終章 彼女の旅立ち


 クローゼットの奥にひっそりとしまい込まれていた古いランドセルを紗代は取り出した。

 古い革はざらついていたが、それだけではなくて表面に激しく傷がついている。車に跳ねられ、道路に引きずられたときについた傷だった。

 幼い頃は事故の恐怖を思い出す物なので、あまり見たくはない品物だった。だが、手放すことはできなかった。


 脇についた名札には「高橋紗代」の文字。これは祖母がプレゼントしてくれた、今は失ってしまった家族の象徴だった。これを処分したら、「高橋紗代」だった頃の――人間だった頃の自分が無くなってしまうような気がして、ずっと目につかない場所にしまい続けていたのだ。



 陽樹がラボを離れて高倉の病院に入院してから二ヶ月あまりが経っていた。陽樹とは時々手紙のやりとりをしている。手紙には明るい話しか書いていなくて、紗代にとってはそれが不安になることもある。けれど、陽樹はちゃんと生きていて、快復に向かっているのは間違いないようだった。


 退院したら、紙飛行機の折り方を教えて欲しいと書いてあったこともあった。以前は「僕は君のようには折れないよ」なんて言っていた陽樹だが、自分でもやってみる気になったらしい。

 それはきっといいことだ。紗代は素直にそう思うようになっていた。



 自分が変わっていくことだけではなく、陽樹が変わっていくこともまた、良い変化なのだ。



 陽樹の手紙と一緒に、高倉からも手紙が届くことがある。

 彼もまた、以前にここに医師として勤めていたことがあるから紗代にとっては数少ない知人のひとりだ。時々何を考えているのかわからない、捉えどころのない人物だったけれど、紗代には優しかった。陽樹の優しさと違うのは、高倉は誰にでも同じ優しさを向けるのだろうということだ。陽樹が紗代に向ける「特別な相手への優しさ」とは違うのだ。


 高倉の手紙には、陽樹への移植は完全に成功していることと、もう間もなく退院できるだろうということが綴られていた。

 陽樹がここに戻ってくるときは、紗代がここから旅立つときでもある。陽樹は戸籍上は既に死亡したことになっていて、紗代にとってもラボは完全に安全なのだとは言い難くなっていた。

 その時に持ち出す物を、紗代はさして多くもない持ち物を眺めて悩んでいた。



「金では買えない物だけを持って行くんだ。旅をするときは身軽な方がいい」


 自称職業旅人の健一郎は、神妙な顔でそうアドバイスをした。そう考えながら改めてみてみると、本当に持ち出す物は少なかった。最低限の着替えと、夏の終わりに咲いたヘブンリーブルーから採った種。航空力学の本は、悩んだあげくに置いていくことにした。すっかり内容は頭に入ってしまっているし、思い出のある本だといってもなかなかにかさばる。


 ランドセルも本も、ここに置いていく。それは過去との決別で、陽樹と生きていくという決断だった。



 今まで、ずっと見送るばかりの人生を送ってきた。


 高橋の祖母を見送り、ラボに来てから最初に見送ったのは実の祖母だった。貴種は次々と紗代を残して世を去って行き、その度にぽっかりと空いた隙間を埋められないままで窓から暗い空を眺めていた。

 棺が乗せられた黒い車を見送るのは嫌だった。だから、空を見ているしかなかった。



「ふたりとも、元気でやれよ!」


 晴れ晴れとした笑顔で手を振る健一郎の隣には、対照的に心配そうな永井が立っている。


「何か困ったことがあったらいつでも連絡しろ。できる限りは力になる」


「ありがとう、永井くん。でもなんとかなるよ。大丈夫。ひとりじゃないからね」


「おーおー、惚気か。紗代、もし陽樹と大喧嘩したら戻って……って、ここは無くなるんだったな」


「もし喧嘩をすることがあっても、ふたりでなんとかするよ。ありがとう、健ちゃん」


 紗代が言い切ると、陽樹が輝くような笑顔を向けてきた。彼の黒い目は紗代と同じ金にも見える薄い茶色に変貌してしまったが、それは陽樹の何も損ないはしなかった。むしろ、彼によく馴染んでいる。



 陽樹が笑い、泣きながら側にいてくれたから、紗代はこのガラスの檻から抜け出すことができた。


 今初めて、見送られる立場になって、長い時を過ごした場所を去ろうとしている。

 貴種にとっての悲しい理想郷を捨てて、あるかどうかわからない楽園を目指すのだ。もしかすると、それは遠くではなくて、陽樹と手を取った足元にあるのかもしれないと紗代は思った。



「そろそろ行くよ。永井くん、健さん、元気で。またどこかで会おう」


 ただ手を振って別れるつもりだったのに、陽樹がそんな風に再会を約束するものだから、紗代もつい口に出していた。


「またね!」


 どこかで必ず彼らには会うだろう。近いうちかもしれない、少し先の話かもしれない、長い長い時の果ての、ここではない場所であるかもしれない。わかるのは、何かの糸が自分たちの間を繋いでいるということだけ。


 左手に小さな鞄をひとつだけ持って、紗代は陽樹と一緒に歩き出した。

 右手の先には、一番大事なもの。

 手をしっかりと繋いだ陽樹が、紗代の手を握り返してきた。

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楽園は遙か遠く 加藤伊織 @rokushou

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