第2話
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「あっ、いけない。先輩からもらった地図に書き込みしちゃったじゃない!」
駅の改札前で突然彼女が悲鳴に近い声を上げた。
帰宅ラッシュでこちらに向かって歩いてくる通行人の視線を痛いほど受け、私は自然と面を伏せた。
「私は知らないよ。君が勝手に書き込んだのだから」
憮然とした態度で言う。
ここまで人が多いところとなると普段ならいくらでも口をついて出る軽口も、まるで重石でもしたかのように出てこようとしない。
「ごめんなさい、先生は先に改札くぐっていてください。私はコンビニで代わりになる地図を買って来るので!」
彼女はそう言って素早く私に背を向けると、風のような速さで駅中の大手コンビニエンスストアに駆け込んでいく。
そういえば、私が彼女と初めて顔を合わせたのは確かデビュー作の授賞式だったか……。
あの時は悪酔いした彼女から随分絡まれたものである。
正直そういうことには慣れていないせいもあってか、後から聞くと相当挙動不審になってしまっていたようだ。
立花香織と言えば業界では最年少に近いというほど若いというのに物凄い敏腕の編集者だと聞く。そんな彼女がなぜ私のような――自分で言うのも何だが――気難しく扱いが面倒くさい作家に構い続けてくれるのか理解に苦しむ。
どうやら個人的な理由で気に入られてしまっているらしい。私も相当若いデビューを飾ったわけだから、彼女なりのシンパシーを感じてのお気に入りだとは思うが……。
それにしても、あれからほぼ一年経って、彼女のところの出版社には短編三本しか上梓していない。
デビューして右も左もわからない時、いろいろ面倒を見てくれた恩もあることだし、そろそろ長編でも書いて喜ばせてやってもいいかもしれない。一応ネタはいくらでも用意できている。もう病気の方の症状もだいぶ抑えられていることだし、医者と相談してもノーとは言ってこないだろう。
私はこちらから長編を携えて出向いた時の、彼女の驚きぶりを想像してほくそ笑んだ。
改札にカードを押し当てる。
少し前までは切符ばかり買っていたが彼女に勧められて使い始めたこのカードもなかなか悪くない。
足元から聞こえてくる少し耳障りな啼き声が改札に響いた。
これなら、鴉の啼き声の方がよっぽどいい。
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「午後八時まであと五分ですよ! 誰もいないじゃないですか!」
ベンチの隣に腰かけた彼女がついにたまりかねたように私に向かってそう叫んだ。
すっかり空気の冷え込んだ公園にはわずかばかりの水をたれ流している巨大な噴水が鎮座しているのみで、人はおろか猫の子一匹さえ見えない。
「悪戯だったんだよ、きっと」
俯いたまま顔を手で覆って嘆く彼女を見上げ、私はにやりと笑った。
こうなることはわかっていた。
当然と言えば当然の結果に過ぎない。
「しかし……、これだけで終わる悪戯だったらこんなにつまらないものはないな。せめて公園にゾンビでも乱入してこないと……」
「変なこと言わないでくださいよっ! 先生。ここはただでさえ暗いんですから……」
最後の方に行くにつれて声が小さくなっていく。私はベンチに深く凭れかかり、空を仰いだ。
「空を見上げてみるのもいいかもしれない。地上のように穢れていないから、心に沁み渡るようだ」
満点の星空……とはいかないまでも、そこはなかなか良い星空が広がっているじゃないか。
ここは都会の空だ。当然ながら山間部で見た星空には数段劣る。とはいえ、冬の星座の代表格であるオリオン座はもちろん、ふたご座やおうし座などをいっぺんに見たのは何年ぶりだろう。空に浮かぶ一等星と二等星はほぼ視認することができた。
気づかなかったが、ここは邪魔になる木がほとんどない。だからある意味、絶好の天体観測場所なのだろう。
もっとも、私にそのような趣味はないのだがいろいろな人間に命を吹き込んできた小説家としての性なのだろうか、ふとそういう気が起こってきたりすることがしばしばある。
キラキラと宝石のように地上へ降り注いでいるあの光は、遙か何万年前に発せられたものであり今この瞬間にはもうあそこに輝いている星のいくつかは存在しないのかもしれない。
隣の彼女も、いつの間にか私に倣って星を仰いでいるようだ。
「まさかこれじゃないでしょうね? 良いものって……。もしこれだけだったとしたら拍子抜けだけど、たしかにこれは綺麗だわ……、見れてよかった」
彼女はうっとりとしたような声で天に向かって腕を伸ばした。その手は当然何も掴めず、星には届かない。
「かもしれない。だけどきっと……」
私がそこまで言った時だ。
突如、いままで沈黙していた噴水が吹きあがり公園の中心で巨大な水柱を立てた。
その柱の周りでも一回り小さい柱が形成されては消えて行く。
「わあっ!」
彼女が大きな声で歓声を上げる。
プシューッ! と威勢のいい音を立てながら柱は形成そして消滅を繰り返す。
水しぶきは星の光を受け、ある時は青に、白に、そして紫に、と色を変えながら再び暗い水面に戻って行く。
「きっとこれだよ、立花君。これこそが怪文書の送り主が君に見せたかったものなのさ。幻想的だろう?」
私はほとんど明かりのない闇の中、わずかな星明りだけを受けて煌びやかに明滅するその噴水を指さした。
「ええ、そうだわ。すごく綺麗。お礼を言わなきゃな……」
彼女の表情はこう暗くてはまったく見て取れない。
きっといつものように溌剌とした熱い視線でこの噴水を見つめているのだろう。
――それでいい、それで……。
私はそのまま黙って公園を後にした。
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