第5話
突き固めて脇を崩れぬよう、石で整えただけの支道は土砂降りの中で泥濘に変わり、道中を行くマルトス達の行く手を阻むかの如くであった。
やがて風向きが変わり、はっきりと聞こえるは警鐘の打ち鳴らされる音、そして流れる空気に漂うきな臭さであった。この暴風雨の中でアンダルの町で火災が、それも相当な火の手が上がっていることは明白であった。
「見ろ、町の壁から煙が上がってるぞ!」
町を囲む大きな土塀まで迫った一同の前で、濡れた壁のヒビから白煙が上っている。火に炙られ、塀の骨組みが焼け始めているのであろう。
「マルトスさん! 町の扉が閉められてる!」
「なにぃ! まだ開けておく時間だろうが。開けられねぇのか」
「内から
「緊急事態ってやつだ。破ってしまえ!」
マルトスの号令一下、手下たちが棒や鉈や斧などで扉を破ろうとやっきになった。とはいえ、町を囲む壁を閉ざす扉は身の丈を超す高さがあり、ちょっとしたことで壊れることはないほどに分厚く、木材が固い
だがマルトス組も手をこまねくばかりではない。アンダルの町は一帯の住民にとって大切な場所であり、アンダルの居住者にも知り合いや顔見知りは多数いるし、馴染みの店や建物も多数あったのだ。それらが灰になるのは、身心ともに耐えがたいことであった。
「破れ! 破れ! 丸太かなんかないのか!」
そう叫ぶと、手下の一人が上手い具合の丸太棒を探し出してきた。すでに土塀のヒビからはもうもうと黒煙が上がり、炎の舌先が塀のてっぺんから覗きつつあった。
マルトス組は半狂乱になって扉を破りに掛かった。声を合わせて丸太を叩き付けるうちに、箍が歪んで分厚い板木が弾け、裂け目が徐々に、しかし確実に出来上がっていった。
裂け目が見えると一同は、なお一層力を振り絞って丸太を突き込んだ。日中から一帯方々を駆けずり回り、水路と畑を見回った上に、アンダルに駆けつけて力いっぱいを使って、嘗ては反乱農民を防いだ分厚い扉へ、噛みつくようにぶつかって行くのだ。
やがて丸太が叩きつけられた裂け目が大きく割れ砕け、人ひとりが出入りできそうな穴が出来上がった。
「よし、いくぞー!」
「おおーっ!」
文字通りの火事場に踊り出でようとした、その時。
「マルトス……さんっ……」
「お前は、ジョー!」
破けた門の向こうから、煤に塗れた男が飛び出てきたのである。そいつはマルトスの名代としてアンダルに詰めていた黒銀のジョーであった。
「お前、一体何が」
「早く……逃げ……」
よろめきながら出てきたジョーはそれっきり、泥が溜まった支道の上に倒れて動かなくなった。その背中には分厚い刃で負った傷が深々と残されていた。
「ジョー! おい、ジョー!」
手下どもが仲間の異常を見て気色ばむ中、マルトスはジョーに駆け寄った。そして、その息が既にないものと知ったのである。
「駄目だ、こいつは死んでる……町ん中で何が起こってんだ?」
「火事場泥棒だ」
アッシが呟き、マントの下の短剣に手を掛けた。
「泥棒だぁ!? 泥棒が人斬りまでするのかよ!」
「そいつは単に物盗りをするわけじゃない。アンダルとその一帯を、この大火事を機にそっくり掠め取る腹だろう」
「勘働きが鋭いじゃないか。流れ者の冒険者よ」
アッシに答える声が破れた門の向こうから聞こえた。
と同時に、門が町の側から破られた。木っ端に砕けた木片が当たりに飛び散って、マルトスの手下どもの幾人かを切り裂き、串刺しにさえした。
「ぎえぇー!」
「お、お前ら!」
「おうおう、お前さん所の手下はずいぶんとひ弱だな、ええ? マルトスや」
扉にできた大穴からぞろぞろと現れた一団がマルトス達とアッシを取り囲む。その姿は、黒く煤けた格好に手には大斧、大木槌、御禁制の刃渡り二尺五寸の長剣がこれ見よがしに握られていた。
一団の中、派手な着物の大男が一歩踏みでてマルトスを見下ろした。禿げ上がった頭に大玉の両目が開いており、顎鬚に覆われた顎から涎を垂らして笑っていた。
「手前がわざわざ出てくるとは意外だったな。てっきり屋敷に引きこもっていると思ったぜ。こいつぁ当てが外れたな」
「パスキュイ! お前は自分が何をしたのか分かっているのか!」
「分かってるぜぇ。この汚くて古臭い駅宿をぶっ壊して、俺が代官になった時にきれいさっぱり作り変える。その為の手順が、ちょいと入れ替わっただけよ」
「なんだと! お前は……」
「け、その様子じゃ毒は食らわなかったみてぇだな。せっかくグラナッデンから引っ張ってきた手が無駄になっちまったぜぇ」
およそ正気とも思えないパスキュイの目がじろうりとマルトス一家をねめつける。そしてその中で明らかに一味と思われないアッシに目を留めた。
「まぁ、お前も流れの冒険者なんて雇い入れていたんだから、貸し借りなしってことよなぁ。それに丁度いい。今ここでお前をぶっ殺してしまえば後腐れはなくならぁ!」
「馬鹿野郎! この雨の中、百姓どもがどれだけ苦労をするのか考えられないのか! お前はそれでも庄屋主か!」
「うるせぇ! 俺は代官になって町住みになってやるんだ! お前とお前の手下の口を封じれば、家令に好きなことを吹き込めるってぇ寸法よ……お前ら、やっちまえ。全員、
「おおう!」
血走った目のパスキュイの手下が手の凶器を構えた。マルトスと手下も身を護るために身構える。
アッシは素早くマルトスの傍に歩み寄った。だが、まだ懐の短剣は鞘から抜かない。マントの下で掴む柄がジワリと汗ばんだ。
マルトスの手下たちは手に手に斧や鉈を持っていたが、荒い息を吐き、肩をわななかせている程に疲労困憊で、一方パスキュイ一家は町の中を好き放題暴れていたと見え、
血を纏った斧や大鉈が目の前をちらつくなか、空が渋って雨脚が戻ってくるようだった。風吹く中、ざわざわと雨粒がその場の土を舐めていく。
「いやぁっ!」
緊張の途切れた瞬間に全員が動いた。誰かの発した絶叫が、雨露に濡れた凶器の間にこだまする。
「ふん!」
マルトスは六角の杖を構え、自分に襲い掛かる者を打って払い、突いて倒して踏みつけた。
その背中へ大木槌を振りかぶった手下の一人が襲い掛かるのを、アッシが抜き打った短剣で迎え撃つ。
「ひゅっ!」
木槌の柄を切り落とした返す動きで首筋を押し切り、のけぞり悶える身体を蹴倒して跳んだ。
多勢に無勢、マルトスの手下どもはパスキュイ一家の手にかかり一人、また一人と切り倒され、泥道に沈んだ。そんな中で、アッシはマルトスの背や脇を守りながら、目にも留まらぬ速さで駆け回った。マントを翻すたびに囲みを作る手下の腕が切り落とされ、大斧や大鉈が跳ね飛ばされた。
「走れ!」
アッシがマルトスに叫ぶ。マルトスは首肯して泥道を横っ走りに走り出る。
「逃がすかよぉ!」
パスキュイが吼え、傷つき
ううん、と風が唸る。間に割って入ったアッシは跳んできた刃物を受けた。マントの下で掴んでいた鞘とかち合い、分厚い刃は弾かれる。
「邪魔だどけい冒険者!」
「そいつは無理な話だ」
「だりゃぁっ!」
大上段に振りかぶったパスキュイの長剣が、アッシの短剣と真っ向からかち合った。
二人は刃を交えた格好で泥道で押し合う。体格に優れたパスキュイの剛力が、じわじわとアッシの身体を地面に押し込もうとする。
「小汚い流れ冒険者め。てめぇなんざ、あの時剥ぎ取りに遭って死んどけばよかったものを!」
それを聞いたアッシの腕に力がこもった。受けていた長剣を弾き、雨粒を弾く煌きのような剣閃が走った。
「ひゅうっ!」
独特の音がアッシの口から洩れる、と同時に、アッシの短剣はパスキュイの長剣を翻弄するのだ。大きいばかりで使い慣れぬ凶器に振り回され、パスキュイは自分の
「ひゅうっ!」
「うぐっ!」
足場の悪い泥道を踏み外した瞬間に、アッシの短剣がパスキュイの胸骨を割り、深々とその刃を埋め込んでいた。
パスキュイの大きな胴はびくりびくり、と痙攣していたが、やがて脱力し、その重みが剣を伝ってアッシにのしかかる。アッシは物言わぬ骸となった男の身体を泥道に投げ捨てた。
ハエン支道に大きな雨粒が降り注ぐ。倒れるもの、もはや死しているもの、まだ息があるもの、分け隔てなく濡れそぼる。
アッシはマントの縁を引き出し、フードを被って足早に駆けた。パスキュイの言葉が気になるのである。そして、先に行かせたマルトスの安否も。
マルトス屋敷に駆けこんだアッシの耳に、男の悲痛な叫びが飛び込んだ。
「シェスター!」
土間を抜け、囲炉裏端を突っ切った先の台所に至り、それは見えた。
長机が蹴倒され、竈に掛けられていた鍋はひっくりかえされ、灰は水を吸って湯気を吐いている。そんな中、斃れたシェスタをマルトスが抱きしめていた。
「シェスタ! シェスタ! しっかりしろい!」
「っ……マル、トス……」
震えるシェスタの唇に、一筋の血が零れた。
「に、げて、だれ、か……」
「ああ、わかった! わかったからもうしゃべるんじゃねえ!」
血が泡になって溢れて唇を濡らす。シェスタは懸命に何かを伝えようとしているのだった。
「みえ、ない、て、が……」
何かを見ようとするシェスタの目が、ぐっと見開かれたまま、顔を覗き込むマルトスの目とかち合った。だが、その目から急速に光が失われ、肺に溜まった息が静かに抜けていくのを、マルトスは己の腕の中で感じ取るのであった。
「っ!……シェスタ、シェスタ……!」
手下を幾人も率いていた庄屋親分であるマルトスの顔はそこにはなく、何か大切なものを失った一人の男の、今にも崩れそうな気持を懸命に立て直そうとする、滑稽だが、物を言わせぬ熱い感情が現れていた。
「マルトス」
「……先生」震える背中でマルトスは答えた。
「どうしてシェスタは死ななきゃならないんだ!?」
「シェスタはパスキュイの野郎が放った刺客の毒を食らったんだ」
くわっ、と潤んだ目がアッシを見た。
「あの野郎はあんたを殺すために、グラナッデンで殺しの出来る奴を雇った。隠れて毒殺できる奴を。そいつはまだ、この屋敷にいやがるだろう」
「なんだと!」
「だがパスキュイはもうない。俺が殺した。いるんなら出てきた方がいいぜ……」
アッシはマントの下で短剣を握り、殺気を込めた声で屋敷の虚空に向けて話しかけた。すると、なんと二人の耳にはっきりと何者かの声が返ってきた。
「依頼を受けたからには果たさねばならぬ。たとえ依頼人が死んでいようと。マルトス。お前の命はもらい受ける。そこの冒険者も……」
「ちくしょうめ! 隠れてないで出て来やがれ!」
マルトスが六角の杖を握り四方八方を突き回す。板壁が破れ、机や椅子がひっくり返され、囲炉裏の灰が宙を舞った。
「っ! ひゅうっ!」
アッシは本能的にマルトスを突き飛ばし、己も体を翻して横っ飛びに飛ぶ。瞬間、ふたりの立っていた背後の壁にカカカ、と細い針が何本も突き刺さった。
「あれは毒針だ。この前の毒も、そこのシェスタもこの毒針でやられたんだ。傷が小さすぎて見てくれじゃ分からないわけだ」
「くそったれめ! 一体どこに隠れてやがるんだ!」
姿の見えぬ毒殺者の恐怖に喚き散らすマルトスは半狂乱になって杖を振り回した。
「落ち着けマルトス。相手はどうやら
「呪いだぁ?」
「世間じゃすっかり廃れた技だ。土と己の血を混ぜて作った石に念じて通力を得る。暗殺の技としてのみ生き残っているらしい、と小耳に挟んだことはあったが」
アッシはマントの下から短剣を抜き出し構えつつ、ゆっくりとマルトスから離れた。姿隠しの呪いを使い、視界の外から毒針で刺す。それが暗殺者の仕掛けであった。
恐らく最初の毒殺も、勝手口から姿隠しで堂々入り込み、土間に居た手下を毒殺したのであろう。
先ほどは勘が働いて躱すことができたが、二度目があるとは限らない。相手はこちらの集中が切れたところで陰から毒針を繰り出してくることは間違いない。そして、人はいつまでも緊張を続けられるものではない。
となれば、アッシもまた、とっておきの奥の手に及ばなければならなかった。マントの下に手を忍ばせ、にじらせた足先を囲炉裏の灰に落とし込む。灰の中に沈んでいる熾火の熱が足先を昇ってくるほどに熱い。
「マルトスさん。壁に背中をつけてじっとしていてくれ」
「お、おう!」
言われた通りに壁に貼り付けになるマルトスは、四方に意識を配って立つアッシに注目した。
アッシの片足に囲炉裏の火が燃え移りかけた、その時。
「ひょうっ!」
一息にアッシが囲炉裏の灰を燃えさしの炭ごと蹴りあげる。舞い上がる炭の粒欠片や灰の粉が煙のように部屋の片面を舞った。
そしてそれは、姿隠しにより身を隠す暗殺者の姿を、ほんの一瞬だが目に見える形にするのだった。暗殺者は、息を殺し、音を殺して、アッシの右正面から近づきつつあったが、この行動に肝を潰したか、すぐさまアッシの視界から逃れるべく、さらに右へ右へと身を隠す。
だが、アッシにはその一瞬の視認さえあれば充分であった。アッシのマントに隠された片手から、何かが煌き飛び出たのを、注目するマルトスの視界が捉える。
その瞬間、何ものもない虚空から絶叫が部屋中に轟いた。
「ぎゃああっ!」
叫びと共に夥しい鮮血が部屋の天井に至るほどに噴き出でて、叫びをあげた正体をこの目に晒す。
そのものは片手を血が噴き出る首筋に抑え付け、もう片手に数本の針を掴んだ暗殺者の姿であった。全身を黒い装束で包み、顔形、年齢、男女さえ定かならぬその者は、やがて膝から崩れ落ち、己の血で作った溜まりの中に沈んだ。
目の前の惨劇を言葉もなく食い入り見つめたマルトスの耳に、ぶうん、と羽虫の唸るような音が微かに聞こえる。
「ひょうっ!」
アッシは短剣を納め、宙に向けて手を伸ばし、何かを掴み取った。
「こいつは俺の隠し技って奴でね」
アッシの手には、小皿程の大きさの環が握られていた。その縁は薄い刃となっており、それが暗殺者の首筋を深々と切り裂いたのであった。
「先生、あんた一体……」
「ただの流れ者の冒険者。それでいいだろう」
夜明け前に、雨は止んだ。
アンダルの町も、マルトス屋敷も散々たる有様であったが、パスキュイは死んだ。アンダルの住人はマルトスを呼びよせ助力を頼んだ。マルトスもそれに応え、負傷者の手当てに忙殺された。
マルトス屋敷の裏手に、此度の騒動で亡くなった者たちの墓が急ぎ早に作られつつあった。
その一つに、綺麗な麻布に包まれたシェスタが寝かされている。
「明日の家令様お目見えは中止になるかもしれねぇな。町はめちゃくちゃだし、あの雨だし、隣の宿まで来てるかもしれないが、ここまでは来ないってこともある」
「その時は代官はどうなる?」
「さてな。周りはどうとか言ってるけど、俺は別に代官になりたいわけじゃない。ただ、パスキュイの奴が代官になるのを止めたかった。それだけだったのによ」
マルトスは墓穴に寝かせたシェスタの上に土を掛ける。
「親父さんに頼まれていたのに、俺はシェスタを守れなかった。大事な一人も守れない、酷い男なのさ……」
その寂しい背中を、アッシは暫く見ていたが、やがて踵を返し、マルトス屋敷を後にした。懐には金貨八枚を忍ばせて。
アッシは受け取った金貨の内、二枚を屋敷に遺していった。それがマルトスの気持ちになにがしかの手心となるとは思えなかったが、それでも、シェスタを思うマルトスと、マルトスを思っていたシェスタへの慰みに、何かをせずにはいられなかった。
つむじ風のアッシ。道から道へ、町から町へと渡り歩く流れの冒険者。
剣一つで敵を斬る。親もなく、兄弟もなく、ただ一人流離う冒険者。
なぜアッシが、一つ所に留まらず、冒険稼業に身をやつすのかは、定かではない……。
アッシ流浪日常 ~底辺冒険者は人から人へ渡り歩く~ きばとり 紅 @kibatori
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