第3話
健一郎から弘明に連絡を入れてもらうと、早々に会う約束をすることができた。顔を合わせたのは病院ではなく、料亭の個室だ。高倉の私邸でもなく、病院でもなければ誰かに気取られることもない。
「よっ、ふたりとも久しぶりだね。陽樹と健さんとはまた珍しい組み合わせだなあ。これは紗代のことでなにかあったかい?」
弘明に会うのは数年振りだが、以前会ったときと比べてあまり歳をとった様子はなかった。陽樹の兄には白髪が目立ってきたが、彼にはそういう様子もない。激務にあるはずなのにくたびれた感じもなく、彼が何者かを知っていなければ、もっと気楽な職に就いているように見えただろう。人外の美貌とは言えないが、年齢不詳に感じるところがなんだか貴種じみている。
「話が早いな」
面倒な挨拶抜きに弘明が核心に踏み込んできたので、健一郎は膝を打った。弘明は明るいけども、腹の底が読み切れないともいえる笑みを浮かべている。
「陽樹が中河内生化学研究所で働いてるというのは聞いていたからねえ。健さんから話があると言われて陽樹がついてくるなら、紗代絡みしかありえないだろう。それで? 早速話を聞こうか。まあ悪いようにはしないと思うから安心していいよ」
促されて陽樹は紗代を取り巻く状況を打開するための計画を全て弘明に打ち明けた。弘明に協力を頼みたいのは、紗代からの骨髄液の採取と陽樹への移植だ。さすがにどちらもラボの医務室程度では設備が足りないことは弘明も周知の事実だ。
うんうんと相槌を打ちながらそれを聞いていた弘明は、ぐい飲みに入った酒をあおって軽い調子で頷いて見せた。
「よし、わかった。ばっちり俺に任せておけ」
あっさりとした言葉だが、弘明の目には力がある。彼は引き受けたことについては万難を排して完遂させる精神力と実力を持った男だと、陽樹も健一郎もわかっていた。
外堀を埋めたところで、貴種からの骨髄移植を経て人間を人工的な貴種にするプロジェクトについて、永井から中河内製薬の社長に提案をしてもらった。
発案者が現役の医師であり、自らが被験者になること、それと、陽樹が無実とはいえ世間的に良くない評判を立てられたためにここに赴任してきたということから、次期会長である社長は全く反対もせずに実行を許可したらしい。彼にとって陽樹は惜しい人材でもなく、意に留める相手ではなかったのだ。
リスクある人体実験は本来忌避されるものだが、そもそも貴種の存在自体が現在は隠されているし、予定通りの成果がなかったとしてもその実験の存在ごと隠せばいいだけ。成功すればこの上ない医学上の発展だが、万が一陽樹に何かがあってもそれは自業自得とまで言われたらしく、ラボに戻ってから永井は激怒していてなだめるのに時間がかかった。
「俺は覚悟を決めたぞ。あんなやつに紗代の未来を委ねたままでいられるもんか。香川が紗代を連れてここを出たら、こんな場所爆破してやる!」
この計画が実行に足ると判断させるために睡眠時間を削って永井は資料を作っていたのだが、そのせいで赤い目を更に血走らせて、トレーニングルームでサンドバッグに蹴りを入れている。
脚が唸りを上げるほどの勢いでサンドバッグに叩きつけられる度に、重い音が響いた。きっと永井は心の中で、サンドバッグに中河内社長の顔写真でも貼り付けているのだろう。
「まあまあ、もしそんなことしたら永井くんは建造物損壊で捕まるし、向こうは解体費用が浮いて喜ぶだけじゃないか。必要な予算はふんだくって、諸々片付いたらスパーンと辞表を叩きつけてやればいいよ。その頃にはここの存在意義は無くなってるだろうし、円満退職だね!」
「そうだな、年収相応の退職金くらいはもらっておきたいところだ、なっ!」
殊更に大きな音を立ててサンドバッグが揺れた。元々どちらかと言えばインドア派の永井がこれ程までに荒れ狂っているのは初めて見た。永井は運動はするけども、健康管理上必要なことだからというスタンスで決まったルーティンとしてこなすタイプだ。
気が済むまで暴れれば彼のストレスもかなりすっきりとするだろう。苦笑しながら陽樹はトレーニングルームを後にした。
紗代よりも一足早く、陽樹は明日入院する予定になっていた。骨髄移植を受けるには全身に強い放射線を浴びて陽樹自身の造血幹細胞を死滅させる必要がある。多大な負担がかかる方法であるのは間違いないし、白血病で骨髄移植が必要な患者でも移植に耐えられる体力がなくて予後が悪く、生存に至らないケースもある。
陽樹は体力もあり、健康体であるという自信があるが、それでも事前の健康診断は念入りにする必要があった。
持って行く物は最低限にするつもりだ。ここへ帰ってくると決めているのだから。
陽樹が部屋に戻ると、紗代が部屋の中心で陽樹のボストンバッグを抱えて立っていた。静かな表情だったが眉が下がっていて、彼女が内心不安でいることを示している。
「とうとう明日だね……」
「うん。しばらく留守にするよ。寂しい思いをさせるね、ごめん」
紗代の手からボストンバッグを受け取ってテーブルに置き、寂しげな彼女の体を抱き寄せた。紗代はしばらく無言で体を預けていたが、ややあってぽつりと呟いた。
「朝顔が咲いてるうちには、帰ってこられない?」
「そうだね、だいたい三ヶ月くらいは入院することになると思う。貴種の快復力が実際は未知数だから、もしかしたらもっと早く帰れるかもしれないけど。……朝顔、残念だな。僕も見たかったよ、君の咲かせたヘブンリーブルー」
紗代の朝顔はやっと小さな蕾が付き始めたところだった。少し前までは、それが満開に咲くのを紗代と一緒に見ることができるのを疑いもしていなかったのだ。事を急いだのは陽樹自身だが、急激に動いた運命には未だに戸惑いを感じることもある。
「種を取っておくから。いつかどこかで、また咲かせられるように」
「ああ、そうだね。来年の朝顔は、小さい鉢じゃなくて直植えでたくさん育てよう」
言葉で答える代わりに、きゅっと紗代の手が陽樹の服を握りしめた。
互いの体温を忘れないようにと、無言でただ抱き合っていた。どれだけそうしていただろうか、紗代が低く唸って泣く寸前のような顔で陽樹を覗き込む。
「陽樹、本当にいいの? 命の危険があるんだよ? 死ぬかもしれないんだよ? 私のために、そこまでしていいの?」
それに対して陽樹は笑った。確かに陽樹には命の危険がある。けれど、紗代にもリスクはあるのだ。なのに陽樹のことだけを心配する彼女が、心の底から愛おしい。
「君と共にある幸せに比べれば、危険なことなんかいくらでも耐えられる」
「精神論じゃないよ。もし、陽樹が死んでしまったら、私……」
「死んだりしないよ。僕は決して君を置いていかない。決めたんだ。必ず君のところへ戻ってくる。この命を全て懸けて愛すのは君だけだから」
黙り込んでしまった紗代の背を軽く叩き、その頬に手を添えて優しく唇を重ねる。いくら言葉を連ねても伝えきれない想いを、触れたところから直接伝えたかった。
「……約束だよ。絶対帰ってきてね」
自然と顔が離れてから、互いに小指を絡ませて指切りをする。無言で指切りを終えると、紗代は陽樹の部屋から静かに出て行った。
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