0章

在りし日の二人

「ティルー! はやく来てー!」


 向こうで、銀髪の彼女が呼んでいる。

 俺に荷物をすべて押しつけておいて、人の苦労をそっちのけで浜辺を走る。


 白い砂。

 水に削られた丸い石や、打ち上げられた貝殻。

 拘束具の靴が足跡を残して、水辺の方へと続いている。


 耳に届くのは波のさざめき。

 ゆったりと押し寄せては、引いていく。


 今まで見てきた陸にはない、常にうねる世界。そこに、沈んでいく太陽のオレンジ色が反射している。

 広く、静かで、すべてを包み込むような幻想的な場所。

 ずっとずっと歩いてきた陸とは異なる、癒やしで満ちた景色。


 荷物を濡れないところに下ろし、俺は改めて一望した。


「きゃっ、あはは……!」


 水に驚いた彼女の声が、混ざる。

 息を呑む光景に、一瞬脱力。達成感に酔いしれて、でも、どこか現実感がない。というのも、ここまであまりに大変な旅だったから、まだ慣れていないのだ。

 何度も死にかけた。

 色んなことに巻き込まれた。

 地図も読み間違えて、とんでもない遠回りもしてしまった。


 そんな日々が、今終わりを告げたのだ。



「ティルー!」



 棒立ちで眺める俺に、また声がかけられる。

 俯瞰するように見ていた視線を、彼女に向ける。


 靴を脱いで、裸足を水に浸ける姿がそこにあった。


 陽を背にして、手を振りながら笑う表情。それから、波打ち際を走る影。

 今まで見てきたなかで、いちばん輝いていた。


 夢の中を、彼女は生きていた。


 無意識に、足が動く。

 導かれるように、惹かれるように、歩く。



 すこし深いところまで入って、水をすくい上げて。最初こそ慎重だったものの、今は豪快に水しぶきを立てている。



 近づいていく。

 声を張り上げなくとも聞こえる近さまで来ると、気配を感じ取った彼女が振り返った。



「ねえ、ティル」


 半分も見えない太陽を背景に、眩しい笑みが浮かび上がる。

 同時に、胸の奥が締め付けられた。


「私、立ってる」

「ああ、そうだな」


 ばしゃ、と足を持ち上げて、また水に戻される。

 綺麗な瞳が、故郷を滅ぼした肌色を見つめ、また俺を見た。


「裸足で歩いても、誰も死なない。地図を塗り替えることもない。見える世界は変わらず、大地はありのままの感触を伝えてくれる。こんなに嬉しい瞬間は初めて」


 細められた目に、優しさの宿った自分が映り込む。

 復讐だとか、暗殺の任務だとか、そういったしがらみのない……でも、嫌いではない自分だ。


「ありがとうティル。私の旅についてきてくれて。きっとこの感動は、あなたがいてくれたからこそだわ」


 彼女の夢は、澄んでいる。

 故郷の全てを死に追いやった過去を、何度悔いたのだろう。いったい幾度、罰を願っただろう。後悔と優しさに日々心を削る彼女は、どんなに自分を責めていただろう。

 だが、今彼女は笑っている。

 『誰も傷つけない、みんなと同じような普通の人として、同じ大地に立ちたい』。そんな夢を叶えてやることができたのだ。


 ……なんだろうな、この感情は。

 ずっとこの光景を眺めていたい気分だ。ここで終わりにするのではなく、これからも見守ってやりたい、不思議な気分だ。

 名前を呼ぼうとして、閉口。考え込んでから、再び声を放った。


「――タリシア」


 素性を隠すために呼んでいた名前ではなく、本名を呼んでみた。すると、きょとんと目を丸くして見つめ返される。想像通りの反応に、ちょっと安心した。


「……」


 しかし、言葉が続いて出てこない。

 この気持ちをなんと表わせばいいのだろうか。言葉にして伝えるとして、どう言えば?

 そう悩む俺に対し、ふっ、と笑う気配。困惑する自分が滑稽で、また「おかしな人」と笑ったのだろうか。

 かと思うと、彼女は俺の方に近づいてきて、指先を口元にあてた。

 そして、宥めるように、穏やかに目を細める。


「大丈夫」

「……?」

「あなたの考えてること、私にはなんとなく分かる。同じだから」

「おなじ?」

「そう。といっても、そうであってほしい、っていう願望でもあるけどね。今は無粋だから、言わない」


 指を離して、彼女はまた微笑んだ。

 花のように。


 ざあ、と流れる音に包まれ。

 徐々に変わるオレンジ色に包まれ。

 全てを見通したであろう彼女は、誓いを紡ぐ。


「いつか、ぜったいに言うから。だからあなたもいつか、ぜったいに聞かせてください」


 それは、俺の在り方を定めた一言だ。

 俺の夢を形づくった、最初の小さな種子。国ではなく、一人の少女のために生きてみたい。復讐ではなく、夢あふれる人生のために歩きたい。

 そんな無意識な願望を植え付けた、きれいな響きだった。




「待っていますよ、私の騎士ナイト




 光を受け、淡くなる輪郭に髪が揺れた。

 瞼の裏に焼き付く笑顔がひどく揺さぶり、得体の知れない衝撃を伝えた。


 ああ。いつか絶対に伝えよう。この、形容できない感情の言葉を。



 俺はきっと、彼女の声音を忘れない。

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翠の姫は靴を脱ぐ。ただの死体はそれを見る。 九日晴一 @Kokonoka_hrkz

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