家守帰し

遙夏しま

家守帰し

 仕事から帰るとゴキブリホイホイを仕掛けてほしいと彼女にいわれた。アパートのゴミ捨て場に出るのだという。ゴミ捨て場は僕たちが住んでいる部屋から数メートルのところにある。台風を前にして、ここ数日は大量にゴミが捨てられている。「家に入っちゃったら私、もう死ぬ」虫嫌いな彼女は眉間にシワを寄せていた。大げさなもんだ……頭のなかだけでそう呟いて、僕は深夜までやっている近所のドラッグストアへ向かうことにする。


 ひさしぶりに買ったゴキブリホイホイは相変わらずゴキブリホイホイだった。子供の頃に実家で見たのといっしょのデザイン。紙でできたやけに平べったい造りの家。赤い屋根に猫がのっていて、窓ではコミカライズされたゴキブリがご機嫌に手をふっている。独特の匂いがする餌は、なるほどゴキブリが人間の家を好むだけあって、冷静になって嗅ぐと悪くない匂いがする。説明書を見ながら組み立て、玄関の前に置いてみる。


「あさってには台風がくるみたいだから、今晩だけつけるよ?」台所でジャスミン茶を煎れている彼女に伝える。「はーい」と返事をしてしばらくすると、彼女は「えっ、ってことは」と言いながら小走りで玄関にきた。


「もし今日、つかまるとするじゃない」

「うん」

「台風のあいだ、どうするの?」

「どうって……ゴミ箱に捨てておけばいいよ」

「家の中にゴキブリがいるってことでしょう」

「ゴミ出しすればいなくなる」

「だって燃えるゴミは今日、収集されちゃったんだよ?」


 ため息が出そうになるのをこらえて「じゃあいいじゃないか。仕掛けなくて」というと、「いやよ、残ったゴキブリが台風を避けて家にくるかもしれないじゃない」という。ゴキブリが台風避難をするという発想がとてもいい。シルバニアファミリーの世界みたいだ。どうしろっていうんだと言いたくなる気持ちを押さえ込むため、僕は彼女に気が付かれないよう深い呼吸を三回する。


「ともかく、ゴキブリホイホイは仕掛けることにして、もしゴキブリがつかまったら、どこかに捨ててくるよ」と僕はいう。モラルには反するが家のゴミ捨て場じゃなくとも公園やコンビニにゴミ箱はあるし、いざとなったら近所の更地にでも埋めておけばいいだろう。彼女に解決策を求めても仕方ない。なるべく余計なことは言わずに、僕は出されたジャスミン茶を飲む。彼女が先々月、会社の友人と沖縄旅行をして買ってきたものだ。


「今回の台風はかなり強いらしいよ」


 彼女が携帯を見ながらいう。


「窓ガラスとか補強して、窓から水が入るのに備えて、ペットのおむつを設置するんだって、あと停電には……」


 その準備のほぼすべてを結果的に僕がやるのだろうなと思いながら、うんうんといってジャスミン茶のおかわりをもらう。こういうときの彼女に押し付けるつもりがまったくないのはよくわかっている。とにかく不安でそしてそれを聞いて欲しくて、それ以上は想定がないのだ。そういうものなのだ。だから台風準備だってやってもいいし、やらなくてもいい。やらなければ彼女が延々、あらゆる言いかたで不安を口にしつづける。それだけだ。つまり快適で静かな暮らしを志向する僕に、彼女の言葉を無碍にする選択肢はない。


「とにかく明後日、台風がきて、それまでに台風対策をしつつ、ゴキブリをなるべく捕まえ、ゴミは家に残さない。そういうことなんだね」といい、僕は頭のなかの要件定義書にメモを残した。彼女は携帯から目を離さず「うん」と言い、「あと925ヘクトパスカルまでいくみたいよ」と得意げに言った。僕にはその925がいったいどういうものなのかよくわからなかった。彼女もたぶんよくわかっていない。「ヘクトパスカルを調べる」が頭の中の要件定義所に追加された。


――――――


 次の日の朝、なぜかちょっとわくわくしながら玄関のゴキブリホイホイを確認してみると、そこにゴキブリは一匹もかかっていなかった。


 その代わりといった具合に一匹のがかかっていた。取り餅のところに下あごから腹から、前後の脚から尻尾から、べったりと貼りついている。目は見開いているが身動きひとつしない。死んでいるのかと思って、軽くつついてみると、慌ててぐねぐねと体をよじらせる。


 ヤモリ。


 僕はしばらくヤモリを見る。白っぽい肌が奇妙にすべすべとしていて、ギョロリとした白目のなかに小さく細い黒目がある。口はトカゲそっくりにぱっくり割けていて、時折、その口もとから舌をぺろりとのぞかせる。見ようによってはかわいくも見える爬虫類はちゅうるいの顔。


 ゴキブリホイホイごと袋に入れて、どこかに捨てにいくかと考えながら、しばらくヤモリを観察する。ヤモリは僕につつかれたせいで極度の緊張状態になっているらしく、定期的にぐにょぐにょと体をよじっている。この場から逃げようとしているのだ。しかし取り餅がこの小さな体を逃すわけもない。ちょっともがいては余計に脚や腹をネバネバにひっつけて、再びじっとするのを、ヤモリは何度も繰り返していた。


 妙に生ぬるい風が共用廊下をとおりぬけた。

 台風が近づいているのだ。


 ふと自分がヤモリに対して「そのうち死ぬだろう」と「なんとか助けることはできないだろうか」、ふたつの考えを抱いていることに気がつく。一度、それに気がつくとなぜかヤモリを助けるべきなんじゃないかという気持ちのほうが強くなっていく。


 だってヤモリは無罪である。玄関の共用廊下で照明に集まる虫たち――そのなかにはおそらくゴキブリも含まれている――を追いかけたり喰んだりしては、粛々と彼自身の生を営んでいただけだ。ヤモリは「家守」と書く。害虫をもエサとして食べてくれるこの爬虫類は昔から益虫とされている。人々に迎えられるべき存在であり、家に現れても殺す必要はない。


「それがゴキブリホイホイ……」


 僕は試しにヤモリを軽くつまみあげてみた。人間の力でひっぱったら、あんがいキレイにパリッとはがれるんじゃないかと思ったのだ。

 しかし指でつまむくらいでは、ヤモリの体はまったくはがれない。

 僕が引っ張るとヤモリはぐにょぐにょともがく。思わず「ごめんごめん」とヤモリにあやまる。ヤモリは無表情でペロリとやっている。痛いんだか、怖いんだか、不快なんだか、こちらがうかがう術はない。何回かごめんごめんぐにょぐにょを繰り返して、数分、取り餅と格闘する。ヤモリの状況は変わらない。


 むしろある拍子に尻尾がすこしちぎれてしまった。僕はぎょっとしたがすぐにトカゲの尻尾を思い出す。尻尾をちぎられたヤモリはけろりとしている。血も出てこない。やはりだ。尻尾で死ぬわけじゃないのだ。


 このまま引っ張ってもラチがあかないと思い、携帯をとりだしてネット情報を検索してみることにする。「ゴキブリホイホイからヤモリを助ける方法」なんて、いくらGoogleでもさすがに知らないだろうと思ったが、検索結果にはさも当然のようにヤモリをゴキブリホイホイから助けた人々のブログ体験談が羅列されていた。


 ネットで紹介されていたヤモリのはこうである。


 ◯ヤモリの体に沿ってゴキブリホイホイをハサミで切り取る

 ◯ヤモリが溺れないよう浅い水にひたして紙をふやかす

 ◯サラダ油を塗り(粘着性が落ちる)爪楊枝つまようじで慎重にはがす

 ◯油が浸透すればヤモリが動くのにあわせて取り餅が外れる

 ◯焦ってヤモリの手足の指を折らないように


 感心するほど具体的に手順が記されている。この世には日常的に何度もヤモリをゴキブリホイホイにかけ、それを丁寧にはがす人々がいるのかもしれない。世界はインターネットによって思わぬところでつながっていく。そして連帯感が僕たちを包み込み、やがて世界はひとつになるのだ。ハローワールド。


 僕は台所へいく。「ゴキブリかかってた?」と聞く彼女に「いや」とあいまいな返事をしながらヤモリ救助セットを用意した。


「なに? 工作? 台風対策?」

「そんなところだね」

「なによ? やっぱりゴキブリいたの?」

「ちがうよ」


 しかし彼女は勘がいい。


「やだ。もしかしてネズミ? 最悪」


 顔を青ざめさせた彼女は玄関を見てそのあとなぜか僕を睨む。僕は観念してヤモリだと伝える。彼女はゴキブリにもネズミにも、もちろんヤモリにも同じリアクションをする。


「やだ気持ち悪い。はやく捨てて」

「この家のゴミ箱に?」

「何いってるの! 冗談やめてよ! いいから捨ててきて」

「ヤモリは捨てて欲しい。でも家には捨てたくない。コンビニや公園は勝手にゴミを捨てられない。ポイ捨てもよろしくない」

「こんなときになに言ってるの」

「僕がやるんだろう? 僕のやりたいようにやるよ。別に家にヤモリを離すわけじゃない」

「だって……なにするの?」

「僕がやるんだろ?」


 そこまでいうと彼女は一度、肩でため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。勝手にしろといった具合で洗濯をまわしにいった。彼女に見えないように僕も大きくため息をつく。すこし気持ちが落ち着いたのを見はからってヤモリ救助にとりかかる。


 ヤモリはまだぐにょぐにょとやっていたが、その動きは見つけたときよりあきらかに鈍くなっていた。よく見ると腹側の皮膚が剥がれ、右の前脚のいくつかの指も変な方向へ曲がっている。骨が折れているのかもしれない。左腿の付け根も皮がはがれ、そこからは血が滲んできている。それでもなおヤモリはもがき体を震わせる。発見してから20分くらいしか経っていないのに、これだけ消耗している。残された時間は多くないかもしれない。妙な緊張が起こる。


 僕はヤモリの周囲に小指一本分くらいの余白を残して、ゴキブリホイホイを切りとる。ヤモリの手足を切ってしまわぬよう、慎重にハサミをいれる。取り餅のねばつきがハサミの刃にまとわりつく。ヤモリの危機感が最高潮になり、激しく動きまわる。それをいなしながら切り取ると、用意した器に水を少し注ぎ、くっついたヤモリをひたす。


 こんなものでふやけるのだろうかと半信半疑で数分ほど待ってみる。ふやける気配はない。ダメかと諦めつつも、時間がかかるのかもしれないと思い、そのまま朝食を食べにもどる。彼女は怪訝な顔をしながら目玉焼きを焼いていた。トースターからうすっぺらい八つ切りの食パンが飛び出る。「ねえ、まさか助けてるの?」という彼女に「うん」とだけ答える。トーストへ手を伸ばすと「手、洗ってきてね」と言われ、僕はトーストを取り出すのをやめて洗面所へ手を洗いにいった。


 朝食を終え、ニュースを見ながら着替えていると、ヤモリを見つけてからもう一時間ほど経っていることに気づく。


 慌てて玄関へ行く。ヤモリはじっとしている。死んでしまったかと思ったが、ヤモリがひたされた器を手に取ると鈍くもがいた。死んだわけではないようだ。変温動物という言葉が頭をよぎる。なるほど、水にひたされたため体温が下がって動けないのだろう。

 ゴキブリホイホイの紙が水を吸って柔らかくなっている。僕はティッシュにサラダ油を少量染み込ませ、ヤモリの頭、前脚、腹、後脚、尻尾と、接着面に染み込むように塗っていく。ヤモリは喉の下を膨らませたり、縮ませたりをしながら大人しくしている。動けないのは好都合だ。


 爪楊枝で慎重にヤモリと取り餅とのあいだをつつく。


 油はたしかに取り餅の粘着性を無効化していった。顎、首、後脚とあっというまに剥がれていった。見ていて気持ちが良いくらいだった。尻尾と腹、前脚を残して、ヤモリは数時間ぶりの体の自由をたしかめるように、ゆっくりもがいた。その動きにあわせて爪楊枝を短くなった尻尾の下にさしこんだ。尻尾が自由になると、あっという間に腹も剥がれた。


 最後に右の前脚が自由になった。ヤモリが粘着性を失った取り餅の上をよたよたと歩いた。折れていたと思った指は、取り餅に変な角度で張り付いていただけで、どうやらほとんど折れていなかったようだ。一本だけ真ん中あたりの指がくたりとしていた。たぶんこれは諦めるしかないのだろう。


 器を乗り越えて、ヤモリがよろよろと駆け出す。僕は掌にヤモリをのせると、慎重に移動し、隣の部屋の室外機の下にヤモリを放った。まだ体の下に多少、粘着剤がついているようで、ヤモリは動きにくそうに室外機の足元へ逃げた。自分が安全だと思った場所までいくと、ヤモリはそのままじっとしていた。


 手を洗いに戻ると彼女はもう出かけるところだった。


「仕事いくね」

「うん」

「けっきょく助けたの?」

「うん」

「助けてどうしたの?」

「さあね」


 彼女は無表情のまま「まあいいわ」といい姿見の方へ向きを変えた。


「なんで助けたの?」

「なんでって?」

「ヤモリよ。わざわざ。なんで助けたの?」

「ないよ理由なんて」

「なくはないでしょう?」

「ないよ。なんとなく……」

「じゃあ、あなたゴキブリも助けるの?」

「まさか」

「ヤモリを助けるあいだ、なにを考えてたの?」

「別に……ヤモリは家を守ってくれるとか」

「信心深いのね」

「やめてくれよ。信心とか」


 彼女はわずかに笑うと「煩悩即菩薩」といった。「なんだよそれ」と僕がいうと「別に悪いことを言ってるわけじゃない」と言ってそのまま出かけていった。帰りは遅くなるという。彼女は広告代理店に勤めている。年齢のわりには出世していて自分のチームをもって仕事をしている。今、手掛けているのは売れない作家を売れる作家にするためのプロジェクトなんだそうだ。いろいろな仕事がある。


 あと少しで僕も仕事に行かなければならない。台風は明日、来るらしい。助けたヤモリははたして嵐をやりすごせるだろうか。僕にはわからない。助けた理由だって本当にわからないのだ。

 室外機のほうを少し眺めてから、今日は早めに退勤してホームセンターに行かなければならないと、僕は頭の要件定義書を更新する。吹く風が温かい。灰色の空の下、あたりは奇妙に静まり返っている。

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