さよなら風たちの日々 第7章ー7 (連載24)
狩野晃翔《かのうこうしょう》
第24話
《そしてもうひとつのピリオド》 梗概ー3
翌、日曜日の午後。少女は先生に渡す手紙をポーチに入れ、家を出ました。
学校の職員・生徒名簿で住所を調べると、教師が住んでいるのは江戸川区平井にある賃貸マンションです。駅からは徒歩15分。地図を見ながら捜していると、そのマンションはすぐ見つかりました。
ここ。ここ。ここに先生が住んでいるんだ。このマンションのインターフォンを押すと、先生の声が聞ける。そして先生に会える。
少女の心は弾みました。
けれど少女は、すぐにインターフォンを押せませんでした。
心臓が大きな鼓動を繰り返してしまい、手が震えてしまったからなのです。
少女は何度も深呼吸をして、心を落ち着かせようとしました。
そうしてインターフォンの前で立ち尽くしていると、やがてエレベータが降りてきました。
少女は反射的に、エントランスの陰に身を隠します。
すると、エレベータから降りてきたのは、その教師でした。
先生。少女はそう声をかけようとしました。
けれどそのとき、教師は一人ではなかったのです。
続いてエレベータからは、小さな三歳くらいの男の子と、そしてその男の子と手をつないだ女性が降りてきたのです。
少女に胸に、稲妻のような衝撃が走りました。
その稲妻は少女の心を、ビリビリに引き裂いてしまいました。
そう。そのとき少女は、思い出します。
教師は以前、自分が既婚者だ、という話をしていたことを。
その相手とはオートバイで十和田湖に行ったとき、一緒に流れ星を数えた女性であること。そして今はす二人のあいだに、小さな男の子がいるということも。
けれど学校にいる限り教師は少女の恋の対象であって、教師に家庭があろうがなかろうが、少女には関係ないことだったのです。
しかし現実に教師には妻子がいて、家庭があります。
それを目の当たりにした衝撃は、少女の心を打ち砕くのに十分でした。
教師とその小さな男の子。そしてそれに寄り添う奥様らしき小柄な女性。
そこには笑顔に包まれた、幸せな家族の姿がありました。それはひと月ほど前、少女と教師に大事件があったことなぞ、微塵も感じさせない光景でした。
少女は長いあいだ、そのうしろ姿を見送ってから、とぼとぼ、あてもなく歩き始めました。
先生。ごめんなさい。
わたしは先生の家庭を壊すつもりなんてないんです。ただ先生に会いたくて、ここに来ただけなんです。
うつむき加減で歩く少女はやがて、荒川と中川を跨ぐ平井大橋にたどり着きます。
平井大橋は全長484m。都内で最も長い、鋼カンチレバーの箱桁橋です。
少女はその橋の上から、ぼんやりと水面を眺めていました。
けれど少女の目には、何も映っていませんでした。
そのとき少女の目に映っていたのは、楽しかった教師との出来事、思い出ばかりでした。
そうして少女は長い時間、平井大橋の上から水面を眺めていたのです。
やがて少女はポーチから、先生に渡すはずだった手紙を取り出しました。
そして少女はその手紙を最後まで読み直してから、小さく小さくちぎり、それを少しずつ風に飛ばしました。
その小さくちぎられた手紙は風に舞い、季節はずれの雪のように、ひらひらと水面に落ちていきます。
さようなら。先生。わたしはこの恋に、ピリオドを打ちます。
その直後、河川敷のグラウンドで野球の練習をしていた少年が叫びました。
あっ、今、橋から誰かが落ちた。
それは九月。風にまだ夏の名残りを残す、ある日曜日の午後でした。
【10】
寺下龍二の
そのあらすじをヒロミに話して終えて、ぼくは言った。
「この河川敷で子供たちの野球練習を見てたら、その話、ふと思い出してしまったよ」
ヒロミはしばらく黙っていたが、やがて言葉を選ぶように
「やっぱり、そこにいたるまで、いろんな物語があるんですね」とだけ、答えた。
「帰ろうか」
ぼくが立ち上がるとヒロミは、制服のプリーツスカートに付いた雑草を払い落して立ち上がり、ぼくに続く。
ぼくは今でも疑問に思うことがある。ヒロミはぼくと歩くとどうしても小走りになる。だからぼくはこの頃になるとなるべくゆっくり歩き、ヒロミの歩く速さに合わせることにしていた。すると、わざと、だろうか。偶然を装った、彼女の作戦だろうか。それは並んで歩いているとき、少しだけヒロミの手とぼくの手とが触れ合うのだ。ぼくはその都度、その手を握りしめたくなるのだが、でもそれをするとぼくは、
受験どころではなくなってしまう。オートバイどころではなくなってしまう。
ぼくはかろうじてその誘惑から逃れ、そうして彼女を堀切菖蒲園の駅まで送っていくのだった。
《この物語 続きます》
さよなら風たちの日々 第7章ー7 (連載24) 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7
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