが、それ以上ではなかった。夏子は鼻を蹴られ、後頭部を地面へしたたかに打ち、昏倒した。
教師はそれをすべて見ていた。夏子が殴られ、殴り返せず、その動きが鈍くなるうちに、教師の呼吸はひどく乱れていった。
ロン毛がにやつきながら夏子の腹の上に乗り、その頬を撫ぜた。ロン毛は夏子のパーカーのジッパーをしめた。尻をほんの少しうかせ、すこしずつ。そして同じ要領でパーカーとシャツをまくり上げた。
「な」と中学生が言った。夏子はこのとき高校生たちに見下ろされる形になり、その一歩離れた位置に中学生たちがいた。「なにするんですか?」
「いいことだよ」ロン毛が振り返って言った。「お前たちもやるか? 早めに体験しておいた方がいいぞ」
ちょうどいいじゃねえか、いまやっちまえよ、と残り二人も口を揃えて言った。
中学生たちはまたの下で指をもじもじとさせた。
「ウブだね」ロン毛は言いながら夏子の腹に指を走らせた。夏子の身体は筋張っていて、脂肪はほとんどなかった。体の堅い中学生らしい肉体であると言えた。次に胸の辺りを親指で軽く押した。いわゆるスポーツ用のものだったが夏子はすでに下着をつけていた。こちらは中学生の、しかも小学校から上がったばかりにしては大きい方で、親指で押したのと同じだけの力で押し返してきた。ロン毛は、夏子の顔を見た。血だらけで、鼻が少し曲がっていたが、それでも美しかった。目を閉じていると、年が実際よりもさらにうえに見え、その美しい顔に傷がついていると思うと、顔を殴るなと言ったくせに、より興奮するのだった。ロン毛は夏子へぐっと顔を近づけた。ロン毛は夏子のほほに口づけた。傷口に口づけた。そして唇へいこうとしたとき、夏子と目が合った。夏子は怯えていなかった。傷ついていなかった。口をかぱりと開き、わずか五センチの距離で、思い切り金切り声をあげた。
ロン毛はうろたえた。耳鳴りがしていた。夏子は悲鳴をあげたわけではなかった。耳を傷つけようとして声を出したのだ。それが今日でいちばんのダメージだった。「ああ……ああ……」と呻き、自分の耳が遠くなっていることに狼狽していた。頭の思考回路がばらばらにされたようだった。「ああ、なんだ、クソ……」夏子はまだ金切り声をあげていた。それが刃のように鼓膜を傷つけ、ロン毛を混乱させた。「クソッ。このクソガキ!」ロン毛が拳を振り下ろした。夏子はそれを歯で受け止めた。まだほとんど生え変わっていない歯である。成人の歯よりもやわらかかったが、それでも固い歯を殴りつけてしまったロン毛は今度は自分が金切り声を上げ、立ち上がって手を夏子に背を向け、手を抑えた。「お、おい、大丈夫かよ……」小柄なほうの高校生がロン毛に声をかけた。細身の方は夏子から目を離さなかったが、注意はできていなかった。ロン毛から解放された夏子ははじめ這い進み、膝立ちになり、焼却炉のわきに転がされていたものに手をついた。
「あっ」
中学生のひとりが言った。
「ああん?」
ロン毛が振り返りざまに、鼻柱へ金属バットのヘッドが叩きつけられた。鮮血が零れ、ロン毛がうしろによろめいた。捕まえようと伸ばされた強面の腕をさけ、後退して膝の皿を打つ。片足ついた強面の頭に思い切りバットを振り下ろし、たまらず強面が肺からすべての空気を押し出されたかのように倒れ込んだ。夏子は身が竦んでいる細身に向かって駆け出した。前に手をだした細身の前でいったんブレーキをし、一歩下がって脛を叩き、追撃で完全に地面に転がさせた。夏子は肩で息をしていた。鼻が折れていたため、息がしづらそうだった。
不良たちにこれが喧嘩などでなかったように、夏子にとっても、これは喧嘩じゃなかった。というより、夏子にとっては喧嘩というものはしたことがない。名前のない殴り合い、暴力が断続的に続く、怒りの衝動を吐き出す――それが夏子から見た、喧嘩と呼ばれるものだった。
ロン毛が鼻血を拭いて、夏子を見て、倒れている二人を見た。ロン毛はその場からもう去ろうと考えていたが、夏子の目が逃さないと語っていることで、動けないでいた。夏子は金属バットを持ち直した。今にも襲い掛かりそうな雰囲気だった。いま襲い掛かっていないのは、単にどう嬲り殺しにするか考えているだけのように見えた。
夏子とロン毛は、互いの意識を共有していた。ロン毛は夏子がなにをするつもりなのかわかり、夏子も同様だった。
「おまえ、私が誰か分かるか」
夏子が言った。ロン毛にはその意味が解らなかった。
「おまえ、私が誰か分かるか」
夏子はもう一度訊いた。やはりロン毛は訝し気な顔をするだけだった。
ふと、二人の間を通っていた意識の線が途切れた。繋がっていた線が解け、夏子が金属バットを下げ、姿勢を直す。教師が全員の前に姿を現していた。
ロン毛は安どのような悲しみのような息を吐いた。強面を立ち上がらせ、細身に手を貸し、フェンスの前から去っていった。
教師は多幸感のようなものを感じていた。このときの夏子は教師にとって傷ついた獣でなく、偉業をなした英雄だった。周囲がどんなに警告し、悲しみ、嘲笑っても、夏子は自分のやり方を変えなかった。不可能だと言われた。宿命だとさえ言われた。彼女はこの世の条理を破ったのだ。
「川瀬さん」
「……先生、どうしてここにいるんですか」
教師が夏子の肩に触れたが、夏子はそれを払いのけようとはしなかった。夏子は腕で顔を拭い、疲れからため息を吐いた。
6
八月二十日、川瀬夏子は夕方、夏枯の路上に立っていた。手にソーダクリームのアイスを持ち、どこか遠くの方を見て、動かないでいた。鼻にガーゼがあてられ、顔はあちこちがはれ上がっている。足はギプスをはめられ、びっこをひき、腕もあまり激しく動かさないよう言われていた。
夏枯の路上には、人が多く歩いていた。日曜日だったためか家族連れが多く、車道にもファミリーカーが多かった。
あちこちでクラクションの音が鳴っていた。
夏子は五日前を思い返していた。
あのあと高校生三人は高校を退学処分となり、中学生三人は出席停止処分となった。事件を起こした六人は、全員がなんらかの法的、社会的制裁を受けた。高校生三人も中学生三人も、警察に取り調べを受けた。夏子への暴行が理由だったが、猫殺しの容疑者としても調べられていた。
六人とも、暴行の事実は認めた。猫殺しについては、やっていてもおかしくないとは思わせたが、これといった証拠もなく、そのうちに解放しなければいけなかった。
しかし、六人の証言には、ある奇妙な共通点があった。
六人とも暴行の事実は認めたのに、相手が誰であるかを憶えていなかったのだ。それどころか、少し時間を置くと暴行のことさえ忘れていた。暴行のことを忘れてどうして自分がここにいるのかわからないとのたまい、捜査員が話を持ち出すと、ハトが豆鉄砲を喰らったように驚いて、納得する。これを繰り返していた。捜査員もはじめはこちらをからかっているのだと考え、怒りをあらわにしたが、質問を重ねていくうちに、本当に忘れているのだと悟った。捜査員は地元の精神科医に話を聞きに行き、精神科医は事件のショックなのではないかと月並みなことを言った。捜査員は、とにかく証拠があるならいいと考え、高校生三人を起訴する準備をした。
夏子は、五日前を思い出していた。
「……先生、どうしてここにいるんですか」
あのとき、夏子はそう言った。
肩にかけられた手を振りほどかず、手で顔を拭い、こう続けた。
「猫を殺したの、先生ですよね」
教師は面食らって尋ねた。
「いきなりなにを言ってるの?」
「だから」夏子が気だるげにつぶやいた。「猫を殺したのは、先生ですよねってことです」
確かに猫を殺したのは教師だった。
知られている、と教師は思った。
どうしてだか、この川瀬夏子という少女は、自分が猫殺しであるということを知っている。知っているのだ……。思っているわけでも、確信しているわけでもない。太陽が東から西へ移動するのと同じく、重力が樹上の林檎を落とすのと同じく、夏子は教師が猫を殺したということを知っている。
しかし、教師はそれでも否定した。いったいどうやって殺したのか、殺す方法などないじゃないか、だいいち私には殺す理由なんてない。
すると、夏子は疲れた顔で笑った。
「猫を殺していたことなんて重要じゃありませんよ」
夏子が言った。
「先生、私がわかりますか?」
「なにを……」
教師は言葉を詰まらせた。
――名前が出てこない! それどころか、目の前の、この、これがわからない!
認識が歪まされていた。正しいのに、正しくない。認めているのに、認めていない。姿かたちが変わったわけではないはずなのに、それがわからない!
「先生、私の名前がわかりますか?」
夏子は続けてそう言った。
教師にはわからなかった。わからない。わからない。人種、年齢、性別、個体も液体も、気体かどうかすら。そして、それを意味する言葉がなんであるかですら。
しかし、迷路をゆく粘菌がその答えへ明証的に辿り着けるように、教師もまた、これがいったいなにを指すのか、既知の彼方へ追い縋ることができた。あの占い師。あの占い師が言っていた名前。
「ゼ……」教師はその名前を口にした。「ゼム」
時間が硬直した。ゼムも教師も、互いに動かなかったが、その理由はそれぞれ異なっていた。
ゼムは淘汰者だった。ゼムは自然を侵すものを、元の混沌とした世界へ返す役割を持っていた。それは現実世界において、殺すという言葉で表されるものだった。
教師は体内に電気を溜めた。猫を殺した時と同じように、電撃を放つ準備をした。
ゼムは教師の頭をバットでぶん殴った。教師は反応がまったく間に合わず、電撃が手の中で溜められていたときにはすでに視界は傾き、意識もまた斜陽へ向かっていた。その瞬間は、ゼムの二打目によって冬の夕暮れのように過ぎ去り、教師の視界は真っ白になり、金縛りにあったように動けなくなった。ゼムは地面に倒れて痙攣する教師を見下ろした。教師は白目を剥き、どこともしれない、限りなく邪悪な世界を幻視していた。ゼムはバットを思い切り振り上げ、教師の額を叩いた。頭蓋骨がひしゃげ、骨片が脳に刺さったのがわかった。ゼムはグリップエンドを上にしてバットを持つと、その穴目掛け叩き込んだ。今度は湿り気の多い、肉を潰したような音がした。
中学生三人がこちらを見ていた。夏子が顔を上げて視線を向けると、走って逃げていった。
夏子はフェンスの向こうへ教師を埋めた。なぜだかとても悲しかった。こんなことを自分はやりたいわけじゃないのだと思った。
――でもやりたいことだけして生きてけるわけじゃないって、みんな言うわ。
夏子はその足で警察に駆け込み、事情を説明した。実のところ、ここでもゼムが使われていて、対応に当たった警官は匿名の通報があったと勘違いしていた。警察に事情をきかれ、病院に行き、検査入院をしたあと、ギプスや包帯を巻いて退院した。
夜になる前に商店街のコンビニでアイスを買った。63円の安いアイスだった。火照った頬と頭を冷たい氷菓子で温くさせながら、夏子は自分の怒りがまた溜まっていることに気が付いた。
――どこかにいるんだ。まだ、いるんだ。
夏子はぺろりとアイスを舐め、辺りを見回した。黄昏時の商店街を行き交う人々は、表情が見えず、遠くに行けば行くほど風景に溶け込んでいた。それでも足音や声がしていて、電子音や踏み荒らされるアスファルトの音がした。それらが夏子に話しかけていた。
――奴らを殺せ。
この世には人が多かった。この世には物が多かった。物も人も多すぎた。夏子はアイスをぽいと後ろに投げ捨てた。アイスは背後で路上に砕け、これとともに、夏子は太陽を見上げた。
――太陽が私たちを見ている。
夏子はふと怖くなった。心の中の怒りを嗅ぎ取られた気分だった。夏子はぶるぶると頭を振った。視界がぐらぐらと揺れ、風景が流線となって辺りを飛び交った。頭から太陽がいなくなると、夏子の心から恐怖はなくなっていた。夏子は歩き出し、雑踏の中に消えた。
世界が彼女を包んだ。彼女は必要存在であり、絶対的に内側だった。もしかすると、この世で最も世界に必要とされているのが彼女だった。
その後の行方は杳として知れない。
THEM-正体不明- 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname
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