第5話【終】

 いま里香はどんな姿で待っているのだろうか。そんなことを考えながら、あの時、準備のために、シャワーを浴び終えた俺が服を着ていると突然悲鳴のような声が聞こえ、慌てて浴室を出ると、ベッドで座っているはずの里香の姿はなく、瑞樹の姿があった。名字も思い出した。水木瑞樹という名字も名前も一緒のめずらしいフルネームだ。その瑞樹がベッドで薄笑いを浮かべて座っていた。


 そして瑞樹の足元で、里香が倒れていた。その時点ではまだ生きていたが、苦しそうにもがく里香の顔を瑞樹が殴り、蹴りつけ、果てには髪の毛を引きちぎり、俺はその様子を見ながら、足が竦んで動けず、制止する声を発することもできず、ただ立っているのが限界だった。


 なんで……浮気なんかするの?


 瑞樹の声は怒っている、というよりは、哀しそうだった。狂っているものを、狂っている、と表現するのが物書き失格だとしても、俺は瑞樹を見ながら、狂っている、という感情しか抱けなかった。


 瑞樹は里香のことをひとつも見ずに、立ち上がり、俺のほうに向かってきた。ゆっくりゆっくり、と歩くその姿からは、人間性というものが感じられなかった。すくなくとも俺には怪物のように見えて、殺される、と思った時、ようやく足が動くようになり、俺は彼女に背を向けて、駆けた。


 浴室の手前、玄関までもうすこし、というところで、背中にいままで感じたことのないような激痛が走った。膝を付いて、背中を確認すると俺の背中に包丁が刺さっていて、俺は慌ててその場にそれを落とす。これを投げ付けたのだ。


 後ろを振り返ると、


 彼女の顔を見ると、笑っている。


 これで殺すつもりだったのに、と彼女の口がそう動いたような気がした。瑞樹からすれば包丁を手放してしまったわけで、彼女にとっても危険な状況になるわけだが、彼女は俺が怯えで何もできないことを見越していたのかもしれない。


 実際、そうなった。


 俺はすこしでも遠くへ離れたい一心から転がりこむように、浴室に入った。だが浴室には鍵なんてものはなく、押さえつけるだけでは限界がある。瑞樹とドアノブの引っ張り合いになり、俺が背中の痛みも忘れて死に物狂いで引っ張っている内に、彼女のほうの力が弱まり、安心したのも束の間、


 包丁の切っ先がドアを貫通して、俺の顔の寸前まで来て、俺は思わず悲鳴を上げてしまった。そして同時に俺はドアノブを手放してしまったのだ。


 俺は浴槽まで逃げ込み、迫ってくる彼女の姿は、鼠を追い詰める猫という構図に似ていた。


 そう、そうなのだ。


 全部、思い出した。


 窮鼠、猫を噛む、という言葉がある。いや本来の身体の大きさは俺のほうが上で、腕っぷしも強いのだから、この言葉が適切かどうかは分からないが、確かにあの時、俺は鼠だった。


 殺されそうになった俺と瑞樹は揉み合いになり、反対に俺が彼女を――。


 君嶋里香。彼女を殺したのは、俺ではない。


 彼女を殺したのは、水木瑞樹という女性。彼女だ。


 だが、結局俺が誰も殺していないわけではなかったのだ。


 水木瑞樹。彼女は、俺が殺した。


 浴室へと繋がる戸のドアノブに手を掛ける。真実をすべて思い出したのだから、もう警告音なんて必要ないだろう。この想像が真実じゃないなんて言うつもりか。ここまで思い出して、まだ間違っていることがある、っていうのか……。


 だとしたら他に何がある。


 一切、この筋書きに変な違和感はないし、それにこの物語の結末として、俺のいま出した答えはそれっぽくない。それっぽくない以上、俺はこの想像を信じるしかない。


 分かってる。ためらっているのは、答えが合っていることを確認するのが怖いからだ。


 覚悟を決めた俺はゆっくりと戸を開く。


 その途中、ひとつ違和感を見つけた。


 なんで、刺されたはずの俺の背中は痛くないのだろうか。


 浴室の光景を見た時、俺は思わず独り言を呟いてしまった。


「どこから間違えていたの?」


 俺の想像していた通り、確かにそこにはひとつの死体がある。


 どこから、ではない。最初の前提からして間違っていたのだ。


 浴室には鏡がある。そう言えば、俺は自分の顔を一度も確認していなかった。




 なんで……、なんで俺が殺したはずの彼女が、鏡の中で驚いた表情をしているんだろう……?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女は、俺が殺した サトウ・レン @ryose

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ