最初で最後。武士に二言あり。
初音
最初で最後。武士に二言あり。
こんなことをしている場合なんだろうか、という罪悪感は常にある。
その度に、これは息抜きだから、皆はもっと頻繁に遊んでいるから、そう言い聞かせてなんとか罪悪感を隅に追いやる。
山南敬助は、用意された酒をちびちびと飲みながら、彼女が来るのを待っていた。彼岸を過ぎたから、夜はなかなかやってこない。それでも、外がだんだんと暗くなるにつれ、喧騒の音も大きくなる。今日もこの島原遊郭にはたくさんの男たちがひとときの夢を求めてやってきているのだろう。
一人でここに来るのは、もう何度目だろうか。そろそろわからなくなってきていた。だが、この待つ間というのは慣れぬもので、今日もそわそわと落ち着かない心地である。
禿の少したどたどしい、幼さの残る声がした。
「山南せんせ、明里姐さん来はりましたえ」
襖がからりと開き、艶やかな着物に身を包んだ明里が現れた。
「山南はん、また来てくれはったん」
ぱっと咲いた笑顔は、この薄暗い部屋をも明るくするようであった。
「また、と言われてしまうと、なんだかしつこい奴みたいに思えてくるな……」
山南は苦笑いした。
「何言うてはりますの。うちは嬉しいんどす。ほんまは毎日だって来て欲しいくらい」
「毎日か……毎日は、なかなか難しいな」
「ふふ、山南はんは嘘がつけんお人やね」
明里は山南の隣に腰を下ろし、酌を始めた。
出会いは、半ば強引に連れてこられた揚屋だった。山南が副長職を務める新選組が贔屓にしている木津屋という店で、揚屋といっても置屋も兼ねる大きな店であった。
江戸にいた頃も吉原や他の岡場所で女郎遊びをしたことはある。付き合いで行った見世で一夜の遊びをしたり、馴染みとして何回か通ったりしたことはあった。だが、遊女に”入れ揚げる”という域に達したことはなかった。
あの時も、そのつもりだった。一晩酒を飲むだけのつもりだった。だが。
「山南はんは、なんや寂しそうなお人やね」
そう言い放った彼女の、儚げな笑顔が忘れられなかった。
もう一度、あの
山南は、木津屋から二、三町(二、三百メートル)離れたところにある揚屋に通っては明里を呼ぶようになった。
「なあ山南はん、たまにはうっとこのお店も来てみいひん?ここより広いお座敷もあるし、お料理かてええもん出しておもてなしできるのに」
「いや、いいんだ。仲間に見つかったら、何を言われるかわからないから」
「そおどすか?ま、うちは山南はんに会えるならどこでもええどすけどな」
そう言って、明里はまだ十分酒の入っている杯に銚子を近づけた。山南がくいっと飲み干すと、空になった杯はまた酒で満たされる。
明里は「仲間に見つかったら、何を言われるの?」とは聞いてこない。自分の気持ちは見透かされているのだろうか、とさえ山南は思う。そう、確かに、理由を話すのはなんだか格好がつかないのだ。
山南は半年ほど前、大坂での捕り物の際に左腕を斬られた。命に別状はなかったが、北辰一刀流免許皆伝の腕前はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。
言わば「お荷物隊士」になってしまった山南を局長の近藤はいまだ副長職として重用してくれている。かつて文武両道と評されたこともあった山南に、その「文」の方を隊務で役立ててほしいと。
「せやけどな」
明里の言葉で、山南は我に返った。なんだい? と尋ねると、明里はふわりと笑みを浮かべた。
「山南はんが、何かお悩みなんでしたら、なんでもうちは聞きますえ。うちは部外者かもしれんけど、部外者だからこそ話せることかてあると思いますから」
「ありがとう。でも、特に悩みとか、そういうことはないんだ。そりゃあ、新選組の仕事は骨の折れることも多いから疲れたり、息抜きしたいと思うこともあるけれど」
「ほな、うちはいつでも山南はんの息抜き相手になりますえ」
明里の笑顔に、山南は「ありがとう」と声をかけた。
***
がらんとした道場に、エイ! ヤア! と気合の声が響く。
山南は一人、稽古をしていた。
せめて、何かあった時に足手まといにはならないように。右手だけで剣が自在に扱えたら。
そんなことを思って、誰もいない時間を狙って稽古をしていた。だが、思うようにはいかない。
片手だと、上手く力が入らない。何か、根本的にやり方を変えなければ。
山南は、ふと、ある言葉を思い出した。それは江戸にいた頃、稽古中に近藤から言われた言葉だった。
「山南さん。北辰一刀流出身のあなたにこれを言うのは少し憚られますが、はっきり言わせてもらいます。天然理心流では、勝てばなんでもいいんです。最悪、足蹴りだって体当たりだって構わない。だから、理心流には柔術の稽古も目録に入っているんですよ」
近藤は自分の方が師匠だというのに、丁寧に、対等に、接してくれていた。それは今でも変わらないと思う。
「そうですよ、山南さん。まあ、歳三みたいにそればっかり、っていうのも考えものですけどね」
「お前はいつも一言余計なんだよ! 勝ちゃあいいんだろ、勝ちゃあ!」
共に稽古した近藤の姉・さくらと、天然理心流の先輩・土方歳三のそんなやり取りも思い出して、山南はふっと微笑んだ。さくらは今や島崎朔太郎と名乗り、新選組の副長助勤を立派に努めている。土方は、自分と同じ副長職について、隊の実務を一手に担っている。
「土方君には、水をあけられてしまったなあ」
山南は、片手での素振りを続けた。右腕ばかりが太くなって、左腕はいつか骨と皮だけになってしまうのではないかと想像したら、少し体が震えた。
(もしそうなったら、明里に会いに行くことはできないな)
山南はハタと手を止めた。いつの間にか「明里にどう見られるか」ということの重要度が自分の中で増していることに気づいた。そんな自分は、認めがたかった。
自室に戻ると、手紙が届いていた。明里からの、艶文であった。
――山南はんとおると、うちは仕事やいうことを忘れてしまうんですえ。また、来ておくれやす。
遊女に本気になったら駄目だと、若造の頃に道場の先輩に言われたことがある。彼女たちが送ってくる艶文だって、所詮は金づるを繋ぎとめるための社交辞令なのだから。
これ以上、進んではいけない気がした。
ただでさえ、自分は以前の半分も新選組の役に立っていない。遊女に肩入れしている場合ではないのだ。
そうかと言って、何も言わずに会いに行かなくなるのも不義理か、と思い山南は最後に一度だけ明里に会いに行くことにした。
***
馴染みの客に文を出すのは、遊女の大事な仕事だ。とは言え、たくさん書いていれば自然と文面は似通ってくる。
明里は、それでもいいと思っている。客同士が文を突き合わせて比べることなどないのだから。
だが、彼への文は、そんな定型文で送ることはできないと思っていた。かれこれ四半時(約三十分)、筆を持ったまま明里はぼんやり考えている。
京の町は、物騒になってきた。天誅だなんだと言って、男たちは血で血を洗う争いを繰り広げている。まさにそのただ中にいる男を相手にすることもあった。正直言って、おそろしかった。何かひとつでも粗相があれば、気に食わないことがあれば、斬り捨てられるのではないかと。
だが、彼は違った。
「ありがとう。なんだか久々に気持ちが明るくなりました。あなたのおかげですね」
侍が初対面の遊女に礼を言うなんて、稀なことだ。しかし彼は――争いの渦中にいるはずの新選組副長・山南敬助は――そう言って明里に笑いかけたのだった。
その少し寂しげな笑顔が、忘れられなかった。この人は、他とは違う。明里はそう思った。
「姐さん、文、出さんの?」
禿のなつきに声をかけられて、明里はハッと我に返った。
「そうやね……今書き終わっとる分だけ出しといてくれる?これは、また書けたら頼むえ」
なつきは、「へえ」と返事をすると、すでに書いてある手紙の束を持って部屋を出ていった。それと入れ違うように、「明里さん、入りますよ」と声がした。声の主が誰かを悟った明里は、書きかけの文をさっと隠した。
「お初はん。もうこないな刻限、そろそろ支度せなあかんどすな。えろうすんまへん、こないなこと本業やないのに」
お初と呼ばれた女性は「いえ構いませんよ」と笑顔を見せた。明里の身の回りのことを手伝ってくれる女中であるが、その正体は新選組の密偵である。なんと、女だてらに男たちと肩を並べて戦いの中に身を投じているのだという。
(お初はんは、毎日山南はんに会えるんやなあ)
ふと、そんなことを思ったら、たまらなく羨ましくなった。
そうだ、会いたい。毎日でも。好きな時に、好きなだけ。そんな気持ちを文につづってみようかと思った。
明里が夢想していることなど知る由もないお初は、てきぱきと帯の用意をしている。
「今日は町奉行所の方たちの宴席ですよね。頑張ってくださいね」
「へえ、おおきに」
(そうや、うちはどんなお客はんも笑顔でおもてなしせなあきまへんのえ)
天神になる前に、女将から言われた。身請けが確実にでもならない限り、特定の客に入れ込んではならぬと。
山南が自分を身請けして、妻でも妾でも、とにかくそういう女として選んでくれるとは思えなかった。
(なんやあの人は、どこか一線を引いてるようなところがあるのや)
毎日会えるなら、会いたい。けれど、それは許されない。
***
布団の中で、明里は真っ直ぐに山南の顔を見ていた。新選組の一員ともなれば、明日をも知れぬ身。いつ目の前からいなくなってしまうかわからないから、こうして会える時にはただただいとしい人の顔を見つめる。この幸せな時間が、いつまでも続けばいい。続かないのなら、止まってしまえばいい。
しかし、山南は明里の頬を優しく撫でながら、こう告げた。
「君に会いに来るのは、これで最後にしようと思う」
「……なんでどす?」
明里は、思わず聞いてしまった。
客が来ないと言えばもう来ないのだ。その決意が固いのなら、どうしようもない。それでも明里は、理由を知りたかった。
「それは……」
「もう、お会いにならへんおつもりなら、最後に聞かせてくれてもええやないの」
山南は「そうだな」と言って体を起こすと、右手で自分の左腕を握った。
「私はね、腕を怪我して、以前のように剣を振るえなくなってしまったんだ」
「え……」
明里は驚いて、自身も起き上がって山南を見た。
「新選組では一応、剣術以外で役に立てるようにと働いているが、やはり引け目はある。だから、本当はここに通う資格なんかないんだ」
「そないなこと……」
「君には感謝している。いい夢を、見させてもらった」
明里は、じっと黙って山南を見た。
「そう……どすか。山南はんがそう言わはるんなら、うちには止めることはでけしまへん」
今度は、山南が驚いたような顔を見せた。
「自分から言っておいてなんだが、引き留められるかと思ったよ……ほら、客は多い方が君にとってもいいだろうし」
「ほんまや。自分から言うておいてなんなんどすか。そりゃ、お客は多い方がええ。せやけど山南はんは……ただのお客やおへん。せやから、うちはなぁんも言えしまへん」
「ただの客じゃない……?」
明里はじれったそうに山南の手を取った。暖かく、少し汗ばんでいるその手を、離したくないと思った。
(そうや。本気で惚れてもうて後戻りできんようになる前に、お別れするのが一番ええのや)
受け入れたつもりだった。だが頭で考えることとは裏腹に、山南の手を握る指先には力がこもる。
「なあ山南はん。ほんまにもう会えんの?」
「明里……」
「腕の怪我のことで会えへんのなら、初めから会われへんかったらよかったのや。せめて、二回目に来るべきやなかったのや。なんで、うっとこに通うてきたのや」
山南は、明里の手に自分の手を重ねた。
「はっきりと、理由らしいものはないんだ。ただ、君の、明里の笑顔が忘れられなくて。これ以上会っていると、その……溺れてしまうと思ったんだ」
明里は「うちかてそうや」と蚊の鳴くような声で言った。
「山南はんはただのお客やないいうたのは、本気やからや。遊女は、本気になったらあかん。せやけど、山南はんのことはお客と割り切ることができんのや」
山南は明里の手をぐっと引き寄せ、その腕で抱き込んだ。
「私のことを、そんな風に思ってくれていたとは……ずるいな。離れがたくなってしまう」
「うちかて……本心では離れたくあらへん」
「明里……」
山南の腕に力が入ったが、彼は何も言わなかった。
「山南はん」
明里は意を決したように名を呼ぶと、体を離して山南を見た。
「うちは、待つことしかできひん立場どす。うちに会うのも会わへんのも山南はん次第。せやから、うちは今日のことは聞かなかったことにします。絶対山南はんはまた来てくれはるて、そう思うとります。そないな風に思うのは、うちの勝手やもんね?」
山南はわずかに笑みを見せた。それを肯定と捉えて、明里は期待に胸を高鳴らせた。
「なあ山南はん……そない、お仲間はんに気兼ねしてるのに、新選組をお辞めになることは考えたことあらへんの?」
山南が目を丸くしているのを見て、明里は「すんまへん、出過ぎたことを言いました」と俯いた。だが山南はクスリと笑った。
「考えたこともなかった。私は……あの場所が大好きなんだ。だから私ができる精一杯のことはやりたいと思っている。うん……そうだな。明里にも、また会いに来るよ。本当は武士に二言は許されないから、他の誰にも言わないでくれよ。今回だけだから」
明里は、パッと顔を輝かせた。今度ははっきりと言われた「また来る」の一言が嬉しくて、明里はぎゅっと山南に抱きついた。
「約束え。うち、口は堅いんどす」
山南は「ありがとう」と微笑んだ。この人を好きになってよかったと、明里は思った。
***
揚屋を後にした山南は、憑き物が落ちたような清々しい気持ちで賑やかな島原の街中を歩いていた。
(明日からも、がんばろう)
そんな風に思えるのは、やはり明里のおかげなのだ。手放しかけて、そのことに初めて気づいた。新選組のことも、明里のことも、全力で向き合えばいいのだと、すとんと腑に落ちたような心地である。
いつか、明里を迎えに行こう。仲間にも、明里にも、恥じない働きをして、必ず迎えに行こう。
新たな目標を胸に、山南は帰路を急いだ。
最初で最後。武士に二言あり。 初音 @hatsune
★で称える
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