第3話
✧✧✧
「……っていうことがあったのよ。
彼女――立花香織は僕に一連の出来事を話し終わると「はあ、あの噴水は綺麗だったなあ」と心ここにあらずといった様子で呟いた。無論、黒河というのは僕の名前だ。
彼女とは同い年だが一年早く入社しているため僕の方が一年先輩に当たる。
木製のインテリアが目立つ洒落たカフェは十二分に暖まっており、数十年ぶりの大寒波によって外はすっかりと氷点下であるにも関わらず快適だ。
僕はカフェラッテを一口啜って彼女と視線を合わせる。
「なるほど、僕の学生時代から使っている大切な地図に落書きした経緯はわかったよ。でもさ、結局その噴水ってどうして八時なんていう微妙な時間にパフォーマンスを始めたんだい?」
僕は気になっていることを単刀直入に訊ねた。
「うーん、公園の管理人さんによるとね。その日はなんだか人の手によってバルブがいろいろ弄られていたみたい。だから怪文書を送った人がやったんじゃないかと思うんだよね」
十中八九そうだろう。僕もそこは同意する。
「それに何よりも不思議なのは先生の態度よ! なんで途中で消えちゃうのよ」
それはそうと、
それでも、現在のミステリ作家界隈では最も人気と言っても過言ではないほど、彼の本は売れているのだから、誰も文句の付けようがないのだ。
顔が良い、などと言われデビュー初日から百人規模のファンクラブが創設されるなど星の数ほどある乙川伝説を論えばきりがない。
「乙川センセは特別なんだよ。君も知ってるだろ」
「うん。でもさ、元々あの先生、そんな元気のある人じゃないし、突然いなくなるなんて今までなかったからさ」
まあそうだよなあ、と僕も思うのだがこいつは難しい……。
少なくとも乙川センセは途中退席を好むキャラクターではないことは確かだ。香織が不思議がるのも頷ける。
「生きてるんだろ? 今も普通に。まさかその後、自宅で首を縊っていたわけじゃあないんだろう?」
「それはもちろんよ。公園にいないことに気が付いて、すぐに先生の家に電話をかけたら本人が出るんですもの。帰るのが早すぎると思ったくらい」
「それで? その後、センセについては変わったところはない?」
「いや、それが大変なのよ。今度ウチの社に長編を上げられそうだって言って来たわ!」
香織の表情は、今までの憂鬱そうな雰囲気が嘘のように吹っ飛び、例の如く溌剌とした声でそう言う。
「おいおい、乙川センセの長編なんかが出たら本屋が恐慌状態になるぜ。あの人の小説が入ったアンソロジーだって、店によっては即完売するくらいなんだから」
乙川センセのデビュー作『時空と未来の完全犯罪』は発売から一年で二百万部突破の偉業を成し遂げている。
それによって獲得できたファンがこぞって買うだろうから、今度はそれ以上の売上が期待できるだろう。
これはたしかに香織にとっても大手柄だ。
「ふうん、良かったじゃないか」
「二人で祝杯でも挙げる?」僕がそう声をかけようとした時にはさっきの浮かない顔に戻ってしまっており、タイミングを逃してしまった。
「それはいいんだけどさ。やっぱり気になるな。まず誰が私にあの怪文書を出したんだろう? 子供なんて周りにほとんど……、いるとしてもあの人しかいないし」
僕はため息をつきたくなる。
「どうしても知りたいと思うかい? 僕が教えてしまっていいのかな」
「え! 黒河君、怪文書を書いた犯人がわかったの?」
その言い草はあんまりだ。僕は苦笑を浮かべながら、
「犯人だなんて言うのは可哀想だけどね。一応わかっているつもりだよ。確信している」
「誰なの? 教えて!」
香織が例の如くキラキラと輝く目で僕に熱烈な視線を送ってくる。
「当たり前だろう? あの人さ。香織もいまさっき言いかかっていたじゃないか」
「じゃあ……」
香織もさすがに気が付き始めてくれたようだ。
「そうさ、差出人は乙川辰巳センセ、だろ」
そう、乙川辰巳は現在十一歳、小学五年生の天才作家だ。今は複雑な事情で学校へは通えていないようだが。
よって香織が立てた差出人は子供だという見立てに合致する。
「ウソっ、でも信じられないよ。なんで先生は私なんかにあんな手紙を……?」
香織は眉を八の字に曲げ、困惑したように自分の手の甲を額に押し当てる。
「やれやれ、香織は優秀だがまだまだ鈍いな。乙川センセ、きっと香織に気があるんだよ。惚れているのさ。だからあの夜、誰もいない夜実坂公園に連れ出してあの光景を見せたんだ」
そう、それしか考えられない。
「待って、証拠はあるの? なんかこう言うと往生際が悪い犯人役みたいだけど、それは黒河君の決めつけになってない?」
香織はガバっと音を立てて立ちあがると、前のめりになって僕に詰め寄ってくる。
「い、いったん落ち着け。でもその噴水事件、いかにも乙川センセらしい演出だとは思わないか?」
たしかに証拠はない。筆跡鑑定をやったわけでもないし、怪文書から指紋が出たわけでもない。だが僕の中では、これは疑惑ではなく、完全な確信へと変わっていた。
「たしかに……、言われてみればそうかもしれない……」
香織もうんうん、と何度も頷いて僕の話に相槌を入れる。
「そうだよ。それにさっき香織も言ってたじゃないか。君のそばにあんな手紙を書きそうな子供はいないんだろう?」
香織は「なるほどねえ、乙川先生が……」と言って再びゆっくりと席に座った。
「ええ! だとすると私は仕掛人に怪文書の相談をしていたってことじゃない!」
香織ははっとした表情になり、パッと顔が真っ赤になる。
「そうなるね」
僕はカップに残ったカフェラッテを飲み干しながら静かに頷く。
「なんかバカみたい。あの日はやけに先生機嫌がいいなと思っていたのよね~。普段は酷いときなんて一言もしゃべらずに打ち合わせが終わるっていうのにさ。私のことを罠にはめて喜んでいたのか~」
香織はどことなくはにかんだような微笑を浮かべながら、照れくさそうにすっかり冷めてしまったミルクココアに口をつける。
「で? それはいいとして、どうするんだ。超一流作家からの告白なんて一生できない経験だぞ」
僕がからかうような口調で言うと「いじわる言わないでくださいよ~」と相変わらずはにかみながら言い、そして、
「そうだなあ。まあ、先生が大人になってから考えましょ。私、けっこう年下も好きだから」
夜奏曲 夏目弥杜 @tamegorou
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