ハラスメント × ハラスメント
瀬古 礼
Harassment-File 01 ゼクハラ
「ただいまー。」
俺の気の抜けた一言は、狭苦しいアパートの一室に空しく響いた。疲労困憊で帰ってきた彼氏を、彼女は今日も出迎えてくれないようである。
同棲したての頃は「お帰りのチュー」とか何とか言って、わざわざ走って出て来てくれたのになあ……だなんて思うと、何だか無性に寂しい気持ちになる。まあ、俺たちは付き合い始めてもう7年以上経つ訳だし、仕方がないことだとは分かっているのだ。「恋」というヤツは生物学的には3年で覚めるらしいし、そもそも男女がいつまでも付き合いたての甘々カップルのままでいられるのであれば、わざわざ離婚なんてする夫婦はこの世にいないのだから。そんなことを考えながら安くて古い賃貸物件特有のあの臭い匂いがする不潔な洗面所で手を洗い、もう3日は変えていないタオルで手を拭った。
―――あの頃はこんな場所でも、2人で暮らせるって言うだけで幸せだったのにな。
リビングへと進むと、見慣れた彼女のかわいい横顔が案の定パソコンとにらめっこをしていた。
……ああ、また今日も始まるんだな。
俺が辟易とした顔で小さく「ただいま」と呟くと、彼女はこちらをちらりとも見ず「あー、帰ってたの」と呟いた。
「今日は味噌ラーメン買ってきたから。」
流しの方を見ると見慣れたインスタント麺が2袋、ステンレスの小鍋の横にポツンと置かれていた。鍋には既に500ml分の水が入れられている。机の上には、刻んだネギとバターのチューブも用意されていた。
「最近塩ラーメンばっかりだったし、飽きてきたでしょ? 」
そう言うと彼女はノートパソコンを折り、タブレットモードにして立ち上がる。
「……だからさあ。俺が何か晩ご飯作るから、もういい加減インスタント麺は辞めよう? ここ最近毎日ラーメンだし、身体にも悪いよ。」
「大丈夫でしょ、まだ2週間くらいだし。それよりさあ、見て? このウェディングドレス。ここの装飾がすっごくいいと思わない? 派手過ぎず、品もあってさあ……。」
「……ああ。そう、だな。」
確かに俺たちは4年以上も同棲しているが、少なくとも今の俺にはまだ彼女と結婚するつもりはない。というのも、今回のコロナの煽りを受けて俺は呆気なく失職してしまったのだ。会社の減量経営のためのリストラ、それによって俺は真っ先にクビを切られた。
もちろん俺とて、こんなにも長く付き合ってきた彼女との結婚という選択肢が頭に1ミリもなかったわけではない。しかし、今まで「いつかこの人と、一生忘れられないような盛大な結婚式を挙げられるように」と思いながら必死にやりくりして貯めてきた結婚費用を切り詰めながら過ごす日々の中、無意味なプライドが邪魔をしてリストラされたとは言い出せず、遂には「会社、倒産しちまったよ」だなんて子どものような嘘まで吐き始めてしまったのだ。そうやってハローワーク通いをしている今の俺にとって、結婚という選択肢が現実から遠い存在へとなっていくのは自然なことであった。
いくら彼女も無収入ではないとはいえ、いつまで経っても次の就職先すら決まらない俺に愛する女と結婚する資格なんて無いに決まっているだろう。
それなのに、彼女は―――。
「このドレス着た私、見てみたくない? 」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女は最近、これまで二人で分担してきた家事もほとんど受け持たず、結婚にまつわる情報ばかりを追いかけている。今は少しでも節約しないといけない状況だというのに、部屋には結婚雑誌が大量に増えていく。
確かにこの現状は、俺の不甲斐なさが招いた結果だ。それについて彼女には何の責任もない。そしてこんな俺との将来を当たり前のように考えてくれているのは素直に嬉しい。本当に、ありがたく思っているのだ。けれど……。
少し、いやかなり楽観的過ぎるんじゃないか?
こんなに危機感のないヤツと結婚して、俺はこの先本当に大丈夫なのか?
どうしてもそう、思ってしまう。失職しハローワークに通う日々がそうでなくても苦痛で、心が粉々に砕けてしまいそうだというのに、それなのに。
最近の俺は、愛しく思っているはずのこの女性と一緒にいるのがたまらなく不快だ。ウェディングドレスの話題が出る度、こんな綺麗なドレスを着せてやることなどもうできないであろう自分を責められているように感じて眩暈がする。また今日も結婚をせがまれるのかと思うだけで、吐き気がする。
彼女を愛している、それなのに―――。
「私、ただこのドレスを着てみたいわけじゃないんだよ? あなたの隣で――」
「別れよう」
絶対に言ってはいけない一言が、心の淵からほろりと零れ落ちた。まずいことをしてしまった、そう思うと同時に、もしかするとこの地獄から解き放たれるかもしれないという姑息な期待感が胸の奥から湧き上がってくる。そんな自分に嫌気がさしつつも、俺は彼女の方をひっそりとうかがい見た。
すると―――。
彼女の瞳から滲み出てきたのは、背筋が凍りそうになるほどに濃い絶望の色であった。折り畳んだパソコンを持つ手が小刻みに震えているのが分かる。彼女の全身が、深い哀しみに染め上げられていく。その様を目の当たりにして、すぐ目が覚めた。
ああ、俺は仕事を失くしただけじゃなく、大切な人を不用意に傷つけてしまうほどまでに落ちぶれてしまったのか。
改めて思い至った。
やはり俺は彼女と結婚する資格など持ち合わせていない、とんだクソ野郎だ。だってそうだろう? 愛する女に結婚をせがまれて、吐き気を催す男がどこにいる。一体どこの誰が、愛の言葉に対してあんなひどい言葉を投げかけられるんだ。俺は異常だ、人間の屑だ、存在してはいけない生き物なんだ。
そんなことばかり考えて黙りこくっている俺に向かって、彼女の口から放たれた言葉は本当に想定外の一言だった。
「嘘、だったんでしょ? 」
「へ? 」
彼女は一体、何を―――
「会社、倒産してないよね? 」
「あっ……。」
「もうさあ、何でそんなすぐバレる嘘なんか吐くの? ……いや、分かるよ? いくらコロナのせいだとは言え、私にリストラされただなんて言いたくなかったんだよね。でもね、バレバレ。だって私達、もう7年も付き合ってるんだよ? あなたの顔を見ただけで、嘘吐いてるかどうかなんて簡単に分かるの。」
ばれ……てたのか。
つま先から耳まで、一気に羞恥の色に染まっていく。
そんな俺に一切構うことなく、彼女はまくし立て続けた。
「ここのところ、ずっと無理してたでしょう。そんなあなたの姿をただ見てるだけなんて、私、できないからさあ……。でも下手な励まし方して、リストラされたこと察してるって分かると、気まずいんだろうなって思って。……だったら! 私にできることなんてもう、一生そばにいること位だなって思って―――。」
彼女の言葉尻に涙が滲む。それに当てられた俺の頬にも、幾つもの感情が凝縮された雫が何本も伝っていった。
「ねえ、それでも私と別れたいの? 私、大丈夫だよ? いい転職先なんてなかなか見つからないだろうし、きっとこれから苦労するだろうなとは思うけど。……将来、この選択を一度たりとも後悔しないと言い切ることもできないけど。でも! 今別れると、一生後悔し続ける自信だけはある! もう私、あなた以外の隣なんて想像できないの。」
そう言って俺の右手を掴み、困ったような顔をして微笑んだ彼女の姿はたまらなく綺麗だった。れっきとした愛の言葉なのに、さっきまでとは違って吐き気を感じない。そうか、俺は彼女自身に嫌気が差していたんじゃない。彼女の期待に応えられない自分の弱さが、吐き気がするほど嫌だったんだ。そして、そんな自分の情けない姿に失望されたり責めたりされることも怖かったのだ。でも、そんなものは俺のただの独りよがりな心配にすぎなかった。彼女は俺のそんな部分を、とっくの昔に受け入れてくれていたのだ。
それに気が付いた瞬間、俺の醜い自尊心の風船が弾け飛ぶ音がした。その跡を埋めるように膨らんでいったのは、間違いない。出会った頃の、あの頃の気持ちだ。
「ごめん、本当にごめん。情けなくてごめん。俺もずっと、一緒にいたいよ……。」
「……バカ。」
「愛してるんだ……。」
「ふふ、知ってる。」
そう微笑んだ彼女を俺はじっと見つめる。どちらからともなく交わした久しぶりの口づけは、あの頃の僕たちの帰還を祝福するような、そんな甘ったるいものだった。
「俺にこんなこと言える資格があるのかどうか、今でも疑わしいんだけど……。でも、ちゃんと言わせてほしい。」
「……うん。」
「幸せにするとは言えない、でも。絶対に後悔だけはさせないからっ! だから俺と、その……。結婚してく―――」
「喜んで! 」
「ちょっと! まだ早いよ! 」
――ゼクシャルハラスメント。通称“ゼクハラ”。
交際相手に強引に結婚を迫るハラスメント。
一方の「早く籍を入れたい」という焦りと、もう一方の「まだ安心して結婚できる状況になっていない」という主張が喰い違うことで起きてしまうのが一般的とされる。
一見ただの揉め事のようにも感じるが、結婚という二文字が与える精神的プレッシャーの圧倒的な重さにより、ハラスメントとして認定されるケースが後を絶たない。
しかし、その大きな特徴として「どちらも敵意や害意を持ってるわけではない」という点が挙げられ、その根底に互いの未来を心から思いあう「優しい気持ち」が存在している場合も、決して少なくはない。
(諸説あり)
ハラスメント × ハラスメント 瀬古 礼 @rei-seko39
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