逆
気が付くと私はいずことも知れない暗い場所にいた。手を伸ばそうとすれば壁に当たる。前。後ろ。上。下。いずれも同じだった。抱えた膝を伸ばそうとすればつま先が硬いものを蹴った。俯いた頭を上げようにも後頭部が天板を擦る。どうやって入ったのか見当もつかないような狭い箱の中に私は閉じ込められている。
息が詰まり、身体がこわばった。視界は闇に閉ざされて何も見えない。私は恐怖に駆られる。目の前の壁を強く押した。すると壁が奥側へと開く感覚があって、私は自分が扉を押し開けたことに気が付いた。外の壁は扉だった。膝を抱えた姿勢のままなんとか前方へとにじり寄り、扉をさらに大きく開け放つ。扉の外はまた闇で、奥へ奥へと手を伸ばせばまた壁に当たる。私は再度にじり寄る。外の壁にも強く手を押し付ける。再び壁が開いた。
その外はまた暗い闇。三重になった外側の壁を押し出す。閉ざされた扉が開き、箱の中に一条の光が射した。扉の隙間からほんの少しだけ外の景色が垣間見える。陽の暮れかけた寺の堂内に参拝者たちが並び、住職の読経に耳を傾けている。
――座って私を見ているのは幼い日の私だった。
私は悪夢から目を覚ました。寝床から身を起こすと、窓の外は暗い夜だった。スマホを取り上げて時刻を見れば夜中の一時。この頃は執筆業も忙しくなく、ようやくまとまった睡眠を取れそうだと思っていたところを、ほとんど寝入りばなに目を覚ましてしまった。それも開帳日の夢で。
スマホの液晶は時刻と共に日付も知らせている。十七年に一度の開帳日。日にちが近いような気もするが、果たして正確にはいつだったか。私は故郷の名を検索した。しかし村の名まではヒットしても、秘仏に関する情報はまるで出てこない。当然と言えば当然だろう。京都の古刹や四国八十八ヶ所とはわけが違う。山里の、それも実在の定かでない仏像の情報など広まるわけがない。
歯がゆい思いをするうちに、かつて厨子の中に目にしたものの記憶が鮮明に蘇った。あれはいったい何だったのか。私は開帳日を調べるのを諦め、代わりに日暮れまでに村へ行ける新幹線の便の予約を取った。
-
鉄道とバスを乗り継ぎ、役場前のあぜ道に降り立つ。途端に初夏の草いきれが身を包んだ。村へ戻るのはほぼ十年ぶりだ。地方の例に漏れず過疎化が進んでいるはずだが、もとより寂れた村だったので見た目に変わりはない。こちらは検索で出てきた寺の番号に電話をかけると、出たのは旧友の久田だった。
「それじゃ本当に住職になったのか」
「そういうことだ。まあなんとかやってるよ」
久田の声は心なし疲れているようだった。聞けば二日後に迫った開帳の準備で忙しいと言う。私は改めてこのタイミングで開帳日の夢を見た偶然に驚いた。
「実は泊まるところを探してるんだ。すまないがどこかないか」
「ならうちの客間を使うといい……全く良い所へ来たよ。良ければ開帳日の手伝いをしてくれないか?」
私は久田の申し出に甘えることにした。歩き出そうとして少しの間道を忘れていることに戸惑ったが、景色を見るうちにじき思い出して、それからはもう迷うことはなかった。群れを成す墓石の隣の階段を登り、寺の境内に差し掛かる。村の景色の中でもここは特に変わりがない。足を踏み入れると懐かしい冷気が身を包んだ。問題の厨子を見ておこうと思い、本堂に近づいたところで声をかけられた。
「久しぶりだな」見れば久田が庫裏を出てこちらへ歩いて来るところだった。「元気だったか?」
「ああ。お前は……大変そうだな」
目は落ちくぼみ、顔は蒼白。微笑んだ顔には面影がうかがえるが、それでも見ず知らずの相手と言葉を交わしている印象の方が強かった。
「大丈夫か?」
「ああ。開帳の準備でな」
久田はそう言って本堂の厨子を振り返った。つられて目をやった私はそこにあるものを見て呆気にとられた。
「おいおい」内陣に置かれた厨子の扉が閉じていた。「開帳日まで開けとくんじゃあないのか」
「そうなんだ。つい一昨日まではいつも通りだったんだが」
聞けば厨子の戸はこの十六年間変わらず、三つとも開き続けていたという。中身はもちろん空のまま、である。それが昨日の朝に久田が見たところ、扉が閉まっていた。夜の間本堂は戸締りがされていて、人が出入りした様子はなかった。
「子供のいたずらじゃないのか。開帳日が来る前に早く開けてしまえ」
「無理だ。しきたりで開帳日以外は厨子の開閉が許されないんだ」
久田はそう言ってため息を吐いた。どうやら厨子が開帳日よりも前に閉じていることが、彼に心労となってのしかかっているらしかった。
「らしくないな。寺のしきたりが何だ。お前は覚えてないかもしれないが、昔は秘仏を覗いたって何も起きないと言っていたぞ」
「ああ…そうだ。そんなことも言ったかもな」
久田は笑みを浮かべてあいまいな返事をするばかりだ。結局その日はそれ以上厨子の話はせず、私は庫裏にある客間に泊めてもらった。
翌日は厨子を巡ってちょっとした騒ぎがあった。明朝客間に久田が来て、これから人を通すから、すまないがすぐ寝具を片付けてほしいと言う。てっきり村のお偉いさん方と打ち合わせでも開くのかと思いきや、私と入れ違いに入って来たのは巡査に連れられた一組の男女だった。
部外者が詮索すべきでないと感じた私は庫裏を後にして、隣の本堂を見に行くことにした。玄関が開いていたので厨子のそばまで行って子細に眺めてみる。昔住んでいたころと違って今では私の背丈の方が厨子より高い。だがその威圧感は変わらなかった。装飾から秘仏のいわれが読み取れはしないかと期待していたが、浮彫の類は見当たらない。仏像を収める用具というよりは、ほとんど棺のようだ。手掛かりになりそうなものは何もなかった。
「ですから、本日は厨子を空けることはできかねます。どうかお引き取りください」
そのうち庫裏の方から久田の声が聞こえてきた。見れば玄関口で先ほどの男女と久田が話をしている。久田は二人に何度も頭を下げていた。こちらから見える巡査の表情は困り顔だった。
「私からもお願いします。ほんの少しだけでいいんです。厨子を空けてもらうわけにはいかないでしょうか」
巡査の言葉に久田は黙ってかむりを振った。その後もいくらか三人は食い下がったが、結局何もできず引き上げていったようだった。
「子供が行方不明なんだそうだ」
客間に戻った私に久田が言った。
「二、三日前だったかな。近隣を探しても見つからないので、厨子の中に入って出てこれなくなったんじゃないかと言ってる。今のは行方不明になった子供の両親だよ。数年前に都会から移住してきた人たちで、村の慣わしを知らないんだ」
確かに小ぎれいな服装をした若い二人は、一見村の住人に見えなかった。とはいえ厨子は開けてやるべきだと私が言うと、久田は「そうもいかない」と答えた。
「すぐには無理だ。今日も有志の村人で近隣の捜索をしているはずだから、厨子の方は寺のしきたりに則って明日の朝まで待ってもらうことになっている」
そう話す久田の背後の窓越しに、先ほど久田と押し問答をしていた男が境内を横切るのが見えた。男は本堂に向かっていた。
「なあ、あれ」私は外にいる男を指差した。
「いけない、止めてくれ」
そう言うなり久田は部屋から飛び出していった。足袋のままで庫裏の外に出て、男の行く手に立ちはだかる。男は本堂に向かって大声を上げた。
「お父さんだ! そこにいるのか!」
お引き取りください、と久田が訴えかけるが男は聞く耳を持たない。素通りしようとする男の腕を久田が掴むと、男はいよいよ久田に食ってかかった。私はと言えば二人のそばまで来たものの、どうしていいかわからずうろたえていた。
「箱の中を見せてくれ」
「いけません。明日の朝まで待ってもらわないと」
「伝統だか何だか知らないけど、あんなところに子供を閉じ込めるなんて異常だ」
男の言葉に私は耳を疑った。厨子に子供が入るだなんて初耳だ。
「開帳日の間に子供に厨子の中に入ってもらうだけです。それに今年はお宅のカイくんでなくて、別の檀家のお子さんに入ってもらう予定でした。開帳日よりも前にご両親の許可なく子供を入れるだなんてするわけがない」
「どういうことだ久田」私は思わず口をはさんだ。「厨子に子供がいただって?」
久田はちらりと私の方を見た。
「そうだ。前の開帳日は私が中に入ってた」
それでは前回の開帳日の時厨子が開いたのは。そして厨子の中から伸びた指は。
厨子の中にいた久田だったのだ。大人たちは何も気づかなかったのではない。中に入っているのが子供だと知っていたから、じっとしていられないのを見て見ぬふりをしていただけだ。
「いいですか」久田は男の方に向き直った。「開帳日に厨子の中に子供を入れるのは、この寺の秘仏が来てはならないと信じられているからです。十七年に一度の開帳日に信徒たちは厨子を閉じて、その中にある秘仏を思い浮かべて参拝します。するとそこに実際に秘仏がやって来てしまうと言われています。そのため秘仏がやって来ないよう厨子の中で子供が見張らなければならないのです。これが村のしきたりです。開帳日以外に子供を厨子に入れる理由はない」
必死に説明をする久田に男は猛然と食ってかかった。まずいと思った私は二人の間に割って入ったが、逆に男に突き飛ばされて背中から倒れた。そこへ先ほどの巡査と男の妻が戻ってきた。巡査はもみ合う二人を見て慌てて制止をかけると、そのまま男を寺の敷地の外へと連れて行ってしまった。
「災難だったな。ケガはないか」
久田に助け起こされた私は、改めてどうしても厨子を今開けられないのかと尋ねた。久田は「それは無理だ」と言ったきり、翌日の支度のために本堂へと姿を消した。
私は混乱する頭で秘仏について考えを巡らせる。先ほど久田が口にした理屈は飲み込みづらいものだが、一つ確かなのは村の住民が秘仏を敬いながらも、姿を現してはならないものだとしていることだ。普段は厨子の戸が開いているのも、開帳日に厨子の中に子供を入れるのも。ここでは秘仏は見せないために隠すものではない。姿を現さないよう見張るものなのだ。それでは今閉ざされた厨子の中は見張られていないが、そこには何かがやって来ているのか? 開けてしまうとどうなる?
そして十七年に一度の開帳日が来た。境内は明け方から村の住民たちでごった返している。十七年前の今日、そのまた十七年前の今日行われたのは、閉ざされた厨子の前での型通りの参拝と誦経だった。だが今年はそうではない。厨子は開かれる。境内には何か異様な空気が漂っていた。
別の意味でも注目が集まっている。前日から足腰の利く住民は、ここ数日一人残らず子供の捜索に駆り出されていたと言う。この場にいる誰もが厨子の中に行方不明の子供がいる可能性を、多少なりとも思い浮かべていた。居並ぶ人々の先頭にいるのは子供が行方不明になった夫婦と、捜索の応援に来た数名の警官たちだった。
私は事前に本堂の内陣にいるよう言われていた。久田曰く私の役割は『見届け人』だそうだ。仮に開かれた厨子の中に久田の説明の通り秘仏がやって来たとして、作家として当然興味がないわけではない。私はそれを目にできるだろうか。私は落ち着きなく厨子の前で立ち位置を変えていた。
「開帳の儀を始めます」
まだ山々の間から日が出ないうちに、久田が厳かに宣言した。始めに短い祝詞を読み上げ、合掌ののち一礼。そして厨子の左右の扉に手をかけ、一息に割り開いた。私は久田の背後に回って、初めてこの大小の厨子に挟まれた中間の厨子をまじまじと見た。外側の厨子に負けず劣らず無骨で、全体が錆びに覆われている。上部は屋根型でなく丸みを帯びていた。久田はこの二つ目の厨子も開いた。
三つ目の厨子を開こうとした久田の手が止まった。見れば厨子の正面に顔のない観音像が描かれていた。いや、顔がないのではない。こちらに背を向けているのか。絵は劣化が激しく、どちらかは判別がつかない。久田が息を呑む音が聞こえて来るようだった。彼は三つ目の厨子に手をかけた。そして戸を開いて、
「ひぃっ」
悲鳴を上げて背中から内陣の床に倒れ込んだ。私は厨子の中を見た。内側から子供が這い出てくるところだった。呆気にとられる私たちを尻目に子供は須弥壇から床に降りて、「お母さん」と言いながら群衆の先頭にいる母の元へと駆け寄って行った。夫婦が子供に駆け寄る。失踪から五日が経過していた。
私は腰を抜かしてしまっている久田を助け起こそうとしたが、彼は手を上げて私を制止した。その目はまだ厨子の中に注がれている。
「来るな」久田が言った。喉の奥から絞り出すような声だった。「ご示現なさった」
「どうしたんだ。なぜそっちへ行っちゃいけない」
私は久田の様子に鬼気迫るもの覚えた。外では子供が戻ったことで大騒ぎになっている。内陣と厨子の様子は奇妙に注目を集めていなかった。
「いいから下がっていろ。私だ……中で見張る子供がいなくなったこと、私が中にいるのが子供でなく御仏だと頑なに信じていたこと。二つが揃ってしまった」
久田は体を起こし、開いた厨子の方へと這って行った。彼には一体何が見えているのか。立ったまま高い視点を保っている私の目には見えない。ほんの少し屈みさえすれば、私にも厨子の中身が見えるだろう。だが、
「絶対にそこを動くんじゃない」
久田の言葉が私をその場に縛り付けていた。彼は厨子の前で立ち上がった。
「そうだ……お前がここにいるのはこのためなんだ。秘仏のことを伝えるためだよ。何でもいい。これから私の言うことを書き留めておいてくれ。秘仏は像高五寸。三面千手観音像。立像。目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべておられる」
私は言われたとおりに書き留めた。「他には」と言って久田の方を見ると、須弥壇の上に足をかけて登ろうとしているところだった。彼は厨子の中に入ると、左右の扉を閉め始めた。細い指が扉の縁にかかって、閉じてしまうと同時に指は厨子の中へと消えた。そして厨子は沈黙した。今や本堂の外の人ごみだけが騒がしい。
ややあって私は厨子へと駆け寄った。戸を開けると外側の厨子は空だった。二つ目の厨子。三つ目の厨子。いずれも戸が締め切られず半開きになっている。中を覗いてみると、これも同様に空だった。久田はいなくなっていた。
行方不明になっていた子供について、私はその後警察の事情聴取を受けた。子供が厨子の中にいたとは久田は知らなかったであろうことを本人に代わって話したが、当の久田が失踪しているのでどこまで信じてもらえたかはわからない。わからないと言えば彼が最後にしたこともそうだ。やって来た秘仏をもと来た場所へ帰したのかもしれないし、やはり秘仏など始めから実在していなかったのかもしれない。
住職を失った寺と秘仏がこの先どうなっていくのか、私には興味がない。十七年と言うのは一つの集落が寂れていくには十分な年月のはずだ。次の開帳日にはもう秘仏に信仰を捧げる者もいなくなっているかもしれない。そうなれば存在しないはず秘仏は永久に存在しないことになり、人々から忘れ去られていくだろう。
ただ一つ気になるのはあの夫婦のことだ。子供は無事帰ってきたということだが、そもそもなぜあの夫婦は辺鄙な山里にやってきたのだろう。気になって村を後にする前に夫婦の住む家を見に行くと、寂れゆく集落には似つかわしくないモダンなたたずまいをしていた。
よく見れば似たような家はそこかしこにあった。何でも近ごろは古民家のリノベーションが盛んで、使い勝手の良くなった家に都会からの移住者が増えているという。住民が増えて村が存続すれば、同じだけ村のしきたりも長く続いていくだろう。そしてそこには秘仏が次の十七年も、そのまた次の十七年も生き永らえる余地がある。
――村の存続。もしかすると、それが秘仏の恩恵なのかもしれない。はたまた秘仏が生き続けるためのシステムか。そのうちきっとまた開帳に失敗する時が来るだろう。その時あの村に何が起こるのだろう。久田のように姿を消す者が出るか。それとも次こそ秘仏が衆目の前に姿を現すか。
答えが出るのはまだ先のことだ。だから私は、やはり秘仏については考えないようにしている。
逆スイッチ マツモトキヨシ @kiyoshi_matzmoto
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