第2話 未熟

四阿に一人残された菖蒲は、薬類を抱えて来訪してきた和尚の秀哲に、僅かな違和感を覚えた。

一目でも会っているのなら、きっと蓮も悟ったことだろう。

菖蒲が無言で秀哲の―――特に怪我をしているわけではないが―――処置を見ていると、急に彼の手が止まった。

「…………あの?」

恐る恐る菖蒲が尋ねると、和尚は切れ長の目元を小さく細め、にこりともしない鉄仮面を張り付けたままに口を開く。

「不躾な質問ですが、あなたは辻崎さまとどういったご関係なのですか。純粋な興味ですので、答える義務はありません」

機械的に淡々と喋る男だな、と菖蒲は思った。

逡巡の後、菖蒲はあらかじめ蓮と取り決めた通りの芝居を打った。

「兄さん、です。似ていないとはよく言われます」

へえ、と秀哲は無感動な声を上げる。

「随分な長旅をしていらしたようにお見受けしますが……」

「その、都から来たので」

「それはそれは。あちらは大層酷い有様だとか」

菖蒲は二、三度その言葉に目を瞬いた。

維新に至るまでの小さな、けれど熱量を持った争いの主戦場となったのは、紛れもなく菖蒲や蓮の故郷である京都だ。

焼け出された孤児や弱った貧しい家族は腐るほどいるが、それを誰かが率先して救おうとしている様は見られない。それら弱者も、それについては期待さえしていないようだった。

「ええ、まあ。うちは商人でしたが、ひどい戦で焼け出されてしまって。父も母も、家も、無くなってしまいました。それで親戚を頼ろうと、兄さんが」

自分でも白々しいと思う嘘をつきつつ、無味乾燥な声音の男を見やる。

ゆっくりと瞬きしている秀哲の表情は平坦で―――どこまでいっても静かなものだった。

いっそ、元から何もなかったかのように。

「それは大変でしたね。あなたもお兄様も、まだ随分お若くていらっしゃるのに」

意外にも気遣うような言葉が返され、菖蒲は僅かに困惑した。

「己が歩んでいる道を、本当に望んでいたのかどうかさえ分からなくなったとて、多難と苦悩に負けず、強く生きることを求められ続ける」

この僧侶に菖蒲が感じる違和感は、きっとこういうところだろう。全てを分かっているような、何も知ろうとしていないような、その曖昧な不気味さ。

「私も、そうでした」

え、と零した声は聞こえてしまっただろうか。

間抜けともとれる空気の揺れに、僅かに和尚の顔は和らいだように見えた。

「長くなりますが、よろしいですか」

菖蒲が小さく頷いてみせると、空になった薬湯の器を持ち上げ、片付けつつ淡々とした調子で口を開く。

「ご覧の通り、ここはひどく廃れた寺です。私の師、先代の和尚が存命の頃は、多くの門弟を抱えるほどの寺でしたし、それは盛況なことでした。……しかし、大悟に至り、決して怒らず誰に対しても平等に心優しかったあの方を妬む者も、少なからず居たことでしょう」

常闇の眼が、すっと菖蒲を捉えた。

秀哲の身体は細く薄いのに、不思議と弱弱しさは感じない。

「私は幼い時分、親を亡くしました。ひもじくて、悲しくて、寂しくて、それは辛かった。死んでしまおうか、と泣いていたある日、私はあの方に拾っていただき、秀哲の名を授けられました。あの方のことを、私は実の父よりも父として、お慕いしました。それゆえに私は仏道に人一倍励みましたから、周囲の期待も大きかった。和尚の一番弟子なのだと、いずれはこの寺を継ぐのだと」

そこまで言葉を紡いで、和尚の色のない唇が、何かを言いかけてやめたように、はったりと動きを止めた。

……しばらくの怖ろしいような静寂の後に、彼は簡素な声で言った。

「ある日、和尚が死んだのです」

菖蒲は小さく眉を寄せ、視線を己の手のひらへ落とす。

何故だか、何も言ってはいけない気がした。

「自殺などではありません。首のところを火かき棒で、胸のところを短刀で一刺し。下手人はお武家様でもないのに刀を持っていたとあって、私どもは多いに狼狽えました」

手燭と盆を手に持つと、秀哲は流れるような仕草で立ち上がった。

「それからは、生き地獄です。私が寺小姓の弟子……海鎮をとるまでのあいだ、下手人探しから始まった疑心暗鬼の種は、和尚の教えを嘲笑うかのように掻き消し、人が愚かであると、救いようなぞないと高らかに言わせるだけの何かを、あの地獄は私に残してゆきました」

分かったのです、と、やはり独特の間を置いて、秀哲は再度簡素に言葉を繋いだ。

「もう二度と私は、私たちは、あの頃には―――和尚に教えを乞うていたあの日には、戻れないのだと。後はきっともう、お分かりになるでしょう」

ちら、と深淵のような眼が菖蒲を一瞥したかと思うと、彼は小さく会釈した。

「長々と失礼しました。久しぶりのお客人だったものですから、少々舞い上がっていたようです。御免ください」

では、と秀哲が踵を返して戸の方へ歩んでゆく。


「何故」


はた、と秀哲は立ち止まる。振り返りはしなかった。

空気を切り裂くような菖蒲の声には、純粋な心そのものしか入っていない。

「その話を、僕に」

剃髪頭が小さく動いたが、やがてゆっくり、あの蒼白な手が戸を開けた。

何故でしょうね、と相も変わらず感情の籠っていない声が、聞き取れるかどうかというほど小さく応え、今度こそ彼は退室した。


後には、おかしな後味の悪さが残ったばかりである。

菖蒲は僅かに、眉根を寄せた。

              ◇◇◇


「どうでした、あの和尚」

ちゃっかり化け物に出された夕餉を平らげた挙句、一番危険そうな人物を菖蒲に丸投げしてきた蓮はと言えば、開口一番そう菖蒲に問うた。

「どうでしたも何も無い。大体お前、緊張感をどこへやった。経験豊富だなんだと言ったかと思えば適当な……」

「なんてことを言うんです。蓮は若様のお早い成長を促しているだけですよ。まあ……背丈の方は手遅れかもしれませんが」

「だから平均だって言ってるだろ!この妖怪減らず口!!」

「この減らず口が恋しくなる日が来ますよ、それとも、今まさに心細かったりしたんでしょうか?」

何を言っても何処吹く風の蓮の様子に、菖蒲は拗ねたように視線を逸らした。

だが、僅かな後に渋々と口を開く。

「……奴の名前、分からなかった」

「名前、というと……ああ、結局妖ではあったんですね」

蓮は楽し気にそう言って、畳に腰を下ろした。

「こちらに探りを入れて来たし、対応そのものもどこか手慣れていた。人間が来ること自体は珍しいわけじゃないんだろう。……まあ、それが自然なものかどうかはさておいて」

「ふむ……となると、日常的に人間に触れているゆえに、ああいった動作を可能としているという線もありますが……人を喰っているにしては些か空気が澄み過ぎていますね」

偉い偉い、と蓮は棒読みで菖蒲の観察眼を褒めたが、褒められ当の本人は苦々しいという形容の相応しい顔をしていた。

「……話を聞いた限りでは、何とも言えない。怨恨や後悔の色も感じられなかったし、そもそも奴は自分から身の上を語ってきた」

蓮は珍しく眉根を寄せ、着物の袖口を合わせて腕を組んだ。

「確かにそれは珍しいですね。我々の素性に感づいているとしても、罠にかけるというには些か回りくどいですし……まあ、あの物腰から察するに、あるとすれば『無気力』でしょうか。ある種悟りともいうべき域ですから」

菖蒲は蓮の言葉に頷いた。

感情を見せない一挙一動。己の過去を語る時でさえ、妙な間の取り方以外に、特徴という特徴さえ見つけられなかった。

「人から妖に転じている以上、動機は生前にあるはずだ。だが、そんなものは……」

秀哲の話を本当のことと仮定すれば、彼の育ての親であり敬愛の対象であった『先代の和尚』を起点として寺の不幸は始まり、この異様に広い敷地の意味を裏付ける、元々は多くいたらしい門弟。

そして彼自身に降りかかった、おそらくはただ一人生き残ったという事実。

そこまで考えて、はた、と菖蒲は動きを止めた。

「ここ一帯で有名な寺であったのなら、寺に降りかかった不幸なんて、それこそあっという間に広まるはずだが……じゃあ」

「若様?」

菖蒲の常ならない様子に、蓮は顔色を窺った。

だがそれに構わず、菖蒲はふと蓮に尋ねる。

「お前さっき、空気が澄み過ぎていると言ったな。あれはどういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ。普通、人を殺したり喰ったりすれば、必ず痕跡が残ります。それは真祖でも同じです。ですから、何かしらそういう妖らしい動きをした場合は顕著に表れるものですが……どういうわけか一体化して見えるんです」

蓮の説明に、菖蒲は自分の想像が現実味を帯びてしまったことをほんの少しだけ後悔した。

鴻上家に伝わる神の両眼、『鳳仙ほうせん玉眼ぎょくがん』は、妖にとって最も恐れるべき千里眼のようなものだ。

妖自身の過去、現在、時には未来までも見通し、何に堕ちたのか、どんな形をしているのか、やがて何になり果てるのか―――それを瞬時に読み解くのだから、無理もない。

しかし、その最大の欠点は『視るべきものを特定し過ぎた』ことだ。

そう、結果的に――。

菖蒲の言葉に、蓮は僅かに瞠目した。

だがすぐさま自嘲するような笑みを浮かべ、首を横に振った。

「それなら話は別でしょう。なにせ、なのですから」

そして、それこそがこの寺を一種の隔絶された空間にした、最たる理由。

「……弟子をとるまでの、あいだ」

菖蒲はその条件を前提に、再び秀哲の言葉を振り返った。

だが、小骨が引っかかったような心地を覚えたのは、彼のその何気ない一言だ。

その弟子――恐らくはあの寺小姓と出会う前までは、秀哲が地獄と形容するほどの、門弟間での諍いから始まった殺し合いが続き、幽現という駒を欲した真祖や弱小の瘴気たちの格好の餌場となり得た期間があった。

決定的におかしいのは、その秀哲の弟子の存在。

「奴はここが、門弟を数多く抱えた有名な寺だったと言っていた。だとすれば逆に寺の惨事も広まらないわけがない。なのに、殺し合いをするような寺にどうして弟子入りするような奴が現れた?誰にとっても新たな余所者の介入は徳ではなかったはず……」

菖蒲がそう言うと、蓮は事もなげに言う。

「もしかすると、主犯はあの小姓の方かもしれませんね」

「小姓が?いかにも人畜無害そうだったが……そういえばお前、僕が和尚と話した時は一発で分かったのに、何故あの小姓とは二度も話さないと分からなかったんだ?」

何となく気がかりだったことを尋ねれば、蓮はああ、と小さくつぶやいて笑った。

「いえ、何せあまりに気味の悪い瘴気の纏わり方だったので。これは下手をすると操られているただの人間なのでは、と錯覚を起こしました。この眼、意外と不便なんですよ」

「とんでもない贅沢を言うな、お前……」

菖蒲は小さく呆れつつ、こほんと咳払いした。

「何はともあれ、こうなってくるとあの二人は餌場を共有しているか協力している、生前からの知り合いという線で間違いなさそうだな。どれだけ喰ってるかは分からないが、僕の見た限り本人たちからそこまで瘴気の気配がしなかった。多くの餌を求めているわけではないんだろう。露見しないための縛りか?」

「あるいは、もっと単純な話かもしれませんね」

「単純?」

菖蒲が尋ね返せば、蓮はおだやかに微笑んで人差し指と中指を立てた。

「二人で、ひとつの妖ということです」

「ああ、そうか……狩り場を変えずに人を装う回りくどさは、どちらかの『執念』か……」

小姓の方はまだしも、秀哲は嘘をついているような気配だけはしなかった。全くの主観ゆえに、こんなことは理由にはならないのだが。

しかし、二人でひとつならば、片方がここを留まると言ったり、餌は最小限しか取らないと言い張る限り、縛りそのものは出来上がる。

どちらにせよ、と菖蒲は顔を上げた。

「夜が明ける前に片を付ける。とにかく名を探ろう」

菖蒲はぐっ、と羽織を胸元に寄せた。

              ◇◇◇


お師匠様、と少年らしい高い声が秀哲を呼んだ。

「あのお連れ様のご容態は、如何でしたが」

秀哲は無表情に目を瞬き、小さく「大事ないだろう」と告げる。

海鎮は小さく微笑んで、秀哲の無感情な顔を見つめた。

「喰うにも不味くてはいけませんからね」

背筋の凍るような言葉に反して、寺小姓の皮を被った化け物はひどく上機嫌だった。

ここ最近の彼は、秀哲に我慢を強いられてか獰猛さが表に出始めていたように思うのだが。

夜に紛れてしまって、その子供らしい細足しか秀哲には捉えられない。

影に向かって語りかけるように、秀哲は伏し目がちの眼を更に細めつつ「そうだな」と無機質に返した。

「然し、この世はとかく―――無情だ」

平坦で無気力な声にこもった本当の心に、影の奥のがうっそりと笑った。

              ◇◇◇


修祓師には、必ず全項端から端まで諳んじることの出来る教書が存在する。

その名も『妖縁起』。実に胡散臭い響きだ。

だが、中身そのものは値千金と言わざるを得ない。何せ、これまでに退治された真祖の妖全ての詳細な情報が載っているのだから。

そもそも修祓師は、『祓うものが何なのか』判然としない場合、少し実力のある人間程度しか力を発揮できないという、恐ろしい弱点がある。

確かにこれは幽現に限る話ではあるが、ここ二百年遭遇する妖といえば大抵幽現である。真祖にお目にかかろうものなら、それ即ち死。死人に口は無いので、現在生き残っている真祖が何なのかは推測の域を出ない。

逆に言えば、妖縁起に載っているものでしか幽現を作ることはできないのだから、それはもう死に物狂いで覚えるほかないだろう。

わざわざ名、体、実を暴く理由は大まかに言えばこんなものだが、『暴いた』という事象そのもの、つまり言葉の力が修祓師においては重要な役割を果たす。

そのため、妖縁起に併載されている世間一般で認知されている名から推測し、修祓師間でのみ使われる妖の本来の名を、妖本体の前で宣言する必要が出てくるのだ。

幽現形成の七割を占める『名』を暴くという行為は、言わば生き物を守る頑丈な檻をこじ開け、生身と生身の状態まで格を下げるという荒業である。

この荒業を考え付いたのは効率重視だという話だが、結局地道な調査や周到な用意を必要として、後手に回る要因を作ったともいえる。

(まあ、死亡率は笑いたくなるほど下がったんだろうが……)

あまりにも難儀な話だ、と菖蒲はため息を零した。

主に、目下その名前が判然としない魔の正体について。

片や無害を装った寺小姓。片や感情を見せない若き和尚。

予想外だったのは後者は己について自ら話し、しかもそれが意外に役立っていることだった。

勿論菖蒲とて、出来ることならばこれから退治する側の言い分など信用したくはないが、どうも辻褄の合い方が真実を語られたときのそれと、同類に思えたのだ。

不気味ではあるが、不可解ではない。そんなところか。

問題は、両者の関係が本当にただの師弟なのか、ということだ。

二人でひとつの妖というのも、事実妖縁起には存在する。わざわざ廃寺に留まり続けるのも、彼らが僧侶の姿である大きな要因のはずだ。

それを相談する相手が居ないのは―――蓮が見張りと称してどこかへふらり、と出て行ってしまったがためだ。菖蒲も諦め半分で彼の行動は黙認しているが。

思考の海を漂っていると、四阿の戸を小さく叩く音がした。

(叩き方が違う……小姓の方か)

菖蒲が顔を上げて控えめな声で応えれば、やはり戸を開けて現れたのは寺小姓の海鎮だった。

「夜分遅くにすみません。お加減の方はもう宜しいですか」

「はい、その、おかげさまで」

「それはそれは、よろしゅうございました」

にこ、と笑う海鎮がいやに無邪気で、菖蒲は言い知れない悪寒を覚えた。

こういう妙に修羅場感の漂う場面でばかり不在というのは、従者として如何なものか。あの男、帰ってきたら頭から床にぶち落としてやる。菖蒲はそう固く誓った。

「おや、お兄様の方は……」

「……確かその、改めて和尚さまにお礼を言いに行くと」

「そうでしたか、ではすれ違いでしょうか……丁度よい」

は、と菖蒲は無意識に尋ね返した。

「いえ、あの。都の方とお聞きしたので、こういうのお詳しいのかしら、と思いまして」

照れたようにそう言って、海鎮が懐から取り出したのは―――短刀。

どきり、と菖蒲は僅かに心臓が跳ねたのが分かった。秀哲の話に出て来た『先代の和尚』を殺した凶器が、頭をかすめる。

「どう、なんでしょう……ああ、でも刀鍛冶とか刀売りでないのに持っているのは、珍しいですね」

「やはり、そうなんですね」

微笑むその姿は、どこか現実離れしていて菩薩のようだとぼんやり思った。

仏師が彫って見せたり、絵師が心血を注いで描くような―――どこか作り物めいた神聖さ。

不思議な男だと思った刹那、菖蒲は脳内にひらめいた考えに、小さく目を見開いた。

「……なるほど、そうか」

傍にいる海鎮でさえ聞き取れないほど小さな声でそういうと、菖蒲は少し考えた後に口を開いた。

「そういえば、そろそろ兄さんが帰ってきてもおかしくないと思うんですが……すれ違いませんでしたか?」

「え?あ、ええ、さあ、どうでしょう……」

この問いは予想していなかったのか、わずかに様子が揺らいだ。

自ら仕掛けることには慣れていても予想外の出来事には弱い。あの和尚と正反対だな、と菖蒲は目を細めた。

「ええと……よろしければ、ご様子を見て参りましょうか」

「どうもすみません、ありがとうございます」

笑みで取り繕って退室していった海鎮の背を見送り、菖蒲は確信した。

そして静かに立ち上がる。

「……あいつ、僕が頭から床にぶち落とすまでもなくなったな」

蓮が居ない状況を、海鎮は小僧一人を始末できるいい機会と取っていたようだが、逆に今和尚と共にいるわけではない可能性を示唆され、動揺しつつ確認しにいった、といったところだろう。

意外と単純で杜撰な脳をしている。

(……ということは、実行していたのは和尚の方か)

何も感じさせない、ただそこにあるだけの暗闇のような。光があるために自然と出来上がってしまったそれに、あの男は似ている。

「道理で、怨恨も後悔もないはずだ」

わざわざ自ら身の上を語った理由も、全てに説明がつく。

菖蒲は自身の仮説を、幽現らしいどす黒い雨のような、そんな悲しいものでこそないと思ったが―――もし本当にそうならば、ひどく哀れだと感じた。

僅かに複雑な顔で双眸を細め、再び菖蒲は空に浮かぶ三日月に視線を移す。


頃合いだ。

              ◇◇◇


やはり、と蓮はため息を零す。

この寺に足を踏み入れる以前から気にかかった、人の気配を遮る雑木林。

およそ九町(約一キロメートル)にわたり続くこの林は、なにか妙に薄気味悪い瘴気を漂わせている。

これこそがある種の結界―――つまり、特定の妖や変事の首魁が強大な力を得られる場所―――となり、寺の瘴気の隠れ蓑になっていたらしい。

そのために蓮の玉眼は雑木林の濃い瘴気ばかりを感知して、元来の空気と同化するほどあった寺の瘴気に反応を示さなかったのである。

負けず嫌いというべきか、蓮は自分がこの程度の仕掛けに気づけなかったことに鈍りを感じ、ほんの少しだけ自嘲の笑みを零した。

そして、冷静な頭で状況を整理する。

この雑木林こそが妖としての本領を発揮できる最大領域であって、あくまで寺そのものは執着心の拠り所でしかない。

海鎮や秀哲らに本気で戦闘の意思があるならば、寺ではなくこちらに現れることだろう。とっとと本性を現してもらうには、おびき出す方がずっと早い。

……問題は、それを誰よりも理解しているであろう彼らを、どう誘い出すかなのだが。

そこまで考えて、蓮ははた、と足を止めた。

今何か、寺の門から瘴気の移動する気配がしたのだ。

二対一の状況だけは(面倒なので)避けたかった蓮はこんなこともあろうかと、玉眼を応用して万全の監視体制を現在進行形でしいている。

しかし、双眸に捉えた動きは蓮のあとを追っているようにも見える。迷いがなく、そこそこ俊敏で構造も理解しているようだ。

(となれば、外出頻度の高い小姓の方ですか)

スッと見開いた緋色の双眸に、火花が散る。蓮は見物するように後ろから迫ってくる瘴気の気配へ、苦笑を向けた。

これはもしかしなくても、からかった仕返しであろうか。

わざわざこちらに差し向けたのならば、時間稼ぎをしろと、そう言いたいのだろう。

二体同時に祓う必要があるのなら、はなから蓮にそう命令を出したはずだ。

「……参ったな、殺すよりもほどほどに生かしておく方が難しい、と言い聞かせてきたつもりなんだが」

だがその言葉に反し、蓮は面白そうにひとつ笑いをこぼして、来る妖を出迎えるように振り返った。

仙弔花せんちょうか

ひらり、と帯に巻いた二本の飾り紐の片割れが、勝手に外れ、舞い、くるくると螺旋を描き始めると、薄桃の花弁を散らしてしろがねの鞘に収まった刀へと、その姿を変える。

「まあ、夕餉分の仕事はしましょうとも」

仙弔花、と呼んだの鞘を掴んで、蓮は不敵に笑んでみせた。

              ◇◇◇


「座興はここまでだ、御坊」

ゆうらり、と蝋燭の灯が揺れた。

気配のひとつも悟らせずに易々と魔性の背後を取るあたり、随分な格上に目をつけられたと、秀哲は内心、苦笑した。

だが、応えた声は己の意に反して無感情だ。

「やはり、貴方は狩猟者でしたか―――お客人」

今更か、と大人びた言葉が降りかかる。

あなたが、それを言うとはな」

その言葉に、ただただ聡明な少年だ、と秀哲は眼を細めた。

そして擦れた本を閉じ、人ですら無くなった身体を持ち上げる。

「左様……お連れは、海鎮が相手取っているようですね。ならば、物の怪らしく、まことの姿で抗いましょう」

菖蒲が、ハッと目を丸くした。

刹那、蝋燭の灯火がふっつりと消える。

ゴロロロ……と、雷のような唸り声が静寂に満ちた寺を駆け抜け、ぎろり、と血のように赤い巨大な眼が、菖蒲をしっかりと見据えた。

グオッ、と力強く空気を斬る音に、菖蒲は戸を蹴破って飛び退り、真っ直ぐな声を上げる。

五月雨さみだれ‼」

その声に応えるように、丸形を模した花菖蒲の腰飾りが輝き、冷涼な音を引き連れて、水の龍が滑空するように菖蒲の目の前に現れる。

それに手を伸ばして握るや、龍は紺碧の鞘に収まった刀へと姿を変えた。

菖蒲はふっ、と息を吹き、急降下する領域内に明かりを灯す。

妖の結界と化して変貌した寺は、深い闇が充満した、広大な迷路のような有様だった。

どこまでも続く、あの部屋の光景。

そして目の前には――――秀哲と名乗っていたはずの、『妖』。

巨大な剃髪頭の一つ目入道にも似たそれは、目の覚めるように真っ青な着物に身を包み、裾の奥からは百の目がこちらを見、触手のような多数の手足が、まるで千手観音のように背や腰などからおびただしいほど伸びていた。

ひどくおぞましく、ひどく醜い。

だが、菖蒲は決意の色濃く、真っ直ぐな視線を妖に送った。

明瞭な視界を得、武器も手にある。恐れるものなど、何も無い。

すらり、と刀身を鞘から抜き放ち、構える。

一見すれば水がそのまま刀になったような、おそろしいまでの透明と薄青色の絶妙な色合いを孕んだ美しい刀だが、一瞬でも灯りにその身を照らされれば、切れ味を証明するように虹輪がほとばしった。

「妖縁起、第八十三番『漂奇ひょうき』、その妖名を『青坊主あおぼうず』!」

ぎろり、と赤い眼が憎悪も顕に血走る。

本当の名が当たった。―――修祓師の本領を発揮できる状態に、持ち込んだ。

切り裂くような声が、告げる。

「御頸、頂戴す」

ギャアアアア、と、妖が耳をつんざくような鳴き声を上げる。

菖蒲は飛び上って妖、青坊主の懐まで瞬時に入り込み、迫り来て菖蒲を捕まえようとする千の手足を、時には薙ぎ払い、それを足場に駆け抜け、的確に急所を狙ってくるものは鋭く速い剣戟で木っ端微塵にして見せた。

青坊主は怯んだように男の声にも似た悲鳴を上げ、巨大な手が宙を切り裂いた。

先ほどとは段違いの速度で襲い掛かってきた巨大な手に、菖蒲は刀を突きたてつつ緩和し、横に吹っ飛んだ。

――――だが、この領域は灯りに満ちた。

トン、と衝撃に反して身軽に支柱に着地し、ぐっと足に力を込める。

そして、すうっと短く息を吸った。

ギャアアアア、と再び、また違う男の声で青坊主が喚く。

赤い線の眼で菖蒲を凝視し、その姿をみとめると、あの雷光のように速い手足で襲い掛かる。

だが、菖蒲が柱から蹴り上がって手足を道に青坊主のもとへと駆け上がる方が速かった。

菖蒲は駆け上がる道半ばで、更に思い切り飛び上がる。地にされた手が衝撃で怯んでしまうほどの力だった。

菖蒲の周囲だけが、みるみるうちに温度が下がっていく。

真っ直ぐな彼の眼が、青坊主の急所―――額の巨大な一つ目を見据えた。

壱ノ儀いちのぎ

鋭い声が、青坊主の意識を奪う。

あの手足を動かすことさえ忘れ、菖蒲の姿に目を奪われる。

バチッ、と刀身に黄金の輝きが一閃した。

瞬星しゅんせい

そう菖蒲が言うや、あまりにはやいひとつの剣戟が、その名の如く彗星が夜空を切り裂くように炸裂した。

剣戟は青坊主の額の眼を真っ二つにし、だらり、と千の手足が垂れる。

小さく、額の眼の睫毛が揺れる。

途端、ぐわっと何かが菖蒲の身体を包み込んだ。

――――――けれどそれに、実体は無い。

ただ青坊主が、『幽現』であった証に、最後の走馬灯を退治した者にも見せる、『共鳴きょうめい』の感覚。


菖蒲は小さく、目を見開いた。

              ◇◇◇


ガキン、と虚ろな夜の雑木林で、鋭い音が交錯した。

蓮は僅かに双眸を細め、性格に妖の次の手を見定め、刃で受け流していく。

忌々しげに呻くのは――――姿を変えた、海鎮。

耳元まで裂けた口と、鋭い牙。

充血した切れ長の目に、まるで黄金の法衣にも似た豪勢な装い。

海鎮の背後で蠢く巨大な二対の鯉の如き眷属も目に留まったが、首元になにかで一突きされたような傷跡や、心臓の辺りだけやけに破れて赤く染まっている異様な状態も、蓮にはひどく気にかかった。

ギュアアアアガガ、と醜い叫びをあげて、妖は両手を土に突き刺した。

すると背後で涼し気に泳いでいた眷属が、急激な速さで蓮のもとへと襲い掛かる。

玉眼を発動し続けている蓮は、だがその人ならざるものの動きさえ緩やかに感じるほど、全ての動きをしっかりと追い定めた。まるで戯れるように眷属の攻撃をかわし、受け流し、柄を握りなおすと、風を切るように容易く、回転や器用な持ち直しを繰り返しながら眷属を八つに切り裂いた。

血しぶきをあげて四散した眷属は、黒い霧のようになりながら、地に落ちる頃には跡形もなく消滅していった。

子どもの癇癪にも似た、耳をつんざくような声で妖が叫ぶと、今度は彼自らが蓮に襲い掛かってきた。

蓮は手早く刃についた血を払うと、妖の鋭い爪を刀身で受け、押し返す。そうして刀をくるりと一回転させると、短く息を吸った。

弐ノ儀にのぎ

けたたましい声で斬撃を加えようとする刹那、妖の身体は大きく袈裟斬りにされた。

泥水でいすい

肩から足にかけた大きな一斬に、妖の身体は呆気なく真っ二つにされ、己の眷属のように霧が散るが如く倒れると、夜風に乗ってその存在ごと無に帰した。

蓮は疲れるどころか暇つぶしの道具を無くしたように、刀をくるくると遊ぶように回して鞘に納めた。

「……さて、あちらは片付きましたかね」

そう言って顔を上げた時、蓮は僅かに目を細めた。蓮の眼に何かの気配が二つ、映り込む。

彼は小さくため息をつくと、苦笑交じりに呟いた。

「次は人、ですか」

踵を返しかけて、カシャンッ、と小さく音を立てて何かが落ちた。

不思議に思って振り返ると――――まもなくその音の正体は消えた。が、正体を見とめた蓮からは、常にはりつけていた笑みは失せていた。

三日月はもうじき、その姿を隠す頃合いである。

              ◇◇◇


ある時私は、和尚が人ではないと知ってしまった。

きっかけは些細なことで、最近なぜか見かけなくなった門弟の同期のことが気にかかったのだ。恐る恐る彼の部屋へ様子を見に行ったところ、私の知る和尚だったが、横たわる彼の傍でかがみ込み、咀嚼音を立てていたのである。

そのことを見つかりはしなかったし、和尚もまさか私が見たとは思っていなかったらしく、その後特に身の危険を感じることは無かった。昔から表情の乏しかった私は、つまるところ感情を押し殺し、見せないことに長けていたのだ。

けれど、そんな私でもあの光景だけは忘れられず、ひどい後味の気味悪さが、いつまでも尾を引いていた。

あんなに優しく穏やかで、美しい為人をした和尚が、化け物だった。

それは、私が思っている以上に、人間だった私を打ちのめした。

何より、最近寺の戸を叩く者が増えてきたことが、何かただならない現実感と因縁とを私にいやでも覚えさせた。

ある日のこと、偶然寺の門の辺りを通りかかったとき、立ち話をしながら相談に乗っている和尚を見た。

奥へあげてやらないのが不思議だったが、相も変わらず悟りを開いてしまったように、和尚はとても穏やかな笑顔を浮かべていた。

なんだ、いつも通りではないか。やはりあれは、私の白昼夢であったろうか。

そう、一度は流しかけた。

『――――――うちの子が、帰ってこないんですよ』

泣きながらそう和尚に訴えていたのは、若い夫婦だった。

その後も、立ち話するように門前で相談をもちかける来客は、後を絶たなかった。

『和尚様、うちの子も』


『うちの嫁が』


『夫婦になる約束をしたあの人が』


『父が昨日から』


いずれも、この寺からさほど距離のない村々の住人だった。

いつからだ。朝の祈祷の時間に―――勤勉な門弟たちが姿を現さなくなったのは。

いつのことだ。和尚が、『お前しか残らないのかもしれない』などと言ったのは。

いつから、いつから。和尚は相談を持ち掛けるものと、門前で立ち話など始めた。


ああ、そうだ。私は、分かっていた。

きっと、和尚が全て喰い殺してしまったのだ、と。全部、全部、全部。

きっと、異変に気付いていたのは、私だけではなかったはずなのに。

だけれど、寺の者は憐れむばかりで『和尚様が気にされることではございません』と笑いながら言う。

『きっと和尚様に話を聞いてもらえただけで、心も軽くなったことでしょう』と。

―――その言葉を聞いた私の中で、何かが壊れた。それが終わりの始まりだった。

笑いが止まらなかった。涙が止まらなかった。

何が仏だ、何が悟りだ。

和尚のあの笑みは、仏の無力を嘲るそれだったのか?『どうせ居ないのだから、何をしたところで裁かれない』と?

化け物風情が、人様の幸せを壊し、嘲り、嗤うというのか。

私を、嗤っていたのか。

ならば、やることは一つ。得物は火かき棒一つで事足りる。

だが、私の部屋には見覚えのない短刀がひとつ、不自然なほどそのままに、文机の上に置かれていた。

使うしかない。なんとしてでも、奴を殺さねばならない。

教えてやるしかないのだ。

たとえ御仏がその救いの手を伸ばしてくださらずとも、穢れを厭われようと、あの化け物を殺す人間は、必ず居るということを。


―――――そう。私は和尚を殺した。

実父よりも父として慕った彼の人を。何も、後悔などしなかった。

その後の地獄こそが、私への罰だった。

あの崇拝するほか脳の無い阿呆共の所業を静観し、和紙の上でわざとらしく笑んでいる仏も、金属の塊になりながら笑う仏も否定し、私は美しかった思い出ごと、彼らの行いを黙殺した。

気付けば独りになった私に、小僧が言った。

『私を殺して得た地獄はどうだ』と。

くっきり首元と胸元の傷を残して現れた怨念の再来に、私はなんと答えただろう。

本当は何が化け物であったのか、本当は和尚もまた吞み込まれた者であったのか、私はそれさえ追及をやめた。

そうだ、あの少年の言った通りだ。

私は生きながらにしてあの怨念と共に化け物へとなり果てたが、ただひとつ望んだのは、終焉。ただそれだけだった。

憎悪も後悔も何もない。ただ、この不毛で暗い生を終わらせるだけのが、欲しかった。


ああ、私のなんと、未熟なことか。

青い梅を食べてくれる者など、誰も居ないと分かっていたのに。

ただ誰かの手で、終わらせて欲しかったなんて――――――――――。



―――――菖蒲はゆっくりと、思い瞼を持ち上げた。

未だ共鳴の混迷した感覚が残っているが、ひどい頭痛と思えば大したことは無かった。

ゆるりと立ち上がりつつ、菖蒲は胸中で吐露した。

(憐れむ必要はない。そんなものは、誰も求めていない。ただ、あの僧侶は真っ直ぐだっただけだ。熟れる前に枯れてしまった木についた、青い実だっただけだ)

たとえその結末が、どれだけ惨いものでも。

瘴気はみるみる薄まっている。どうやら、完全に祓えたようだ。

菖蒲は傍らに落ちていた刀を拾い上げる。

「五月雨」

そう呼べば、刀はするり、と水のように溶け、腰飾りに姿を戻した。

ようやく混迷具合が正常になり、気が付いて辺りを見回すと、寺は元の姿に戻っているようだ。

雨風に曝されて朽ち果てた、酷い有様だった。

あるべきはずの屋根は落ちて、見上げれば空の闇色が薄くなってきている。

早く従者と合流して、東京府を目指さなければ。

本来こんなところで道草を食っている場合ではないが、あれは放置しておくと危なっかしい。そう、それだけだ。

自分の甘さに辟易しつつも、言い訳を終えていざ行かん―――と思ったが、ピタリと音がなるように動きを止めた。

そして逡巡の後、懐をまさぐって一枚の札を取り出す。

濃紫色の丁寧な筆で紋様を描いたそれに、菖蒲はフッと息を吹きかける。

すると札はひらひらと頼りなく舞いながら、その姿を花菖蒲に変えた。深い紫と緑の美しい初夏の匂いを与えた相手は、分からない。

ただ、手向けた。

「……来世は、幸多からんことを」

菖蒲は、自分でも笑いたくなるほど小さな声でそう言うと、満足したように今度こそ寺の外へと足を向けた。


「お優しいこッたな、これだからボンボンは嫌いだぜ」

バッ、と菖蒲は目を丸くして身構えた。

聞いたことのない声だ。ひどく鮮明に聞こえてきたから、そう遠くない。

「どいつが重てェ腰上げたのかと思えば、嫌われ者の姫鶴で?挙句なまッ白いガキを寄越すとは。お前らの危機感どうなッてんだよ、危機感」

とん、と身軽な着地音が目の前でする。

菖蒲は小さく目を瞬いたが、瞬間眉根を寄せた。

「相変わらず、お偉方ほど使いもンになンねェな」

不躾な言動を繰り返すのは、獅子にも似た黄土色の長髪をなびかせる男だった。

涼し気な顔の美丈夫にも見えるが、適当に着たらしい着物に引っ掛けただけの羽織、手にした瓢箪から察するに随分横着な男らしいことは、菖蒲にも簡単に察せられた。

そして何より目を惹くのは、蓮よりも背の高いらしい、目測でも六尺に届くかという背丈だ。威圧感も顕というべきか、菖蒲はなんとなく従者の背に関する揶揄いを思い出し、余計に不機嫌になりながら喧嘩を叩き返した。

「無用な悪態をつく人間の大抵は、役立たず以下だと聞くがな」

男の涼し気な目元がスッと歩染まり、口角が上がる。

「試してみるか?お坊ちャン。俺とお前、どッちが役立たずなのか、さ」

男の浮かべた不敵な笑みは、背筋を凍らせるようなそれだった。

菖蒲は僅かに眦を吊り上げて、にこりともせずに言い返す。

「先に言っておくが、姫鶴がただの『お坊ちゃん』を寄越したと思っていると、痛い目を見るぞ」

ケラケラと、男は楽し気な笑い声をあげた。

「へェ、そりャあ楽しみだ―――なッ‼」

男は右足を小さく上げると、勢いよく一歩前に踏み出した。

すると、まるで地の底から何かが這いあがってくるような気配と音を連れて、光の刃が菖蒲の身体を的確に狙ってくる。

菖蒲は小さく双眸を見開いたが、身軽に羽織を揺らして刃を交わし、着実に男のもとへと距離を縮めていった。

(――――――速い)

男は内心で、そう呟いた。

だが、その顔には余裕の表情が浮かび、瓢箪を宙へと放り投げる。そして引っ掛けていただけの羽織を菖蒲の方へと投げ捨て、ひらりと背後に立つ。

だがその動きさえ見定めていた菖蒲は、地に手をついてバネのように背から倒立し、両足で的確に男の両手を封じると、グワッと起き上がった。

ギョッとしたらしい男の顔など残像程度にしか水、菖蒲は起き上がる刹那に構えた拳で、思い切り男の右頬をぶん殴った。

だが、それで僅かに体勢を崩しただけの大男は、菖蒲の足をがっしりと掴んで宙へと放り投げた。

菖蒲は先の戦闘のように、今度は巨木の幹を足場にして難なく体勢を立て直し、電光石火と言える速さで男の胸に蹴りを入れた。

小回りの利く体で、時には拳を受けつつも緩和し、まるで鶴が空に飛び立つ身支度をしているように、ひらひらと羽織を揺らして蹴りや殴りを的確に入れていった。

そして、男が菖蒲の着物の襟首を掴んで軽く持ち上げると、そのまま後ろに叩きつけるように振り下ろす。

菖蒲が地面も間近のところで下半身を捻って足をつき、互いに急所に手を届かせた瞬間―――――。

「ちょい、お二人はん。それ、いつまでやるつもりなん?」

随分とこの場にそぐわない、可憐な声がそれを制した。

男と菖蒲が同時に声の方へと視線を向ければ、桃色に色づいた目じりと口紅が艶やかな、花も盛りの女が一人、楽し気に笑っていた。

山藍摺色の長髪はハイカラに結わえ、少しばかり目じりの吊り上がった花緑青の双眸は、微笑んで細められているためか、意外にも柔らかな印象だ。

見慣れない着こなしの着物に身を包む女は、一見すれば妓楼に居るような人間にもとれる。

だが、この派手な男と並ぶと、何故か初めから二人で一つのような、妙な溶け込み方をする女でもあった。

「おいいばら、男と男の決闘に水差すんじャねェよ」

「そんなん、うちが気にしてどないするんや。お話合いに拳はあかんやん」

気軽に会話している様子からも、どうやら両者は気ごころの知れない間柄であるらしい。

「お前が言ッたンだろうが、ボンボンには強行突破だッてよ」

「言葉のあやってもんを知らへんわけ?けったいなとこであほ正直やねぇ、あんた」

茨、と呼ばれたその女は、菖蒲に向かって嫣然と微笑んだ。

「うちのあほ酒呑しゅてんがかんにんなぁ、坊。うちらな、あんさんら迎えにきたの」

「……迎え?」

そ、と茨は人差し指を唇に押し当てた。

「酒呑の言う通り、あんたらがのんびり屋はんやさかい、うちらが保ってきた帝都の有様を見ておしてね」

僅かに眼の鋭さを増した茨の様に、それまで隙なく菖蒲の急所に手を当てていた、酒呑なる男が急に気配を震わせ始める。

菖蒲は訝し気に眉をひそめ、次いで、何故か朽ち果てた寺の元まで歩み寄り、探すように見渡している茨の様子に小首を傾げた。

「……おい小僧、悪いことは言わねェ。いますぐお供連れてどッかに隠れろ」

は、と菖蒲は男の言葉に余計に首を傾げる。

「あいつ、今最高に機嫌悪いぞ。何しでかすか分からねェッてンだよ。……ッておい、茨、お前マジで何やッてンだ……?」

動揺が本格的に男の顔に出た時――――茨は、それはもう軽々と、横たわっていた寺の柱らしき何かを、

これにはさすがに菖蒲も唖然とし、小さく口を開ける。

茨の華奢な身体は、丸みのある肢体という女性の特徴を除いては菖蒲とほぼ同じといっていいものだ。ところが今見せつけられているその怪力は、菖蒲はおろか並みの男でさえ持っていないものである。

「んもう、酒吞が先走ったさかい、やり損ねかけたやないの」

可愛らしく頬をふくらませているが、これは菖蒲にも分かったが分かりたくはなかった。

つまり、その手に持った柱で、何かするというわけで。

「てなわけで、うっかり死なんといてや、坊?」

「ちょ、待っ」

――――先ほどの青坊主の手足も大概だったが、この勢いよく何かが風を切る音ほど、身の危険を感じるものは無い。

菖蒲はなぜか冷静にそう心のうちで思いながら、次々と投げられるというより飛んでくる瓦らしい何かや、時には樹齢何十年という巨木をなぎ倒す威力の物理攻撃を躱しつつ、主に身の危険が迫っている時ほど役に立とうとしない従者を探して、雑木林を駆け抜けた。

「か弱い乙女の親愛表現やないの、逃げんといてや」

面白そうに笑いの混じるその声が、むしろ妖との相対より背筋を凍らせる何かを持っていることが、菖蒲は何より怖ろしかった。

「笑えない冗談言うな!というかそこの金髪、お前の連れだろうが!巻き込んでどうするんだよ!」

見れば男は後頭部を瓦に直撃されてしっかり伸びていた。茨は見境ないらしい。

「くそっ、あの莫迦従者‼妖怪揚げ足取り‼どこいった‼‼」

菖蒲はひとまず林の陰に隠れて潜り込み、グッと足に力を込めて中腰になると、天高く跳んで、幹を足場に跳びながら従者を探した。

「ほんまに鳥みたいやねえ、面白ぉい」

小さくケラケラ笑うと、突如、彼女は右足を後ろに引いた。

「せやけど―――甘い!」

そう言うや、これまでとはけた違いの威力で、なぎ倒した巨木を菖蒲に向かって力強く投げた。

背後から空気を押してやってくる何かに、菖蒲はギョッとした顔で振り返った。

「―――――仙弔花」

刹那、菖蒲ごと木を薙ぎ倒しかけた二本の巨木が、文字通り木っ端微塵に散らばる。

速過ぎる速度と動きから察するに―――姫鶴の技。それも、術者無しでものを動かせる力量。

菖蒲は後ろ向きに宙返りして幹を足場にすると、飛来した刀の主の元へ降り立った。

「若様の五月雨なら、あの程度出来たでしょうに。相変わらず強情でいらっしゃいますね」

「お前に仕事させただけだ」

「まあ、そういうことにしておきましょう」

減らず口で出迎えたのは、従者の蓮。

ようやく出て来たか、と菖蒲は不機嫌そうに眉根を寄せた。

だがこの男は主の様子を物ともせず、ぽん、と菖蒲の頭に手を置いた。

「若様、子どもですし」

ムッとした顔を浮かべたが、これ以上減らず口を叩かれても平行線だと思い、菖蒲はそっぽを向くに留める。

「いやあ、お見事、お見事。うちもまあまあ楽しかったし、このくらいで勘弁したるなぁ」

手を叩いて子供のように無邪気に笑っている怪力女……もとい茨に、蓮は平時の胡散臭くも穏やかな笑みを向けた。

「これはどうも、可愛らしいお嬢さんが一体なんの御用ですか」

意外にも警戒も顕な蓮の様子に、菖蒲は目を瞬いた。

「お偉いさんたちの手ぇ借りれるって酒吞が言うさかい、舞い上がってもうて。ちょいとした実力試しよ、ほんまに使えるのかどうか」

にこ、と茨は微笑んだ。

修祓師の名門、しかもその宗家や近親家出身者に、ここまで上から目線というのはいっそ清々しいほどのものだ。

菖蒲の唇に人差し指を押し当てた茨は、狐のように細めた眼で彼を捉える。

「言うたやろ、お迎えに来た、って」

その言葉に、菖蒲は彼らの発言を反芻し、「そういえば……」と零した。

「まあ、立ち話もなんやし、どや?東京観光、していかへん?」

菖蒲と蓮は目を見合わせ、すっかり上機嫌になった茨と、いつの間にやら復活したらしい金髪の男に視線をやった。

「……そもそも、お前たちは何者だ?」

その言葉に、茨は僅かに振り返って目を瞬き、困ったように微笑む。

「あれ、言うてへんかったかしら」

後頭部をさすりつつ、茨に代わって男の方が声を上げた。

「俺たちは野良のらさ。お前らが腰を上げるまでの間、帝都の妖をどうにかして回ってた」


「お前らと同じ、修祓師だよ」

男の言葉に、菖蒲は一層目を瞬いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

菖蒲夜叉 天宮 翡翠 @amamiya-01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ