第4話

 マルトス屋敷で毒が盛られた事件から三日目の晩。あれ以来、警戒を密にしているお陰か大過なく時は過ぎた。


 パスキュイ一家も遂に諦めたかと、手下どもは胸を撫で下ろすところであったが、アッシの流れ冒険者の勘働きはむしろ一層激しく危機の予感を覚えるのだった。


「今朝から顔色が優れねぇな、先生」


 マルトスが炉端で煙管を吹かす。この辺りじゃ希少な煙草だが、マルトスは余程の煙草道楽と見え、何本もの柄違いの煙管を持っていた。


「今日は一雨来るな……」


 マルトスは外を見た。なるほど、何やら雲行きの怪しからん空模様である。


「なァ先生。流れの冒険者ってのは一つ所に腰を据えられねぇだろう。宿代が嵩むだろうしな……だから雨だろうが雪だろうが旅に出なきゃいけない、そうだろう?」


「そうだ。前が見えない位激しい雨の中、次の町で小鬼狩りの依頼が出てると聞いて旅出たこともある」


「へぇ! そりゃ大変だね。さぞ厳しい旅の身空よなぁ」


 そう言いながらも、マルトスの声音にはどこか羨むような色が含まれていた。


「……俺も昔、冒険者になろうと思ってた時期があった。グラナッデンまで出てよ、冒険宿の木戸をくぐって、一端の冒険者気取りに酒なんて飲んでみたりしてさ……下水に溜まる大粘菌掃除なんかもやってみたりしたよ」


 大粘菌は人の集まる大きな町の下水に時折生まれる下等な魔物であり、手順さえ知っていれば子供でも退治できる代物だ。ただ、その手順を守らねば人ひとり容易く食い殺す上、手順が手間なため冒険者の仕事としては嫌われていた。


 ゆえに、冒険者になってみようという未熟な若者か、一つ所に腰を据えない流れの冒険者の仕事と相場が決まっており、したがって報酬も安いものであった。


「……けど、俺には無理だったよ。粋がって、無茶をして……」


「シェスタの親父を亡くした」


 はっとした顔でマルトスはアッシを見る。


「シェスタの親父さんは流れ者だったと聞いた。そいつは……流れの冒険者だったんじゃないのか」


「……そうさ。元冒険者。はじめは当時ここいらに大繁殖していた小鬼を狩りだすために他所から集められた冒険者の一人だった。そいつは荒っぽい連中の中で妙に腰が据わっているというか、落ち着いているというか、ともかくそういう奴だった。屈託なくて気の良い男で、ガキだった俺は暇を見つけちゃ一緒に行動していた。そのうち小鬼も狩り尽くして、他の冒険者が散っていった後もここに居座って、俺の親父の仕事を手伝うようになったのさ」


「そして所帯を持って、シェスタが生まれた」


「ああ。多分あの人は、俺に冒険者なんてやってほしくなかったんだろうな。でも口には出さないで、俺の無茶に付き合ってくれた……命まで張るこたぁなかったのによ」


 ちら、とマルトスの目は渋り空を前に干し物を畳んでしまい込みに走るシェスタを見ていた。


「俺はあいつから見たら、親の仇みてぇなもんよ。俺はな、いつだって頸をかかれてもいいと思って今日まで生きてきた。……でも、今は生きてぇと思う。このままパスキュイが代官になっちまったら、ここらはあいつの意のままになっちまうだろう。今は一時金はあるが、必ずぶり返しの凶作がいつかやってくる。本当はその時のために準備をしなきゃならねぇんだ」


 それが庄屋主であるマルトスの偽らざる気持ちであることを、アッシは悟るのであった。


 やがて渋りに渋った空は堤を切ったような大雨を降らせ、さらに風も吹いてきた。


 マルトス屋敷は大慌てで家人手下どもが木戸を閉じ、窓を閉めた。囲炉裏では煙がくすぶり、入り込む冷気に肩を寄せて暖を取っていた。


「うう、さむ。町に行った連中は大丈夫かね」


「ジョーからの連絡はまだないのか」


「へい、なんとも」


「この雨風の中じゃ仕方あるめぇ」


 がたがたと風に軋む壁、屋根に葺かれた藁が剥がれる音が聞こえて一同はぞっとするものであった。


 空はまるで夜中のように暗く、煙抜きの穴から雨雫がぼたぼたと、奥屋まで滴ってくる。それがまた一層骨身に染みる寒気となるのである。


 と、その折。明らかに家鳴りとは異なる、戸板を叩く物音があった。


「おい、見てきな」


「へい。誰だい、こんな雨の中」


 手下が戸板を外すと、麦わら編みの蓑姿の男が土間に転がり込んできた。


「水路端のハンスじゃねぇか。どうしたよこんな時に」


「はぁ、はぁ、はぁ……マルトスさん、大変です。水路が大変だ!」


「落ち着きなハンス。誰か、水でも、いや、白湯だな、飲ましてやんな」


 雨と風ですっかり冷え切った身体を強張らせ、ハンスなる小作百姓は震える手で白湯を受け取った。


「うへぇ、あったけぇ。ああ、落ち着いてる場合じゃないんだ。マルトスさん、大変です。水路が切れそうになってんだ」


「なんだと!」


「この雨で水位が上がって、水門を一杯にしてるんだけど、もうそれでも追いつかなくって。どうしたらいい? このままじゃ水路が切れて、ここら一帯に水が溢れっちまうよ」


 幸い、ハエン支道一帯は収穫が粗方済んでいるゆえ、畑の作物がダメになることはないが、それでも家まで水が迫れば家財を痛めて困窮する家が出ることは疑いない。そうでなくても、溢れた水が畑に流れ込めば土砂に混じった流木や石礫により畑を痛めることだろう。


 これはまさに庄屋主マルトスの判断が必要な事態である。マルトスは暫し考え、ハンスに答えた。


「ハンス。畑に水路の水を入れろ」


「は?」


「決壊させてしまうよりいっそ畑に回しちまった方がいい。幸い、畑は殆ど裸だ。雨が止んで水が引いた後、なんとかすればいい。決壊する前に言ってくれて感謝するぜハンス。今ならまだ、なんとでもできらぁな」


 そうと決まれば、マルトス一家の動きは早かった。手下たちは立ち上がり、雨具を被って風雨のなか続々と出掛けて行く。


「いいか。全部の畑に繋がる水路を開けてやれ。急げ! 時間との勝負だ」


「へい! 行ってきやす」


「マルトスさん、すんません。何から何まで……」


「なあにハンス。これが俺の仕事ってもんよ。他の百姓連中にゃ後で俺から詫びを入れる。お前さんは家族の所に帰んな」


「本当にすんません、ではこれで……」


 ハンスは何度も頭を下げながら、畑と家族を守るべく家路について行った。


 あっという間にマルトス屋敷の中は空も同然となった。外は変わらず激しい雨が降り続いており、囲炉裏に掛けられた薬缶やかんの湯気と、炭の爆ぜる音が嫌に耳に付く。


 囲炉裏に向かっているのは、マルトスとアッシのみであった。シェスタは台所に立っていた。


「先生。これが俺の仕事だ」


「そのようだ」


「パスキュイの野郎も庄屋主だ。今頃同じように方々駆けずり回ってるだろうよ。この分じゃあんたの仕事はないな。なに、きちんと金は払うから心配すんな」


「さて、それはどうだか」


「なに?」


 寒気除けにマントを着込むアッシは内懐で短剣に手を掛けた。


「マルトス。パスキュイという男は百姓たちを養うような懐の深い親分なのか」


「それは……」マルトスは言いよどんだ。


 アッシの脳裏に、夜盗も同然まで追い詰められた百姓たちに襲われた時の記憶が鮮明に焼き付いている。


「しかし今、手を打たないと次の作付けが大変な事に……」


「パスキュイは代官になろうという男なんだろう。代官になれば、庄屋は別なものに任されるんじゃないか」


「……そうだ。多分パスキュイの庄屋株は奴の手下の一人が受け持つだろうな」


「もう庄屋をやっていくつもりがない男が、百姓土民の世話をするために苦労をするとは、俺は思えん」


 むしろ、とアッシは続ける。


「この重たい雨の中、手勢を使って何かを仕掛けるには好機と思うだろう。毒を盛って以降何の音沙汰もないのは、仕掛けの準備をしていたからじゃないかと思う。こっちが警戒して、動きが鈍る合間にな」


「そんなことが……いや、だが……」


 マルトスは信じがたいという顔をしていたが、次第に眉間に皺を寄せて頷いた。


「そうだ。パスキュイはそういう男だ。しかしこの屋敷を仮に襲うにしても、ジョーの奴が町を見張ってる。そうでかいことは出来ねぇはずだ」


 アッシは立ち上がり、暴れている板戸の傍に立ち、板戸を手で抑えた。震える板戸を通して外の風の激しさを感じ取っているのだ。


「この風の強さが気になるのだ」


「先生は心配性で困る」


「あんたの身を守るのが依頼だからな」


 そうして暫しの間、アッシは土間の片隅で立ったり座ったりと落ち着きのない所作を繰り返していた。


 やがて畑の水路を見に行った手下たちが、例外なく濡れ鼠の姿で帰ってきた。マルトスはシェスタに命じて手下たちの身体を拭けるよう、替えの服やら何やらを配ってやった。


 外は酷い有様で、やはり水路は決壊してしまったものの、間一髪、一帯への大規模な浸水は防げた模様だった。ハエン支道一帯の畑に流れ込んだ泥水は相当な量であるらしく、冬撒きの作付けが遅れることは疑いなかった。


「頭がいてぇやなぁおい」


「ばっきゃろう。全部水に浸かっちまうよりましだろうが」


「ちがいねぇ」


 囲炉裏にがんがんと炭がくべられ、囲炉裏端はまるで蒸し風呂のような熱気であったが、手下たちとマルトスの目は明るかった。


 だが、その時。外は遠くより不穏を告げる音がする。


「何か聞こえないか」


「なんだい先生」


「アンダルの町がある方角から、鐘の音らしきものが聞こえる」


「はぁ!?」


 驚いたマルトスは板戸を開けて外に飛び出た。外は雨脚が弱まってはいるものの、風はなお一層強く吹き付ける。その中で、風に流されて聞こえてくるのは鐘を乱打している響きであった。


「あれはアンダルの警鐘だ。火事だぞ、町が燃えている!」


 雨雲で暗く霞む遠方から黒い煙が筋となって立ち上っていた。


「こりゃやべぇ。おいお前ら、気合入れ直せ。今からアンダルへ行くぞ」


「へ?」


「あれだけ警鐘をぶっ叩いてるってことは大分火の手が大きいってことだろ。焼け出された連中が町から逃げ出してくるかもしれねぇ。けど、いまは畑も水浸しだ。火から逃げて水に溺れるような輩が出たらこっちも寝覚めが悪い。避難してきた住民がいたら屋敷なり百姓屋なりで救護してやらにゃいかん」


「へ、へい! すぐに支度しやす」


 再び囲炉裏端では手下たちが外出の準備を始めた。一度は畑向きに出張って疲労困憊ひろうこんぱいの手下たちに気を入れ直すべく、マルトスは秘蔵の蒸留酒を蔵から出させ、手下たちに呑ませた。火を溶かしたような酒の味に内臓が燃える心地の手下どもは手に手に威勢よく出動するのであった。


「俺も行こう」アッシはそう名乗り出た。


「そりゃあ有り難い、一人でも手が多い方がいいからな。シェスタ、お前は留守番だ。帰ってきた奴が居たら中で手当てしてやれ」


「はいな。お前さん」


「なんだ」


 シェスタはマルトスに六角の杖を持たせてやり、言った。


「お気をつけて……行ってらっしゃい」

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