第5話

「ありったけ飲むぜぇ、かんぱーい」


「なんであんたと差しで飲まなきゃいけないんだ」


 テーブルの上に並んだ酒瓶と缶を挟んで、永井と健一郎は向かい合っていた。



 高倉から渡されたデータで完全に陽樹が貴種の体を持っていることを確認することができ、永井は背負い続けた重い荷物がようやく消えたことを知った。

 陽樹は戻ってきたその日のうちに、紗代を連れてここを去って行った。持ち出したのは本当に僅かなものだけだ。友人としては薄情だがそれでいい。陽樹は紗代を大事にすればそれでいいのだ。それは永井も健一郎も同じ想いだった。


 永井は中河内製薬へ送る最終報告書を先ほど書き終え、仰々しく極秘の赤判を書類の左上に押してから安っぽい茶封筒に入れた。中身はもちろん嘘ばかりで、骨髄提供の後に紗代に衰弱が見られ始めたことと、高倉が書いたそれぞれ日付が違う陽樹と紗代の死亡診断書が資料として添付されている。それと一緒に突き出す予定の辞表は既に用意してあった。


 もうじき完全に役目を終えるこのラボには、用済みのものしか残っていない。健一郎がテーブルに並べた酒もまた、「もういらないもの」だった。


「それじゃあ、おまえさんひとりで飲むかい? 飲みきれるのか?」


 残っていたミールセットのハンバーグをつまみにしながら、健一郎が日本酒をくいくいと傾ける。確かこれは高いやつではなかっただろうか、なんというもったいない飲み方だと思ったら、永井も思わず酒に手を伸ばしていた。


「飲まないで持ち出すという発想はなかったのか」


「重いし邪魔だろ?」


「確かにな」


 フンと鼻を鳴らして、永井はテーブルの上にあった紙飛行機を投げた。陽樹が折って残していったものだが、驚くほどよく飛んで、壁に当たってやっと落ちた。広いところで飛ばせばきっと楽しいだろう。

 あのふたりは遮るもののない空を飛ぶように、これから自由に生きていくに違いない。


「はぁー、しっかし、難儀な子たちだなあ。兄妹に生まれたくなかったからって、よりにもよって片方が貴種に生まれ変わる事はなかったろうに。とんでもない回り道じゃないか」


「……あんた、何を視た?」


 健一郎が常人にはない特異な能力を持っていることは永井も知っていた。ただ、「変なものが視える」としか聞いたことはなく、具体的にどんなものがどう「視える」のかは知らない。


「あの子らの前世って奴かな。視たのは晴樹が貴種の体になってからさ。前世? いや、やっぱり前世か。ただ、貴種のいない世界で年代が合わないから、SFで言うところの並行世界ってものかもしれない。何が驚いたかって、そこでは俺は紗代と陽樹の父親だったよ。……待てよ? そもそも俺が半貴種に生まれて子供ができないせいで、紗代が俺の娘にならなかったのかもしれないな? くーっ、惜しい!」


「なにが惜しい、だ。与太話だな」


「信じようが信じまいが、好きにするといいさ。ブレザー姿の女子高生だった紗代を視たぞー。可愛かったなあ。娘のように思ってきたけど、実際に娘だったのはびっくりした。そうか、紗代も陽樹も顔が良いのは、健さんの顔が良いせいか! よし、納得した」


「言ってろ」


 呆れ果てた用に言い捨てると、永井はグラスの中のブランデーを喉に流し込んだ。一気に飲む酒ではないことはわかっていたけども、安堵やら喪失感やら様々な感情が胸の奥でぐるぐるとかき混ぜられていて、そうせずにはいられなかったのだ。


 人生の半分以上を付き合ってきた親友と、四年間見守ってきた少女には、きっともう会うことはないのだろう。永井は健一郎のような特殊な能力はないが、それだけは漠然とわかっていた。

  



 空港の展望デッキで、紗代はフェンスにかぶりつきで飛行機を眺めていた。


「間近で見ると、思ってたよりずっと大きいね!」


「国内路線だとびっくりするほど小さいのもあるけどね。あんまり胴体が短いから驚いたことがある」


 ラボを出て真っ先にふたりが向かったのは空港だった。今すぐ乗ることはできないが、紗代のしたいことの一番に上がってきたのはやはり飛行機を見ることだったからだ。


 空港の中にある美容室で、紗代は長かった髪をばっさりと切っていた。エアリーなショートボブは紗代の髪色によく似合い、それだけで随分と大人びて見えるようになった。それに今まで着ることのなかったようなスキニージーンズとショートジャケットを合わせた姿は、様々な物を脱ぎ捨てていかにも身軽になったように感じた。


 秋の日は落ちるのが早く、空港に着いたときにはまだ青かった空は、あっという間に夕焼けに染まり始めた。風が冷たくなってきたのを感じて、髪を揺らしながら子供のようにフェンスに張り付いている紗代に陽樹は声を掛ける。


「紗代、そろそろ中に入らないかい? 冷えてきたよ」


「ぜーんぜん平気。ラボよりここはかなり温かいね」


「あそこは山だったから、平地より気温が結構低かったのは確かだよ。たかだか標高六百メートル位なのに、随分気候が違うって最初は驚いた」


 紗代がフェンスから離れ、陽樹の隣に戻ってきた。興味に輝いていた目は、今は陽樹に向けられている。


「やっぱり気が変わった。今は飛行機を見るより大事なことがあったんだった」


「うん、なんだい?」


「陽樹とたくさん話をしたい。今までのことと、これからのことを」


 紗代の言葉に頷いて、陽樹は彼女の手を取った。初めて会ったときに冷たかった手は、今は温かい。


「そうだね。時間はたっぷりあるから、いろいろ話をしよう。――とりあえず、まずは夕ご飯に何が食べたい?」


「ピザ! それかハンバーガー。そうじゃなかったら、デザートにケーキが食べられるところ」


「若いなあ……大きい空港ってテナントが充実してるのがいいんだよ。ピザが食べられるお店で腹ごしらえしたら、今日は早めに宿を探そう。ベッドの大きいところをね」


「一緒の部屋?」


「当然だよ。これからはずっと一緒だからね」


 デッキに人がいないのをいいことに、陽樹の鼻をかすめるように紗代が素早くキスをしてきた。幸せな笑いを堪えながら、陽樹もキスを返す。


 それが、楽園を捨てたふたりの長い旅の始まりだった。

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