第4話
弘明が用意してくれたのは部屋は豪華な個室、いわゆるVIPルームだった。事情が事情故に個室である必要はあるかもしれないが、ここまで立派な部屋である必要は無い。陽樹がそう思っているのが顔に出たのか、何かを言う前に弘明は笑って「今は政治家が入院していないからな」と先回りして答えた。
「それに、無菌室に入るまでのことだぞ。今のうちに満喫しておくといい」
「それもそうですね。のんびりさせてもらいます」
陽樹の健康診断が全て終わってから、移植までには他の骨髄移植を受ける患者と同じくきつい準備が必要となる。造血幹細胞を全て壊してしまうから新しい血液は作られなくなるし、感染症に弱くなるので無菌室に入らなければならない。
移植の前処置に入ると大量の服薬と放射線照射で激しい吐き気を催したり、今までにない苦しさを味わった。けれど、紗代と共にいる幸せを得るためには必要なことなのだ。ベッドサイドに紗代が折った紙飛行機を置いて、それをみつめながら陽樹はただ耐えた。
亜貴種になって、紗代と一緒に自由に出歩けるようになったら、空が開けた場所でこの飛行機をまた飛ばすのだ。緩やかに勾配のある公園なんかで飛ばしたら楽しいだろう。よく飛ぶ紙飛行機だから、子供がそれを見たら寄ってくるだろう。そうだ、それまでに紗代に教わって自分も紙飛行機を折れるように覚えよう。たくさんの紙飛行機を一斉に飛ばして競争したら、きっと楽しい――。
陽樹が耐えている間、紗代もドナーとして苦しい思いをしている。紗代を案じながらもそれは陽樹の支えになった。
骨髄液の採取は全身麻酔だから、注射が嫌いな紗代は麻酔を点滴で静脈から入れるよりも吸入だったらいいのにと思う。そもそも全身麻酔自体に、低いとはいえ死亡する確率があり、同意書などを念入りに書かされるものなのだ。危険は陽樹だけではなく、紗代の上にもあった。
入院してから半月以上が経った頃、ようやく移植の日がやってきた。
一見ただの血液に見える紗代の骨髄液が点滴スタンドに吊されて、点滴で陽樹の体に入ってくる。
紗代のわけてくれた命が、一滴ごとに陽樹に新しい命をくれるのだ。これが定着すれば、今まで陽樹の体を流れていたのとは違う血が全身を巡る。それは生まれ変わるのととても似ていると陽樹は思った。
実のところ、骨髄移植自体に陽樹は何かを期待していたわけではなかった。陽樹が求めるのはその先の、貴種の血液によって得られる恩恵だ。
だが、いざ移植を受けてみると、今までの苦しみがこれで終わると思ってとてつもない安心感があった。望んで受けた処置とはいえ、今までがなまじ健康体だった分、病気と同じ状態を味わうのはきつかった。
後は、ただの人間である陽樹の体が、貴種の血に負けないように祈るばかりだ。
骨格や臓器の構造は一緒だが、貴種と人間では筋肉の強度などに差異がある。前例のない移植だから、拒絶反応も、副作用も予想できない。
一滴一滴と落ちてくる点滴を見ている間に、陽樹はいつの間にか眠りに落ちていた。
目覚めて最初に感じたのは、全身の鈍痛だった。痛いだけではなく、酷く重い。指一本を動かすのにも苦労した。
「おお、目が覚めたか、気分はどうだ?」
間近から穏やかな声が聞こえる。なんとか首をそちらに動かすと、忙しいはずの弘明が付き添ってくれていたのがわかった。
「今、何時ですか」
骨髄液の点滴が既に終わって片付けられていることに気づいて陽樹は尋ね、声を出してそれが酷く掠れていることにも気づいた。
「今は午後三時だ、おやつの時間だな。ただし、陽樹が眠ってから三日目の午後三時だ」
弘明の言葉に、そんなに長く眠っていたのかと愕然とする。道理で声も掠れるわけだ。
「発熱していたが、それも落ち着いた。体におかしいところがあったらすぐに言うんだぞ。その体は順調に貴種になりつつあるようだから、いつどんな異変が起きるかわからない」
弘明が手鏡を陽樹に向ける。そちらに目をやってみると、そこに映っていたのは確かに一部が変貌した自分の姿だった。
ずっと寝ていたせいかぺたりとした髪は変わっていなかったが、微妙に鏡の中の自分が見慣れない。違っている点は、目の色だった。黒かった目は、紗代とよく似た金色の光彩に変貌していた。
思わず涙が零れた。自分の中には、間違いなく紗代の一部がある。紗代は必ず陽樹を生かす。もうこの施術の失敗を恐れることはないと確信した。
「気分は、悪くありません。生まれ変わった気がします」
「ははは、それは良かった。だが、実験は失敗だなあ。被験者は死亡したと報告書には書いておかないといけないな。ああ、紗代の方も頃合いを見計らって死亡したと報告書を書いて永井に渡しておいてやろう。ダメダメな方の中河内もそれで諦めるだろう」
「……ありがとうございます」
「体が落ち着くまでゆっくり療養するといい。それと、家族には手紙を書いておきなさい。俺から渡しておくから」
弘明の言葉に陽樹はこくりと頷いて見せた。様々なしがらみから解き放たれて紗代とふたりで自由になるためには、こうするのが一番いいのだ。表向き死んだことになっても、実際には生きているとわかれば家族はそれで何も言わないだろう。陽樹が幸せでいれば、彼らは許してくれるのだ。
移植から一週間が過ぎた頃には、陽樹の体は新しい血液を作り始めていた。陽樹が思っていたよりも貴種の治癒力は高いらしい。発熱と全身を襲った痛みは、人間だった細胞の最後の抵抗だったようだ。貴種の血が体を巡り始めると、驚くほど早く体は快復していった。
移植から二ヶ月を過ぎて、心配した拒絶反応も無く、入院する前よりもむしろ体力がついたように感じた。弘明のチェックを受けながら徐々に運動を増やしたが、もはや健康体と言ってもいいレベルになったので陽樹の身体能力についてデータも集められるようになった。目の色までもが変貌したことで予想はしていたが、結果は完全に人間よりは貴種に寄ったものだ。
そして高倉が陽樹に退院の許可を出したのは、秋の気配が増した十月のことだった。
翌日に退院を控えて、陽樹は荷物をまとめていた。持ち帰るものはやはりボストンバッグひとつだ。
そこへ高倉がやってきて、陽樹に白い封筒を差し出した。封を開けて便せんを引き出すと、そこに見慣れた父の字で短い文章が綴られている。陽樹が望んで選んだことならば何も言うことはないという予想通りの内容で、最後にはたまには手紙を寄越すようにと書かれていた。
手紙を読み終えて、陽樹は微笑みながら便せんを封筒に戻した。
紗代と一緒に様々な土地を歩いて、その度に絵はがきを買って送ろう。送り主の名前を書かずとも両親は字でわかってくれるし、陽樹が元気にしているとそれで気づいてくれるだろうから。
宛名のない封筒を陽樹が眺めて笑っていると、弘明が青いカードを渡してきた。思わず受け取ってからよく見れば、タカクラヒロアキと名義が印字されている都市銀行のキャッシュカードだった。驚いて見上げると、あっけらかんとして彼は餞別だと言い放つ。
「他のことに気を取られすぎて、自分の口座から預金を引き出しそびれただろう? 表向き死亡したことになってるから、今持ってるカードは使えないぞ。この金はおまえの両親が引き出して、俺に預けてくれたんだ。それに、俺や健さんや永井や、おまえの兄たちからの餞別をプラスした金が入ってる。
何より必要だろうと思ってな。それに、定期的に引き出されるのを確認できれば、こっちもおまえたちの無事を確かめられるって寸法だ」
「そういえば、確かに忘れてました……。ありがとうございます。助かりました」
「まあ、俺が死ぬとこのカードも使えなくなるんだけどな。それまでには、何かうまい方法を考えてくれ」
「弘明さんは長生きして下さいよ」
「医者の不養生にならないように気を付けるさ。医学上の限界にチャレンジだな」
少しおどけて言ってみせる弘明に、陽樹は目を細めて笑って見せた。
タクシーが見慣れた門の前で駐まる。冬にここに来た時にはスーツケースを持っていた陽樹は、今はボストンバッグを持っていた。
コンクリートの門についている古めかしいインターフォンのボタンを陽樹は押した。ブツリという音がして誰かが応答したことはわかったのだが、その後に声が返ってこない。代わりにバタバタという足音が遠ざかっていくのがインターフォン越しに聞こえた。
「陽樹!」
扉が開いたと思った瞬間、焦がれ続けた恋人の声が陽樹の名を呼んだ。裸足のままで駆けだしてきた紗代が、凄い勢いで陽樹に飛びついてくる。それを受け止めながら、陽樹は目を丸くして尋ねた。
「凄いね、どうして僕だってわかったんだい?」
「高倉先生が、陽樹が今日帰ってくるって教えてくれた」
「そうか、せっかくだから驚かせようと思ったんだけどな」
「そんなのいらない。そういうことをするのは健ちゃんで足りてる。それより、言うことがあるでしょ?」
鼻声が混じりだした紗代を抱え上げて、陽樹は一回転した。突然のことに驚く紗代に一度キスをしてから、とっておきの笑顔を浮かべて告げる。
「ただいま。約束通り、君のところへ帰ってきたよ」
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