夜奏曲
夏目弥杜
第1話
カアッ――
と、藪の中から声が聞こえたかと思うと、けたたましい羽音を立てて二羽の鴉が飛び立った。
柔らかな陽気が、頬を撫でる。
私は公園に隣接しているレストランの中から、彼らを眺める。右手に持った安いコーヒーからは、まだ温かい湯気が立ち上っていた。
西日差し込む公園から黒い影がひとつふたつと去っていく姿を眺めるのは、実に風情がある。
「鴉はいい……」
恍惚とした表情を浮かべ、私は誰に向かって言うでもなく、そう独り言ちた。
あの鳥たちの声はどんな時でも――そう、今の私のように、うつ病を拗らせ引きこもり続けている状況であっても――聞く者の心を浄化し潤す力を持っている……。
世間はこう、あまりにも雑然としすぎていて良くない。
私は去年、長編SFミステリである程度大きな賞を獲得しデビューして以来、推理作家という肩書を持っている。
とはいえデビューしてからというもののまるで筆が進まず、ここ一年は適当な短編を各方面で書き散らかしているという状況だ。
だからきっと、今日は編集部の方から尻を叩かれるのだろう。
今まで電話で散々言われてきたことだが、面と向かってとなるとまた失語症が心配でもある。
「ああ、先にいらしていたんですね。先生」
と突然遽しく店に入って来て、忙しない動作で目の前の席に座った女が、私に向かってそう言った。
化粧っ気はないが色は白く長身、そして若々しい目を爛々と輝かせている彼女こそ、私の担当編集者、
「体のお加減はいかがですか? 今日はだいぶ血色が良いように見えますね」
「ああ、だいぶ良くなったようだよ。散々悩まされた不眠症も改善の兆しが見えてきたな。そう心配しなくても次の〆切には間に合うだろう」
私は微笑を作って彼女の方から視線を外し、再び窓の外を眺める。公園には、まだ何匹かの鴉が屯していた。
ボールで遊ぶ少年たちが、鴉の近くに走り寄る。
黒翼を広げ、鴉はまた、
——カアッ
と叫んだ。
「それにしても、先生。またここの席で鴉を眺めていたんですか。好きですね~、鴉。でも私は雀の方が好きですが」
席に着いたかと思えば、一気にまくしたてるように喋る。彼女は艶やかな黒い長髪を一撫でし、私を見遣った。
私はいつものように仏頂面で、
「雀は知らんが、鴉は君が思っているほど害獣でもないのさ。ホラ、ああやって啼いているのを聞いているだけでも癒されるではないか」
ちょうどその時、レストランの前の電柱に鴉が止まって、
――カアッ
とまた啼き始めた。
私がそれを見て頬を緩めると、彼女は信じられない! とでも言いたげに「まあっ」と驚いた表情を作る。
「鴉はゴミを荒らします。それに糞だってそこら中に……」
「それは、人間が鴉避けを怠っているからいけないのだ。網が隙もなく張られていれば、荒らすこともない。それに糞をそこら中に撒くのは雀でも鳩でも同じことさ」
私は口角を上げ、恨めし気な視線を送ってくる彼女を、横目で見かえした。
「立花君、それに今日君がここに来たのは私の鴉談義を聞きたいがためではないのだろう?」
私はため息を吐き、さっそく本題を切り出す。
彼女は鞄から、何やら小さな封筒のようなものを取り出した。
「実は、私の所にこんなものが届きまして……」
さっきまでの明るい溌剌とした表情から一転、何やら不安そうに眉を顰める。
「なんだね? これは」
私は無造作に机の上の封筒を取り上げると、中に入っていた便箋の文字を目で追った。
――立花香織へ
巨大な円から亀十、虎七、孔雀三、そして最後に竜を五。
粁の背中に乗って行け。冬至、戌の刻に来られたし。
良いものが待っている。
「実は私もよくわからないんです。せっかくなので推理作家の先生に解いていただけないかな、なんて……」
そう言うと彼女はぺろりと舌を出した。
たしかに……。こんな怪文書が届いたら立花君でなくても困惑するだろう。
それにしても、まったくこれは……。
「ひどい字だ……」
私はため息交じりにそう言った。
「そうなんですよ。私の見立てだとこの文章は鉛筆で書かれていますよね。それもけっこう太いやつなんですよ。濃さはたぶん2Bとかかな……」
「亀の字などはそのせいでつぶれてしまっているようだね」
私が相槌を打つと、彼女は必要以上に強く頷き、
「そこです! 難しい言葉を使っているようですが、筆記具は鉛筆。しかも全体的に字が拙い。ということはこれを出したのは子供なんじゃないかと思うんです!」
私はすっかり彼女の気迫に気おされてしまい、曖昧に「う、うん」と頷く。
「でも、面白いですよね。私のそばにこんなユニークな手紙を送ってくる子供がいるなんて」
彼女は斜め上の虚空を見つめながら、何かの想像を巡らせているようだ。
「で? 君はここに行くのかね?」
私は気おされながらも、眉間に皺を刻み威厳を保ちながら彼女の顔を再び正面から見据える。
「当たり前ですよ! せっかくこの子が頑張って書いてくれた手紙なんですから」
またもや彼女は先ほどまでの溌剌とした様子に戻り、威勢のいい返事が店内に響く。
「き、君ねえ。いいかい? この手紙が子供を真似た変態の仕業だったらどうするのだ!」
「そんなことありませんよ」
彼女はいきなり声のトーンを落とし、俯き加減に呟いた。
「それに……、私はこれがそんな変態が書いたんじゃないっていう確信があるんです」
「確信というと、何か根拠でも?」
私はだんだんと苛立ってきた。
なんでわざわざ私に相談する必要があるのか、と……。こんなものは推理作家の仕事ではない。興信所にでも頼むべきだ。
「女のカンってやつです」
それを聞いて私は思い切り鼻白んだ。
「はんっ! 好きにすればいいさ。私の関知するところではないね」
彼女は一瞬、呆けたような顔つきになったがすぐに爛々とした目を取り戻し、真っ赤な顔で私に対し抗議の声を上げる。
「馬鹿にしないでください! 私のカンはこれでも結構当たるんですよ!」
「馬鹿になんてしてないさ。それよりも君、今日が何の日か知っているか?」
彼女の憤りを黙殺し訊く。
「知りませんよっ!」
困ったものだ。これじゃあ彼女は目的地にたどり着くどころか、差出人に待ちぼうけを食らわせることになるだろう。
「今日が冬至だよ。まったく君という人は。それにまずこの暗号を解かないと行く行かないの選択肢さえないじゃないか」
「ああっ!」
彼女は怒っている時とはまた少し違う意味で、真っ赤になって机に突っ伏した。
相変わらず、動きが激しすぎる。見ているこちらまでもが疲れてしまいそうだ。
「やはり、気づいていなかったな」
私はジットリとした軽蔑するような視線を彼女に送る。
「ち、違うんです。ホラ、腕時計の日付が四日分ズレていてそれで……」
「私に言い訳をするな。今は午後三時半だから戌の刻まであと四時間半もある。大丈夫さ」
彼女はそれを聞いて突然立ち上がった。
ガコンっ――というけたたましい音を立てて椅子が後ろに倒れる。
後ろからウエイトレスの迷惑そうな視線が痛いほど突き刺さって来、私の方が逃げ出したい気分だ。まったく……。
「どこが大丈夫なんですか! ぜんぜん大丈夫じゃないですよ。指定された場所が遠方だったらどうするつもりなんですか!」
「落ち着いて座りなさい。私は公衆の視線というのが、世界で一番嫌いなのだ」
私がそう諫めると、彼女は小声で「ごめんなさい」と呟き、席に着く。
「なあに目的地は遠方などではない。つまりは都内にある。このレストランからでも一時間以内にはで着くだろうね」
私は胸を張って、自信をありげに彼女としっかり目を合わせる。
「え! まさか先生。もう暗号を見破ったんですか!」
彼女は身を大きく乗り出して私の顔を覗きこんだ。
私は咳ばらいをすると彼女の顔から目を背け、
「ああ、こんなものは簡単な知識問題だよ」
「さすが彗星の如く現れた推理作家界の期待の星ですね!」
彼女が目を輝かせてそんなことを言う。
まったくよく表情の変わるやつだ、と思いながらも、ここは毅然とした態度で、
「おだてても原稿は出ないぞ。医者からストレスになりそうな仕事は止められている。当分、長編を書くつもりはない」
「それは意地が悪いですよ、先生。とりあえず春までに先生の短編を集めた単行本は出しますからねっ!」
「分かった、考えておこう。それはそうと君は都内の地図を持っているかね?」
これ以上話がわき道に逸れたら埒が明かない。無理にでも話の軌道を元に戻す。
「地図ですか? ちょうど先輩から借りている二十三区の地図がありますが」
「十分だ。見せてくれ」
「ハイハイ」
私は彼女が渋々といった様子で鞄から取り出した東京二十三区の地図を机に広げ、その脇に怪文書を乗せた。
「まず初めに怪文書にある巨大な円とは何だと思う?」
私は便箋の最初の一文目を指さす。
「さあ、まるで謎かけみたいですね……、サークル?」
「そうではない。これは謎かけではなくもっと単純に考えるべきなんだ。この地図にも正確に描かれている。東京駅にほど近い上空からでもわかる円と言えば……?」
「日本銀行本店ですか!」
彼女は地図上の一角を指さす。そこには日本銀行本店が鎮座しており、真上から見ると円という漢字に見えるというのは有名な話だろう。
「そう、あの建築物は現在の日本の通貨である円の形をしていることで有名だ」
「ということは、スタート地点はこの日本銀行本店ってことね……。でもその次に並んでいる動物たちは何を表しているんですか?」
「よく考えてみるとわかる。友人を電話だけで道案内するとき、目印はないと仮定しよう、何をまず聞かれると思う?」
「えーっと……、方位ですか?」
彼女は上目遣いにこちらを窺いながら今回は控えめに言った。
「そう、これは方位を表しているんだ」
「孔雀のどこが方位なんですかっ! あっ」
彼女は合点がいったように手をポンと叩く。
「気が付いたようだね。そうこれは四神――つまり亀は玄武(北)、虎は白虎(西)、竜は青龍(東)、最後の孔雀だけは些か無理やりではあるけれども、朱雀(南)のつもりなんだろう。もうこれだけの材料があれば、自力で目的地につけるのではないか?」
私はにやりと笑った。
「ちょっと待って! でも肝心の何メートル進むのかっていうのが不確定じゃないですかっ! 亀十と言うけどメートルかも、キロメートルかもしれないし」
ブツブツ呟きながら怪文書をなぞるその様は、まるで私のあら捜しでもしているようだ。
さっきからコケにしてしまってばかりだから彼女の気持ちはわからなくもないのだが、あからさま過ぎるのも問題なような気がする。
私は苦笑を浮かべながら、
「君はよっぽど屁理屈が好きなようだね。十は十キロメートルに決まっているじゃないか」
「なんでそうとわかるのよ!」
彼女は憤った。
「答えは書いてある。もちろん〝粁の背中に乗ってゆけ〟の部分さ。まず〝粁〟が読めないのか……」
「先生、バカにしないでくださいっ!」
どうやら今回は本気で怒らせてしまったみたいだ。
私は首を引っ込めて、宥めすかすような声で、
「そう怒らないで……。国字だから読めなくてもしょうがないのかもしれんが……。要はこの〝粁の背中に乗ってゆけ〟という一文は、まるで不出来な比喩なんだよ。
いいかい? まずこの〝粁〟という漢字は単体で〝キロメートル〟と読めるんだ。
だからそれを読める人が読むと〝キロメートルに乗ってゆけ〟という奇っ怪な文章になってしまうのだよ。
おそらく書き手が、君がこれを読めないという前提で書いてきたんだろう。字面だけではなかなか違和感に気が付けないからな」
「つまり……、日本銀行本店から始めて、北に十キロ、西に七キロ、南に三キロ、そして東に五キロっと」
彼女は筆箱から素早く油性ペンを取り出すと地図に線を引いていく。
線は日本銀行本店を出て大きな交差点で左に折れ、高級住宅街の中心で南下し始めると、最後にデパートの真ん中でさらに左に折れた。そして線は公園で止まる。
「ホラ、目的地はきっとそこだ」
私は地図上のその公園を指さした。
「都立
「私が記憶する限り、大きな噴水と滑り台があるだけで特に何もない公園のはずだ」
「さすが、公園には詳しいんですね~」
彼女は意地の悪い笑みを浮かべて私の顔を覗き込む。
「ふんっ、鴉の観察をしに行ったことがあるだけだよ」
夜実坂公園はここらではあまり見られないハシボソガラスの目撃情報があったため行ったことがある、というのはれっきとした事実だ。
私は彼女を睨み返そうとするが、もうすでに彼女は地図を鞄にしまい、席を立とうとしているところだった。
「じゃ、私はその〝夜実坂公園〟に行ってきますが、先生も行きますか?」
ここまで来て行かないという選択肢はないだろう。
それに戌の刻といったら、当然もう公園は真っ暗である。そんな中に女性を一人で送り込むわけにもいかない。
「ああ、行こうか」
私も腰を上げた。
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