単糸、線を成さず

スダチ

1

 甲高いアラーム音に向けて手を伸ばす。

「——クソッ」

 片目をこじ開けてソファーの脇に落ちているスマホを拾い上げる。画面に触れて音を止める。充電容量が20%を示していた。

「またやった」

 点けっぱなしのルームランプが目にしみる。座卓のワイヤレス充電器をにらみつけ、その上にスマホを置く。ソファーに腰掛け、両手で顔を抑える。

 掌がべたつく。ため息が出る。ティッシュを二枚引き出して擦ると、黒い手垢がまとわりつく。

 座卓に倒れているハンドクリームを取って立ち上がり、ゴミ箱に手垢を落としてから薄く塗る。ほのかにカモミールの香りが立ち上る。

 肉球にサラサラの黒艶が戻る。

 壁沿いのハンガーラックの棚柱に白のチェスターコートを引っかけたままだった。ハンガーを取って襟を掴み、肩にハンガーを通す。回してみると、後ろ身頃が大きく縦に引き裂かれていた。

「最悪」

 隅の作業机の折りたたみを広げ、ミシンを脇にやり、デスクライトの白い明かりを点ける。コートの後ろ身頃を表に張る。傷は右肩甲骨辺りから腰椎部分まで達していた。糸の切れ端、ウールのよりがほどけて開きつつある。ぱっくり開いた表地から所々に裏地のほつれが垣間見え、肩甲骨辺りからは芯地が露出している。

「こんなんで昨日……」

 かぶりを振る。

「ウールのかけつぎ? しかもこんな長いの」

 綾織りの表地をなでる。ため息が出る。

「着ていくべきじゃなかっ――」

 両手で頬をポンとたたく。

 バッグの定規ケースから洋裁定規を取り出し、裏地全体と表地の共布に必要な部分を採寸する。デスクライトを切って、ハンガーラックにコートを戻す。

 仕切り扉を開けて玄関兼台所に出る。コンロ向かいの洗濯機の前で服を脱ぎ、洗濯機のドラムから洗濯用ネットを拾い、服を入れて戻す。洗剤と柔軟剤を入れて回す。

 電気を点けて2点ユニットバスに入り、バスマットを敷く。換気扇がごうごうと空を切る音。鏡に右耳まで持ち上げられているような赤毛が映った。眉を上げ、耳を真上に円錐状にピンと立たせる。右手のかぎ爪で髪を一回すくと、また持ち上がっていった。黒のアイラインが周りの焦げ茶の被毛(ひもう)ににじんでいるのが見えた。眉を開いて耳を外側に傾ける。カーテンを開けてバスタブに入り、シャワーを頭から浴びる。腕の真っ赤な被毛が湯を含んで、重たくなっていく。乳房を持ち、薄クリーム色の被毛を爪先でかき分ける。薄ピンクの地肌に、青あざが点々と残っている。指の腹で押さえると、少し痛んだ。

 シャンプーとリンスを済ませ、目もとを手の甲でぬぐう。胸もとまで垂れた髪をかき分け、フェイスソープを泡立てる。額、まぶた、突き出てる鼻と口もと、細長い下あごにまとわせる。シャワーヘッドを探り当て、尻尾を前に巻き込んで座り込み、背中を流す音に耳をゆだねる。

 尻尾の裏側に流れ落ちてくる。左手で両目をぬぐう。薄クリーム色に泡が乗っかっている。すすぎ、尻尾の先を持つ。親指と人差し指で先っぽでこよりを作ってはほどく。

 尾の先を引っ張り込み、尻尾の真っ赤な表側を見る。玉になっているところがちらほら見えた。立ち上がり、全身をすすいで、シャワーを止め、ボディーソープを全身に泡立てる。ゴム製シャンプーブラシを掴み、腕、腹、尻、尾、足を毛並みに沿ってブラシにかける。シャワーを出して上半身を流す。排水溝に泡が溜まっていく。いったん止める。泡が沈んでいく。真っ赤な落毛が絡まっているのが見える。下半身を流してまた止める。泡がゆっくりと沈んでいく。

 腕、足をしごく。お湯がバシャバシャと音を立てて落ちる。カーテンから手を出し、タオルハンガーからバスタオルを1枚取る。上半身の水気をタオルに移し、絞る。下半身の水気も移して絞る。タオルハンガーに掛けてある洗濯物入れに入れ、もう1枚取って全身の水気を移し取る。

 バスタブから出て全身にドライヤーをかけ、セットを済ませる。腰をかがめて洗面器下から配水管クリーナーを持ち、カーテンの端から突っ込んでバスタブの排水溝に流し入れる。ツンとした塩素の匂い。引っ込めて戻し、立ち上がる。突っ張り棒の上越しに換気扇をのぞく。蒸気が吸い込まれていく。

 右手を軽く握り拳にし、小指の側面で鏡に小さい円を描くようにぬぐう。顔だけ映る。黄色の瞳に、縦長の黒い瞳孔。両手で頬をトントンとたたく。

「しっかりしろ、私」


「世界に猛威を振るう新型ウイルス。今日もその勢いをとどめることはありません。いくら莫大な資金で新型のワクチンを作ったとしても、次の瞬間にはウイルスが変異してしまう。旧世代の人々は、未だに制限された生活様式を余儀なくされています。根本的にこの災禍を逃れる手段として、我々はある新技術に託しました。初めは、旧世代から提供を受けた受精卵に施されました。ゲノム編集です。我々は遺伝子情報の本体であるDNAの編集を受け入れることで、生まれながらに新型ウイルスに対向する術を手にします。そして我々新世代は以前の生活様式を取り戻しただけでなく、皮切りに疫学的に大きく進歩しました。細胞のがん化、アルツハイマー、アレルギー、身体障がい、精神障がい、難病その他あらゆる先天的なリスクを取り払いました。しかし、ここで新たな問題に直面します。筋肉量を多くして屈強にしないといけない、頭を大きくして賢くしないといけない、容姿をもっと良くしないといけない、そういった考えに大衆が囚われてしまいました。我々は人類に対するゲノム編集の権限を、複数のAIに渡しました。彼ら編集AIは多くの仕事をこなしてきましたが、時折、進化を進めすぎることもあるのです」

 入り口を見ると、券売機に向かって歩いて行く後ろ姿が見える。液晶テレビ下の壁から離れ、にじり寄り、脇腹をくすぐる。

「おっ、おい皐月(さつき)、やめろって」

 笑いをこらえる了一(りょういち)君の顔がおかしくて、思わず吹き出してしまう。

「はー、ゴメンゴメン」

 食券を買って食堂を見渡す、カウンターから離れた席がいくつか空いている。了一君が先導する。

「皐月、ここでいいか」

 私は「うん」とうなずいて、窓際の席の椅子を少し引き、トートバッグの持ち手を肩から下ろして背もたれに立てかける。白い椅子に真っ赤なワンポイントが入る。向かいの席に黒の手提げ鞄が置かれる。これも黒のワンポイント。

「りょーちゃん、取りに行こ」

 食堂のカウンターを指さす。

「おう」

 了一君はどんぶりの列に、私は定食の列に並ぶ。カウンターの前まで来て、小鉢とスープ、ご飯は大盛り、そしてタラのムニエルをふた切れもらい、お盆に乗せる。席に戻ると、了一君も戻ってきてお盆を置き、黒いバッグの前に浅く腰掛ける。

「あ、デミカツ丼だー」

 顔を寄せる。

「あげないぞ」

「ね、ひと切れちょうだい」

 肩をすくめてデミカツを指さす。

「ダメだって、俺だって腹ぺこなんだよ」

「こないだ焼き肉焼いてあげたじゃん」

「ダメなもんはダメ」

 人差し指で額を押し戻される。

「もー」

 箸を親指の根元に水平に挟み込んで両手を合わせる。右手に持ち直し、ほうれん草の白和えに手をつける。

「私さ、普通の人の倍、たんぱく質摂らなきゃじゃん?」

「ふた切れ盛ってもらってるだろ」

「そうだけど」

 箸を置き、両手で頬杖をつく。

「デミカツの味、忘れちゃって」

 了一君の目を見つめる。

「……ったく、ひと切れだけな」

 目と口を半開きにして待ち受ける。

「なに考えてんだ、ここ学食だぞ」

 ムニエルの皿の端っこに置かれた。頬杖を解いて箸を持つ。了一君はスプーンでデミカツに敷かれているキャベツとソースを何度もかき混ぜた。

「ふふ」

 尾骨のあたりがポカポカした。


 食堂を出て通路の脇に寄る。

「今日のコーデどう?」

 くるりと一回転してみせる。

「ダークチョコレートのワンピースに花束のハーフステップ送り、金のペンダントを下げて、ヨーロピアンテイストだな。ブルゾンを同系色で合わせて統一性を持たせつつ、スマートにフィットアンドフレアを表現してる。シックかつ締まりがあるな」

「ふふ。りょーちゃんもかっこいいよ」

「おい、俺はそれだけか? てか、昨日までと感じが変わったな」

「今日からしばらく冬模様が落ち着くっていうから」

「いやその、ワンピースの裾が足もとまであるなと思ってさ」

「……別にちょっと保守的でも良くない?」

 腕を組んでみせる。

「あー、すまん、今のは忘れてくれ」

「で、お願いって?」

 了一君は頬を掻く。

「もし良ければなんだが……今度の課題、お前をモデルに作らせてくれないか?」

「お、チャレンジャーだねー」

「いいのか?」

「一応理由ちょうだい」

「皐月は、なんだ、周りからひとつ飛び抜けたところがあるだろ」

「回りくどい言い方しなくていいから」

「……動物に近い姿だからこそ似合うファッションってやつを考えていきたいから、だな」

「それって、私じゃなきゃダメ?」

 うつむいて毛先をいじる。

「お前に似合う服が作れれば、俺も嬉しいよ」

 笑みがこぼれる。了一君に向き直る。

「私も、私みたいなケモノの子達に、ファッションで人生を変えて欲しいって思ってる」

 黙ってうなずいてくれる。

「サンキューな、今日は時間あるのか?」

「ごめん、今から課題済ませちゃいたいし、今日もバイト」

「そっか、じゃあまた明日、色々案を描いて持ってくるよ」

「うん、また」

 購買部に向かって歩き出す。

「あ、おい」

 耳が立つ。振り返ると、了一君が数回頭を掻く。

「なにか困ったら、いつでも言えよ」

「ありがと。大丈夫だよ」

 小さく手を振って彼の背中を見送る。購買部に入り、ポリエステルとウールの生地を買い、プラザ棟を後にする。


「ええと、0時3分、これか」

 店の出入り口を見下ろす映像が拡大される。ぱっくり開いた後ろ身頃が確認できる。

「やっぱり」

「まったく、ここで犯人捜しするつもりなら、くれぐれも面倒は起こすなよ」

「わかってます」

 管理室を出て、廊下からロッカールームに戻ると、ドレス姿のエレナと鉢合わせる。

「あらら、店長となに話してたの」

 艶のない青い被毛、吻(ふん)は短く、猫っぽいケモノ。近づいてきて、タバコの煙を吹きかけられる。目をしかめる。

「今月の給料について確認したかっただけです」

「ふーん、イイお洋服買いたいもんね」

「ええ、まあ」

「ところで昨日の高そうなコートどうしたの? 良かったのに。今日の上着、まるで子供服じゃない」

「……精進します」

 エレナの横を抜け、ナイロンの掛かったハンガーラックから自分のドレスを取り出す。

「今日、指名あるの?」

「はい、3組おられます」

「名前は?」

「それは……」

「かわいそうに。名前も覚えてもらえない子なんかに騙されて。一体どんな汚い手を使ったの?」

 また副流煙に襲われる。

「……」

「ほら、さっさとそんな陰気くさい服脱いで、準備しなさいよ」

「わかりました」

 エレナがロッカールームから悠々と出て行く。

「――チッ」

 ロッカーを開け、ドレスを掛ける。服を脱いでバッグから消臭スプレーを取り出し、タバコの匂いめがけて噴霧してロッカーにしまう。ドレスを着て、メイクを済ませる。胸を左腕で抱えながらロッカールームから出て、轟音の波に飛び込む。

「あ、フランチェスカ。ご指名の方が到着されたところです」

「今行きます」

 ボーイに会釈して店の入り口に向かう。恰幅のいい男がこちらに気づく。

「おー、フランちゃん、また来たよ」

「ありがとうございます。お連れの方々は?」

「ああ、経営者仲間だよ。こういうケモノ専門店っていう世界もあるって知って欲しくてねぇ」

 彼の後ろに3人男がいた。手を前に組んで縮こまっている。私は両方の掌を見せる。

「日々気苦労が絶えないでしょうから、せめて今夜はめいっぱい楽しんでいってくださいね」

「あ、ありがとうございます」

「あの、触っても?」

「どうぞ!」

 一人が触れる。

「あ、ふにふに」

「あ、俺も」

「僕も、失礼します」

 3人の手が乗ったところで親指で全員の手を挟み込む。

「初めまして、フランチェスカです。気軽にフランちゃんって呼んでくださいね」

 3人の眉が開く。

「では、こちらにどうぞ」

 予約席に案内する。パーティションを超えると、円形のソファーにエレナがふんぞり返っていた。

「エレナさん? どうしてこちらに」

「4人でしょ。アタシが応援してあげる」

「どうかしたかフランちゃん」

「あ、いえ、こちらにどうぞ」

 エレナが恰幅のいい男性の脇にしがみつく。

「黒田様、お待ちしてましたぁ」

「いや、ワシはフランちゃんを指名してたんだが」

「いいじゃないですか黒田社長。若社長の方々がせっかくいらっしゃってるのに、彼女を独り占めしちゃかわいそうですよ」

「むぅ」

「行きましょ」

 エレナは奥の壁際に黒田さんを連れて行った。

「あ、ごめんなさい、こちらにどうぞ」

 待っていた3人にソファーを差して座ってもらう。

「ご注文、いかがなさいますか?」


「もふもふだねぇフランちゃん」

 下水の匂いがする。吐き気をこらえる。

「でしょ」

 乳房の痛みが強くなる。息を殺して男の口に口を付け、胸から両手をはぎ取る。

「お酒はもういいんですか?」

「俺酒よえーんだ、勘弁してくれぇ」

「えぇー? 頑張ってくださいよぉ」

「おっしゃ、じゃあいいとこ見せてやるぅ」

 エレナがこっちに近づいてくる。

「あら、そのいいとこ私に見せてくれる?」

 肩を押され、ソファーからはじき出される。ドレスの胸もとを直し、黒田さんに近寄る。

「おーフランちゃんご無沙汰ぁ」

 黒田さんが片手を挙げる。横に座り、空いたグラスにバーボンを注ぐ。

「お疲れさまです。エレナとは楽しんでいただけましたか?」

「あーあの子なぁ、結構サービス精神旺盛でな、アフターの約束しちゃったよ」

「へぇー! そうなんですね!」

「結構年いってる感じだけどな、色々話が広がって面白い子だし、エロいしな!」

 ガハハと笑う。

「うーん。この近くだと何がありましたっけ」

「獣性爆発ってホテルだよ、知ってるか?」

「ああ、はい」

 黒田さんが私にずっとうんちくを言い続ける。相づちを打ちながらエレナを流し見る。ドレスの上半身がはだけ、男の膝で上下に腰を振っている。ほかの2人は揺れる胸を見て楽しそうだった。テーブルに視線を戻す。空いたグラスにバーボンを注ぐ。ポップな音楽が流れていたことを今更思い出す。フロアに響く下手くそなカラオケも聞こえてくる。自分のドレスの胸もと、縫い代が剥がれていた。胸の被毛が唾で固まっている。被毛をかき分けると、赤くなった地肌が見えた。膝に両手を突く。相づちを打つ。歯が痛む。ゆっくり上あごと下あごを離し、浅く呼吸する。ドレスの胸もとを直し、かぶりを振る。

「どうかした? フランちゃん」

 横目で通路と天井を確認する。

「黒田さん、私のこと、見ててくださいね」

 足元にひざまずく。

「どうしたんだい」

 じっと黒田さんの股間を見つめる。

「黒田さん……」

 息を止め、上目遣いで、口角を上げて、口を天狗に押し当てる。目を閉じて、二秒。見上げる。黒田さんの目尻が落ちる。ゆっくりと離れ、膝に乗っかり、耳元に吻を近づける。

「イイ匂い、でしたぁ」

 ドスドスと踏みならされる絨毯の音。

「てめぇ、それでアタシに勝ったつもりかよ」

 右腕を掴まれた。

「離して!」

 無理矢理立たされ、左足に鋭い痛みが走る。壁に押しつけられた。

「どうかされましたか!」

 ボーイが飛び込んでくる。

「この子、過剰なサービスを働きました」

「ウソ! カメラに写ってるか確認してよ!」

「そんな必要ないわ」

 エレナは乱暴に離し、狼狽する黒田さんの前にかがみ込む。

「ねえ黒田社長」

 黒田さんの左太ももに右手が乗せられる。

「な、なんだ」

「この子に」

 スラックスに大きなシワが寄っていく。

「どんなことをされたか」

 右足がじたばたする。

「正直に答えて?」

 エレナが口を裂くように牙を剥く。

「言います! 言いますよ!」

 エレナが手を離して立ち上がると、黒田さんは床にへたり込んだ。

「なにやってんだ」

 ボーイが店長を連れてきていた。

「店長、違うんです。私は」

「もういい。今日は二人とも上がりなさい」

「なんでアタシまで」

「いいから、今回の処遇は追って連絡する。フランチェスカ、君から先に帰りなさい」

「……はい」


 動悸が止まらない。欄干に向かってうずくまる。舌が熱くなる。手で口もとを覆って出す。心臓が跳ねるような感覚。道頓堀のさざ波を見つめ、深呼吸を何度も繰り返す。

 鼻呼吸を取り戻す。小便臭い。バッグの中から消香スプレーを取り出し、手にとって鼻先にすりつける。

「――ハックシュン!」

 ハンカチで鼻先をぬぐい、立ち上がる。左足首が痛み、とっさに手すりを握る。

「大丈夫、こんなの、だいじょ――」

 耳がそばだつ。橋の南側の道を見るが、いない。後ろから近づいてくるのがわかる。耳を掴んで髪に埋める。ゲロ臭い空っ風にさらされる。左足首だけが熱い。

 耳から手を下ろし、バッグを右肩に担ぎ直し、両手でバッグの持ち手を握りしめる。声の方向に振り返る。黒マスクを着けた了一君が、リードを持って橋を渡ってくる。横にベージュの長い被毛の娘がいる。両手を首輪の前で垂らして、舌を出して、上目遣いで。

「りょーちゃん」

 両目が見開き、マスクが外される。

「――皐月?」

 脇腹に爪が食い込む。彼はリードの先を隣の娘に返す。受け取ったら、

「……またお願いしまーす」

 とっとと背を向け、後ろ手に首輪を外しながら喧噪に溶けていった。

「ねえ」

 彼はうつむき、下唇を巻き込んで強く噛んでいる。鼻でふっと笑うと、こっちを見てくる。眉をひそめてくる。私は首をかしげながら、ほほえみ返す。

「やっぱり、私じゃなくてもいいんじゃないかな。課題――」

 抱きしめられる。

「やめてよ」

「ごめん。本当にごめん。お前が辛いときにこんな……情けない」

「いいの」

 彼の頭をなでる。

「ぜんぶ、私が悪いんだから」

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