エピローグ
忘れ去られた物語
どこかの国の、どこかの街。
そこから数日歩いたところには、死の森と呼ばれ、人も寄りつかない場所がある。
深く危険な森。その前に建つ教会は、戦争を経て廃墟と成り果てていた。
白いレンガの壁は、砕け、汚れ、ただの残骸と化して。もはや屋根など跡形もなく吹き飛ばされた。
人の亡骸は年月とともに腐り、骨となり、やがて砂に回帰した。あるいは、どこぞのならず者に蹴飛ばされでもしたのだろうか。
なんにせよ、そこに痕跡は残されておらず。かつて教会だったそこは、ただ風化していくぼろぼろの石畳みと、東側だけを覆う壁のみ。
通りがかった商人も、エサを探す獣も素通りする、ただの荒れ地だ。
そんな、時間がとまった場所に――彼女はいた。
光に透ける銀の髪を揺らし。いつもは引き結ぶ口元を、今だけはほころばせ。華美なドレスを地面に着けることもいとわず。
細めた瞳で、教会の隅に佇む墓石と向かい合っていた。
見る人が見れば、目を奪われる光景。その中心たる彼女は、やがて、そっと屈んだ。
カサリ、と抱えていた花束を添える。
黄色に染める花々を詰めた、小さい束。辺境の村で買ったらしい。華奢な指を離して立ち上がると、彼女は口を開いた。
「あなたのために建てたのに。こんなにボロボロになって……相変わらず報われないわね、私たち」
それから、顔に
「ごめんね。まだ見つけられなくて」
小さな謝罪は、寂しく風に流される。
当然答える者はいない。
「でも待ってて。きっと私は見つけてみせるから。それで、またあなたに依頼を出すから。次は最初に、想いを告げるわ」
……終わった、だろうか。
そっと教会に入り、偽名の名を呼ぶ。
「マカゼルさま。時間でございます」
「そう。あなたも世話になったわね、クルウ卿」
別れの時間がきた、と切り出さなければならないのが、とてつもなく歯がゆかった。彼女にだって救いのひとつやふたつあっていいはずなのに、許す者はこの世界に数少ない。そんな現状をどうにもできない自分が不甲斐ない。
国のため生きよ。それが騎士の在り方であるが、『彼女を殺さねばならない』というこの使命は、どこまでも騎士道とはかけ離れている気がした。だから今回だけは国を騙し、逃がすことにする。
最後に私は――いや僕は、一人の人間として質問した。騎士ではなく、世を生きる者として。
「あなたは、なぜ旅を続けるのですか。探せば、どこかの国には住む場所も見つかるはずだ。家庭を持つことだって、」
「知ってるでしょう? この足の呪いがある限り、私は一つの場所には留まれない。かつての故郷と同じ過ちを繰り返すわけにもいかないし。家庭もノー」
言いながら、彼女はドレスをひざの部分から破いた。
厳重な錠が三つかけられた厚底のブーツと、それに見合わぬ細い足が露わになった。さらに、顔をしかめる私からぼろマントを奪い去り、羽織る。
「でも、そうね。留まらないのは、単に
少ない荷物の入った麻袋まで奪い、きれいで清々しい横顔が青空を見上げた。
「夢があるから」
その夢がなんであるのか。
自分の人生すらも燃料にして叶えたいとする夢が、どこまで偉大であるのか。
一介の騎士たる私には分からなかった。
困惑する私に、いつものように、この方は優しく微笑んだ。世界の汚れを知らないように見えて、その実どこの姫よりも汚れを見てきた顔で。そのうち分かるとでも言いたげに。
「では、私は行きます。見逃してくれてありがとう。妻を大事にするんですよ。愛する人、手放さないように」
そう言われて、追いかけることなどできるわけがなかった。最後の言葉が、どこまでも深く私を貫いたから。私は妻の騎士として、一人の男として、使命を全うしなければならないと、固く誓った。
小さく、けれど強い背中が、街とは反対側へ歩いて行く。
森の外縁に沿って、ゆっくり、ゆっくりと。
見えなくなるまで、私は見届けた。
夢のために旅を続ける彼女は、しかし誰にも、その夢を語ることはなかった。
戦争が激化し、彼女の姿を目にした者も、ついぞ消え。
いつしか、死の森の成り立ちを知るものはいなくなった。
ただ、森の前に佇む教会の墓石には、今もセルマリーの花束が添えられているのだという。
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