逆スイッチ
マツモトキヨシ
順
・聖観世音菩薩像(浅草寺)
大化元年(六四五年)に勝海上人という僧が絶対秘仏と定めて以来、一度も人目に触れたことがない。今日でも
・木造文殊菩薩及び侍者像(竹林寺)
獅子の背に乗った文殊菩薩と侍者四名からなる。うち侍者像四体および獅子像は常時公開されているが、菩薩像は秘仏のため獅子座は空位となっている。菩薩像の公開は五十年に一度である。近年では一九八三年と二〇十四年の春秋に開帳された。
寺に祀られているが公開されない仏像は秘仏と呼ばれ、日本中に数多く存在する。上記はその一例である。秘仏の多くは月に一度、あるいは数年に一度の頻度で開帳されるが、中には永久に公開されないものもあって、これは絶対秘仏と呼ばれる。
表に出ない理由は様々で、単に像の劣化を防ぐ目的の場合もあれば、その像容が性的な連想を促すとして秘匿される場合もある。また人目に触れさせないことで神秘性を高める目的もあると考えられている。
-
「その仏像さ、見ていい時以外に見たらどうなるの」
私の言葉を久田がバカにするように鼻で笑った。
「何も起きるわけないだろ」
手に持ったかばんを振り回しながらこちらを向いた久田が言った。寺の住職の次男坊で、父親から厳しくしつけを受けている割に横暴な態度が目立つ。「住職を継いだら俺がこの村で一番の権力者なのだから、今のうちに媚を売っておけ」というのは彼の弁だが、山間の孤立した集落だったので、これはあながち間違いでもなかった。
小学生時ぶんクラスメイトだった私と久田は、その日一緒に下校していた。会話の中で、久田の寺の秘仏の話題が出たのである。
「なんならこれからウチのを見に行くか。見た後俺んちで遊ぼう」
久田は有無を言わせぬ口調でそう言うと、私を自分の家の方へと引っ張って行った。
村の外れにこの村で唯一の墓地がある。そこでは山の斜面に沿って墓石が並んでいて、墓地を登った先には久田の生家である寺があった。日暮れ時に見る墓地の光景は不気味に思えたが、その先にある寺の境内ほどではない。
件の寺に差し掛かった時、境内をずんずん進んでいく久田とは対照的に、私は入り口に立ち尽くしていた。寺は山の陰にあって、昼間でも日の光が射さず薄暗い。目につく石畳と言い石塔といい黒っぽいコケに覆われていて、何か蝕まれているような病的な印象を抱かせた。
「何やってんだよ。こっちだ。ここから見えるぞ」
先に行った久田が呼び掛けてくる。不思議なのは久田がまだ軒先にいて本堂に足を踏み入れてすらいないことで、彼が言うにはそこからもう秘仏が見えるらしいのである。私はまだ内心時ならずして秘仏を見ることに抵抗を感じていたのだが、意を決して久田の方へと歩いて行った。
そして私はそれを見た。
閉じた格子戸を透かして寺の内陣が見えた。装飾を施された台座の上に、
「どういうこと?」
私が尋ねると、久田が持っていた懐中電灯の明かりをつけた。一筋の光が伸び、内陣を覆う闇を照らし出す。果たして二重になった厨子の内にあったのは、やはり一回り小さな厨子だった。最後の厨子の大きさは両手で抱えられる程度で、開け放たれた戸の内側は空だった。
「この寺の厨子は空なんだ」
「じゃあ秘仏なんかないんじゃないのか」
全部ウソだったのか。私が腹を立てて言うと、
「そうじゃない。この寺に秘仏はある」
久田はそう言って明かりを消した。三つの厨子は再び闇の中に沈んだ。
-
次に厨子を目にしたのは開帳日でのことだった。あの日見た厨子は空だったが、村にはれっきとした秘仏の開帳の祭事があったのである。祭事は十七年に一度、村を挙げて行うことになっていた。
大人たちが皆寺へ行くのだから、子供はみな着いていかないわけにはいかない。そんな行事が面白く思えるはずもなく、私はせめてあの日見損ねた秘仏を拝んでやろうというつもりになっていた。
父母に伴われて寺へ行くと境内に人だかりができていた。村中の人々が本堂に参拝しようと列に並んでいたのである。私たちもその列に加わったが遅々として前に進まず、ようやく本堂の前に来た頃には陽が傾き始めていた。
前方には本堂の外陣で村人たちが畳の上に座って住職の読経を聞いているのが見えた。住職の向かいにはくだんの厨子が置かれている。
――仏像は?
私は首を捻った。というのも厨子は扉が閉じているのだった。得体のしれない鉄の箱に向けて住職が経を上げているのは奇妙な眺めだった。
これでは開帳とは言えない。厨子の中に収められている仏像を参拝客の目に晒すのが正しい開帳だからだ。だが現実には住職は閉じた厨子に向かい合って経を読み、周囲では村人たちが手を合わせて拝んでいる。その場の誰もがあたかも目の前に秘仏があるかのように振る舞っているのだった。
「ねえ」私は父に聞いた。「なんであの箱は閉じてるの?」
父は「静かになさい」だとか言ったように思う。私はそれきり何も言えなかった。
ややあって私たち一家を含む十余名が本堂に上がった。目の当たりにした閉じた厨子は、言い知れぬ威圧感を放っていた。住職が経を上げ、周りの大人たちが目をつむって拝み始める。ちらりと覗き見た父は不思議と物憂げな表情で正面を見ていた。
私は厨子に視線を戻して、山の陰になっているはずの寺に西日が射していることに気が付いた。ほかならぬこの時期の日の落ちかかる時間帯にだけ、陽光が山間に射し込んでくるようなのである。西日は厨子の正面をほんの少しだけかすめて、それ以外の個所を常よりも濃い闇の中に沈めていた。
そして単調な読経が響く中、私は厨子の戸の片側が少しだけ開くのを見た。そして開いた戸の隙間を何かが横切ったようだった。
――誰かがいる。
私は思わず周囲を見回した。厨子を見ている参拝者もいたが、彼らが異変に気づいた様子はない。室内には相変わらず祭事の厳かな空気が漂っていた。再び厨子の方に目を向けると、中から伸びた細い指が戸の縁にかかるところだった。その手はゆっくりと戸を閉めようとしている。戸が閉まると同時に指はそのまま厨子の中へと消えた。
読経が終わると私たち一家は本堂を後にした。ほんのつかの間西日を浴びて黄色く染まった指先が、私の目に焼き付いて離れなかった。去り際に一度だけ厨子の方を振り返ったが、相変わらずその戸は閉ざしたままで、厨子は暗い影の中に佇んでいた。
私は久田に秘仏について尋ねた。だが久田も詳しいことは知らないと言う。開帳の作業は住職が一人で行い、厨子は元通り空になった状態で本堂に安置されているそうだ。私は自分が目にしたものを胸にしまっておくことにした。自分一人だけが見てはいけないものを見たようで決まりが悪かったからだ。
そして私たち一家が次の開帳日を村で迎えることはなかった。事情があって引っ越したためである。村の住民たちとはすっかり疎遠になり、事の真相はわからないままである。
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